第38話 豊川
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(仁級)
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫、止級研究所社長
・大崎…止級研究所総務部長、義悦の腹心
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(仁級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(仁級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・臼杵鑑彦…松井厩舎の専属騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・国司元洋…岡部厩舎の厩務員
・阿蘇、五島、千々石、大村、内田、成松…岡部厩舎の厩務員
・宗像真波…岡部厩舎の女性厩務員
・及川、中山、田村…紅花会の調教師、逮捕
・千葉、高木、神代…紅花会の調教師(仁級)
・平岩親二…紅花会の調教師(仁級)
・杉尚重…紅花会の調教師(仁級)
・坂広優…紅花会の調教師(仁級)
・浅利…竜主会監査部
・松浦…久留米競竜場元事務長、逮捕
戸川は仕事から戻ると、明日、君にはなるべく早く豊川に来てほしいのだそうだと岡部に伝言した。
「誰からですか? 会長ですか?」
「六郷や」
岡部が嫌な予感しかしないと戸川に言うと、身構えたくなる気持ちはわかるが挨拶がしたいだけだと思うと苦笑いした。
翌日、岡部は忘年会の開会より三時間も早く豊川の大宿へと向かった。
さすがに受付は大宿の人で、岡部だと名乗ると、お待ちしていましたと言って小会議室を案内された。
小会議室には背広姿の男性が三人待機していた。
三人はそれぞれ、小野寺、六郷、馬鞍と名乗った。
名前だけ聞いてもよくわからなかったが、六郷という方は昨年の豊川で拝見したのを覚えている。
中々に気さくな人物で、三浦の下に挨拶に訪れ、最初は今年は良い成績だったなどと言っていたのだが、そのうち孫への小遣いができましたねとからかって追い払われていた。
岡部はあまり関りが無いので面白いおっさんという印象だが、戸川も大宝寺も金に厳しいと言っていたので、仕事の顔はそれなりに違う顔を持っているのだろう。
六郷は、小野寺を競竜部部長、自分を管理課課長、馬鞍は仁級係長だと紹介した。
「岡部先生。早くに呼び出してしまって申し訳なかったですね」
三人を代表して六郷が挨拶をした。
「僕に特別何か御用でしょうか?」
「大宝寺部長や呂級の先生たちから先生の事を伺っていまして、一度ちゃんと挨拶しておきたいと思いましてね」
六郷は大宝寺同様、三浦、戸川双方から岡部の噂を耳にしており、砂越たちが言う岡部像が虚像だという事は知っていた。
知ってはいたが実際に直接話した事は無く、あくまで話で聞いている限りであり、対立できるほど確信が無かったのだった。
「そうだったんですね。てっきり前任者のように頭ごなしに苦情をいれてくるのかと……」
「どうやらうちらに対してかなり警戒されているようですね。まあ、あんな事があったわけですから無理もありませんけどね。じゃあ一つ心をほぐしておきましょうかねえ」
そう言うと六郷は馬鞍の顔を見て、お前を連れてきて正解だったと苦笑した。
馬鞍という係長は二人に比べると非常に若く、まだ入社何年目という程度に感じる。
馬鞍は六郷から促されると岡部に微笑みかけた。
「先生、私が南国の先輩に送った振込み一覧はお役に立ちましたか?」
「え? じゃああれは馬鞍さんが?」
馬鞍はにこりと笑って、こくりと頷いた。
「先輩から調査を依頼されて密かに小野寺さんに相談したんです。資料自体は既に見つかっていたものだったんですが、それを先生に渡すべきかどうかというので迷いましてね」
最終的には小野寺の判断で極秘資料扱いという事で流せという話になった。
ただし、この事を知っている人物だけは全て把握しておけと。
「小野寺さんって聞いたところでは監査部でしたよね? 大崎さんと馬鞍さん、三人はどういう繋がりなんですか?」
「実は私、初配属が経理部で大崎さんの部下だったんです。例の事業で大崎さんが南国に行って競竜部に異動に。異動して数日後に、大崎さんから何か言われたら教えてくれって小野寺さんに言われて……」
「という事は元々小野寺さんは、この件を密かに調査していたという事ですか……いや、違うな。大宝寺さんから極秘調査するよう使命を帯びて異動したという方かな?」
三人は顔を見合わせた。
小野寺はお見事と言って思わず手を叩いた。
「大宝寺部長から聞いてた通り察しの早い方だ。実は私たちもずっと公開する時期を探っていたんですよ。内容が内容ですからね。下手すれば調教師の先生方からの信頼を失い、会派が崩壊しかねないわけですから」
そんな折、南国の極秘事業の話を耳にし、そのきっかけとなった人物、岡部という人物を知った。
さらにその人物は調教師となり問題の久留米に行く事になった。
これが自然な形で明るみになれば、久留米の三人の関連の悪事という形で公表できるかもしれないと感じたと小野寺は説明した。
「そもそも、それを調べようと思ったきっかけって何だったんですか?」
「元々、社内でも砂越たちの羽振りの良さに疑問を持つ者は少なくなかったんです。経理資料見ても不自然な所がありませんでしたから余計にね」
小野寺の説明に岡部は首を傾げた。
「不自然な所が無いのが不自然なんですか?」
「取引規模の大きな組織の経理って、どこかしらに整合を取った後が残るもんなんですよ」
「じゃあ綺麗すぎるから裏帳簿があるんじゃないかと睨んだと」
小野寺は無言でこくりと頷いた。
先生だって帳簿合わせに苦労してるでしょと馬鞍が笑い出した。
厩舎運営も営利で行っている以上、会計帳簿は必須である。
納税にも関わってくる問題なので、最悪の場合、脱税の嫌疑で査察されかねない。
事務棟にも会派にも専門の会計士がおり、どの調教師も頻繁に相談している。
ただ、どうしても少額の差異が出る事がある。
岡部厩舎の場合、多くは少額備品の購入が原因だったりしている。
小野寺は椅子から立ち上がると、色々骨を折ってくれてありがとうと深々と頭を下げて礼を述べた。
六郷と馬鞍も一緒に立ち上がって頭を下げた。
小野寺は、これに懲りず紅花会を見捨てずにいて欲しいと握手を求めた。
岡部は紅花会は僕の家ですからと言って小野寺の手を取った。
小会議室を退室すると、外に大宿の支配人が立っていて岡部を別室の会議室に案内した。
扉を開けると、そこには見慣れた人物が座っていた。
「会長、報告が遅くなりました。受けたまわっていた件はほぼ完了したと思います」
最上はうんうんと頷くと、岡部に椅子に座るように促した。
「ご苦労だったね。話は大宝寺から全て聞いた。色々と大変だったろう」
「まあ、それなりに。会長にも記者会見なんかでご迷惑をおかけしてしまって」
「あんなものは大した事はない。なにせあの馬鹿どもはもっと迷惑をかけたのだから」
最上が岡部に微笑むと、岡部は少しバツの悪そうな顔をした。
「結果的に紅花会の本社内にまで制裁が及んでしまいまして、大宝寺部長が辞任する事に……」
「冷たい事を言うようだが、あの事を放置したのは大宝寺だからな。それはやむを得んだろう」
「今後、会派の評判の回復が大変ですね」
岡部が眉をひそめると、最上は右手で額をさすった。
「それだよ。困ったものだ。君たちに活躍してもらって地道にやっていくしかないのだろうなあ。どうだ? 上には行けそうかな?」
「大言壮語するつもりはありませんけど再来年までには何とか」
それを聞くと最上はぱっと表情を晴れやかにした。
「そうかそうか。他に久留米で上がれそうな者はいたかな?」
「どうでしょうねえ。種は残していこうとは思っていますので、後はどれだけ発芽するかだと思います」
そこまで聞くと、最上は飲んでいる珈琲の器を小刻みに震わせた。
突然、最上は目に涙を湛えた。
「嬉しかったよ。君が報道に紅花会を愛していると言ったのを聞いて」
岡部は少し照れくさそうにして、あれは本心だと言って微笑んだ。
「正直、最初に戸川から報告を受けた時、本社のあまりの体たらくに見捨てられやしないか不安だったよ」
「僕の祖父の大事にしてる会派を見捨てるわけないじゃないですか!」
最上は岡部の手を取り何度もありがとうと繰り返した。
「そんな顔で衆目に出るわけにいかないでしょう。風呂にでも入ってきてください。僕は連れを迎えに行ってきます」
「そうするよ。後でまた会おう。うちのも君に会えるのを、ずっと楽しみにしていたぞ」
「僕も皆さんに会えるのが楽しみでしたよ!」
そう言うと岡部は時計を見て会議室を後にした。
小会議室を出て受付に行くと、早い人たちはもう受付を済ませていた。
それを横目に岡部は豊川の駅に急いで駆け付けた。
駅の外に着慣れない背広に身を包み、あっちこちをキョロキョロと見て不安そうにしている服部の姿が見える。
「先生、遅いがな! どこに行っとったんよ!」
「ごめんごめん。二時間も前に来て会長やら何やらと挨拶させられててさ」
「そんなん言われたら責められへんやないですか。ずるいわ」
岡部は拗ねる服部の背中をぽんぽんと叩いた。
「今日、呑み放題、食べ放題だけど先日みたいにハメ外しすぎんように頼むよ」
「ハメ外さへんかったら、飲み食いし放題いう事ですね!」
岡部は服部の頭を軽くはたいた。
「自分に都合良く編集するんじゃないよ」
服部はえへへと小僧のような笑い方で愛想を振りまいた。
二人が大宿に向かおうとすると、後ろから岡部を呼ぶ声が聞こえた。
駅の方を見ると、戸川と櫛橋が岡部たちの方に向かって歩いてきた。
「櫛橋さん、お久しぶりですね!」
「ほんまやね。この子が例の服部君?」
服部はカチコチに緊張して初めまして服部ですと挨拶した。
櫛橋は服部に、開業から暫く嫌がらせされて大変だったって聞いたと話を振ったのだが、服部は、はい大変でしたとしか言わなかった。
「なんや、緊張しとんの? 大丈夫やで、お姉さん見た目通り優しいんやから」
櫛橋は服部の衿締が曲がってると言って直してあげたりした。
服部があまりに緊張してるのを見て岡部はどうかしたのかとたずねた。
すると服部は岡部の顔を泣きそうな顔で見た。
「何やようわからへんけど、この人、宗像さんと同じもんを感じる」
「良い感性してるじゃないか。荒木さんもそう言ってたぞ」
二人は小声でひそひそと言い合った。
「そこの二人! 今、絶対私の悪口言うてたやろ! そういうん、わかるんやからね!」
「櫛橋さんが綺麗だから見惚れたそうですよ」
「岡部先生! そういうんはね、ちゃんと本人の顔見て言わんと、今とっさに思いついた嘘やって、バレバレなんやで」
櫛橋は岡部の耳を引っ張り、背けていた顔を無理やり自分の方に向けた。
「も、もうしわけありません……」
櫛橋に説教される岡部を見た服部は宗像さんより怖いとぼそっと呟いた。
それが聞こえた戸川は服部の頭を撫でながら笑い出した。
大宿に入り受付を済ませると、戸川はさっそく八級の調教師たちに囲まれていなくなってしまった。
櫛橋はそれを見て相変わらず先生は大人気だと笑い出した。
遅れて受付をした三浦が岡部たちを見つけ声をかけてきた。
「岡部、よう頑張ったな! 新聞の記事やら何やらで、うちらも色々と案じておったよ!」
「思った以上に病巣が深くて驚きましたよ。そのせいでここにいる皆さんに迷惑をかけてしまって」
「迷惑をかけたのはお前じゃない、やつらの方だ! それをお前が気に病む事はないよ!」
三浦は岡部の肩にそっと手を置いた。
今日はあの一件が終わった祝賀会でもあると言って大笑いした。
「そういえば、あの赤毛の新竜はどうでしたか?」
「岡部、やっぱりお前は良い感性をしとる! 来年を見ててくれ。かならず重賞で活躍させてみせる!」
いつになく自信たっぷりの三浦に、櫛橋がそんなに良い竜なんですかと驚いている。
三浦はあんなに良い竜初めて預かったと興奮気味に言った。
「名前は何になったんですか?」
「『サケサイウン』という名前になった。幸運を呼ぶ雲なのだそうだ。すでに中距離の新竜戦を勝ったんだぞ! それもぶっちぎりで!」
本質的には長距離の竜だから、それが中距離であれだけやれるという事は『タイセイ』級の大物という事だと自信たっぷりに三浦は言ってのけた。
「おお! そんなにですか! 戸川先生の方は体質が弱かったそうですけど?」
「こっちは健康そのものだ。戸川には悪いがこっちの方が活躍するだろう」
三浦は岡部の背中をパンパン叩いて、お前のおかげだと言って喜んだ。
話がひと段落すると、三浦の随員の中里が少し話があると岡部に言ってきた。
櫛橋が中里の後ろに付き添った事で、岡部は何の話なのかすぐに察した。
後ろにいた櫛橋が鞄から一通の白い封筒を取り出し岡部に手渡した。
「実は来月美鈴と結婚する事になったんですよ。それで、岡部先生にも披露宴に出てもらいたくて」
「それは、おめでとうございます! 会場はどこになるんですか?」
「福原と鴨川、二人の実家の間を取ってここでやる事に」
先生都合付けれそう?と櫛橋が不安そうな顔をする。
「なんとか都合付けて出席させていただきますね」
中里は、ありがとうと言って岡部と握手を交わした。
岡部が服部や三浦たちと談笑していると、壇上に最上と戸川が上がった。
乾杯が終わると久留米の調教師が次々に岡部に会いに来た。
その後、今度は能島が愛子の調教師を引き連れ挨拶に来た。
能島は、岡部ならきっとやり遂げてくれると新聞読みながら先輩たちと話していたんだぞと、酒を注いで行った。
小田原と紀三井寺の調教師も、岡部を一目見たいと言ってやってきた。
櫛橋はそんな岡部を見て中里に、少し会わない間に随分と遠くに行ったもんだと感想を漏らした。
中里は、俺が年初に皇都に行った時には既に遠い所にいたと、調教師たちと談笑している岡部を見ながら言った。
美鈴ちゃんは距離が近すぎて気が付かなかっただけだよと。
櫛橋は寂しそうな顔で、やんちゃな弟みたいな感じだったのにと呟いた。
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