第35話 傷痕
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(仁級)
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫、止級研究所社長
・大崎…止級研究所総務部長、義悦の腹心
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(仁級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(仁級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・臼杵鑑彦…松井厩舎の専属騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・国司元洋…岡部厩舎の厩務員
・阿蘇、五島、千々石、大村、内田、成松…岡部厩舎の厩務員
・宗像真波…岡部厩舎の女性厩務員
・及川、中山、田村…紅花会の調教師、逮捕
・千葉、高木、神代…紅花会の調教師(仁級)
・平岩親二…紅花会の調教師(仁級)
・杉尚重…紅花会の調教師(仁級)
・坂広優…紅花会の調教師(仁級)
・浅利…竜主会監査部
・松浦…久留米競竜場元事務長、逮捕
十一月、定例会議が開催された。
岡部から、荒木、国司、服部の三人へいくつかの通達があった。
一点目は、今月、編入した五頭全ての竜を出走させ、どの程度走れるか見るというもの。
能力戦三までの呂級と違い仁級の古竜は能力戦四まで勝てないと重賞挑戦できない為、できれば毎月走らせていきたいというのが岡部の展望である。
二点目は、今月から交代で十日程度の長期休暇をとってもらいたいというもの。
仁級は毎月重賞がある為、休みどころがない。
その為、一年を通して働きづめになる危険性がある。
現在勤務表は岡部が作成しており、希望を聞きながら順次入れていくという事になった。
ただし服部についてはそういうわけにいかず、松井と提携して臼杵と交代で休みを取っていく事にした。
岡部としては、夏と冬、二回こういう機会を取りたいと思っている。
もし旅行に行く際には紅花会の宿で割引が効くので利用するようにと宣伝も忘れなかった。
三点目、先日の事件の件で今後突発で呼び出しがあるかもしれない。
その日、荒木が休みや休暇中である場合、正式に国司に代行をお願いする事になった。
もちろん服部に補佐をお願いするし、その日の厩務員の中で最年長の者も補佐してもらうという事にした。
翌日からさっそく荒木が長期休暇に入った。
二週目に『ヨツバ』を月曜日の能力戦一の短距離戦に登録。
『カミシモ』を同じく月曜日の能力戦二の中距離戦に登録。
『スズシロ』を火曜日の能力戦一の中距離戦に登録。
結果は三頭とも一着で終着。
その中でも『ヨツバ』がかなり強い勝ち方をしており今後に期待を抱けそうであった。
三週目『ヨウカン』を月曜日の能力戦一の短距離戦に登録。
『ギュウヒ』を月曜日の能力戦一の中距離戦に登録。
『センテイ』を火曜の能力戦一の長距離戦に登録。
結果はこの週も三頭とも一着で終着。
三週目の競走が終った翌日、岡部厩舎に神代調教師がやってきた。
神代は珈琲があまり好きではないようで、珈琲を淹れようとしたらお茶を所望された。
「何であない苦いもんを好んで飲みたがるんかわからへんわ」
急須からお茶を淹れて湯飲みを差し出すと、神代はやっぱりこれだよと言って啜った。
「僕は、珈琲は砂糖も牛乳も入れない派ですけどね」
「何が旨いんや、そんなもん」
『酸っぱくて苦いだけの濁った汁』
そう神代は悪態をついた。
「その苦味と酸味が旨いんですよ。あとは豆の香りですかね。僕、結構こだわってるんですよ。お湯入れるだけの渇式でも味は全然違いますからね」
「わけわからんわ」
神代はお茶が一番落ち着いて良いと言って啜った。
お茶だって茶葉によって表情が全然違う、珈琲もそれと同じだと岡部は説明した。
岡部は自分の出身地に近い『やぶきた茶』を好んで飲むが、戸川は『玉露』を好む。
そのせいで岡部はお茶は苦味が旨いと思っていたが、戸川はほのかな甘さが良いと言っている。
「なるほどな。俺も味覚は戸川さんの方やな。俺も茶葉にはこだわってるけども、基本買うんは玉露やもん。正直、このお茶やとちと苦く感じるもんな」
お茶をひとしきり堪能すると、神代は湯飲みを応接机に静かに置いた。
「しかし、二週で六勝とか。噂には聞いとったけども大した腕前やなあ」
「元々良い竜なんですよ。あいつらが恐ろしく腕が悪かっただけで。そもそも、あんな下の能力戦に出るような竜じゃないんです」
格が違うんだから普通にやれば普通に勝てる。
それを凄いと言われてしまうと少し気恥ずかしいものがある。
「そうは言うてもな、ひと月調教しただけで転厩した竜全部勝たせたんやろ? 開業初年度の新人調教師のやる事とちゃうで」
「だから、元々一勝二勝で燻ってる竜なんかじゃないんですよ」
「そやから! それをわずかひと月で結果を出すんが凄い言うてるんや!」
岡部は神代が及川たちの竜の分配に苦情を言いに来たのだと感じた。
基本方針として元々の厩舎に戻したせいで、確かに、千葉、高木といった経歴の長い調教師は割を食う事になったかもしれない。
その分、廃業した調教師の所属だった竜を分配したが、それでも不公平感は残ったかもしれない。
「研修でやってた事をそのままやってるだけなので、凄いと言われましても……」
神代は片手で頬杖をつき大きくため息をついた。
「はあ……うちの何があかんのやろうな。替えてもらった竜、先週出したんやけど四着やったんやわ」
その言葉で神代が何を言わんとしているかを理解した。
どうやら苦情を言いに来たわけでは無いらしい。
「駆動はちゃんと後脚にしてます?」
岡部の指摘に神代はぴくりと眉を動かした。
「どういう事やそれ?」
「あまり大きな声では言えないんですが、うちの牧場の竜は馴致に抜けがあって、駆動が後脚になってない仔が多いんですよ」
珈琲を啜りながら説明すると神代が身を乗り出してきた。
「駆動の前後ってどう確認するんや?」
「調教で一杯で追う時に騎手に体重を前にかけさせれば一発でわかりますよ。駆動が後ろになってれば均衡が取れて加速が上がるんです。駆動が前だと逆に遅くなります」
仁級は最後の直線での末脚が勝負を決する事が多いから、駆動が前だと切れ負けする事になってしまうと説明した。
神代はうんうんと何度も頷いて、ゆっくり背もたれに身を委ねた。
何かを思案しながらゆっくりとお茶をすすった。
「なあ、一回うちに監修に来てくれへんかな?」
「良いですよ。いつにします?」
まさか二つ返事で了承してもらえるとは思っていなかったのだろう。
神代はかなり面食らった顔をした。
「年内やったらいつでもええよ。こっちは藁にもすがるつもりなんやし」
「僕は藁ですか?」
「筏みたいな藁やと思うてるよ、岡部『先生』!」
神代はニヤッと笑うと岡部の肩をポンと叩き、お待ちしていますよ『先生』と言って厩舎を後にした。
最終週『ジャコウ』を能力戦四の中距離戦に登録。
これに勝てば、いよいよ重賞へ挑戦できるようになるのだが、残念ながら惜しくも二着に終わった。
最終週の競走が終わった翌日、岡部は神代厩舎へと向かった。
神代から話を聞いた平岩が見学に駆けつけて来ていた。
まず竜房を一通り見せてもらった。
岡部が睨んだ通り神代の竜の多くが駆動が前脚になっている。
「この『コノハ』という仔なんかはわかりやすいんですけどね、前脚と後脚の太さに差が無いんです」
その指摘に神代より平岩が感心している。
「そもそも仁級の竜は後脚の方が太いはずなのに、そうなってないって事はずっと前脚で走ってるって事なんですよ」
それだと何が悪いのかと平岩が尋ねた。
最後の直線までは前脚で自分の体を引っ張るように、最後の勝負所では後脚で自分の体を前に押し出すように走るのが理想だと岡部は説明した。
前脚は持久力を持った筋肉を鍛え、後脚は瞬発力を持った筋肉を鍛える。
持久力を持った筋肉と瞬発力を持った筋肉を、同時に同じ部位で鍛える事は極めて困難だが、この方法であればそれが可能となる。
説明を聞いた二人は口を揃え「へえ」と唸った。
次に竜の戦績と調教方針を見せてもらった。
「仁級の竜は休ませるとすぐに筋量が落ちはじめるので、競走後などで追い切りしない週も、ちゃんと乗り運動はさせた方が良いと思います」
「怪我したりせえへんの?」
「按摩をしっかりやれてれば問題ないですよ。疲労が溜まったと思ったら放牧すれば良いだけの話です。そういうのはうちらよりも厩務員さんたちの方が気付くと思いますので、しっかり報告を聞いていただければ」
二人は無言で首を小刻みに縦に揺らした。
「他にも技術的なものは色々あるとは思いますけど、基本はそんなところだと思いますので、そこからは自分で工夫してやってみていただけたら」
「ありがとう。さっそく明日からやってみるよ。今度酒でも奢るよ! ……平岩が」
そう言って神代がゲラゲラ笑い出した。
それが先輩の言う言葉かと言って平岩は不貞腐れた顔をする。
「奢っていただけるのは嬉しいのですけど、そもそも会派って、こういう情報を共有して助け合っていくものなのでは?」
神代と平岩は顔を見合わせて首を傾げ合った。
「俺が来た時にはもうあいつらがおって嫌がらせされたからな。そういう事した事が無いねん」
そう神代が信じがたい発言をした。
今八級にいる及川たちの先輩も、その頃はまだ久留米にいたのだが、あの三人はその先輩の目を盗んで嫌がらせをしてきていた。
「俺らが先輩の厩舎に行ったりすると、どこからともなくあいつらがやって来てな。余計な事を喋ってへんやろうなって言われて嫌がらせされたからな」
岡部は大きくため息をついた。
あまりにもあいつらから受けた傷が深すぎる、改めてそう実感した。
「僕で良ければいくらでも相談に乗りますから、遠慮なくうちの厩舎に来てください」
俺たち六人が交代で行ったら、お前が仕事にならんだろと平岩が心配した。
「さすがにそこは先輩たちでも情報共有してくださいよ」
平岩は神代と顔を見合わせるとニヤリと笑った。
「神代さん、どうします? 他の四人に教えます?」
「そうやなあ。できればタダでは教えたないなあ」
「飲み代払ってもらえそうですもんね」
ニヤニヤしながら変な計算をしている二人を岡部は非情に冷たい目で見続けた。
「冗談やん、岡ちゃん!」
「そうだぞ! 俺たちがそんな狭い了見なわけないだろ!」
本当に頼みますよと言って岡部は二人を呆れた顔で見た。
神代にお茶を淹れてもらって応接椅子で三人で堪能した。
かなり良い玉露を使っているらしく、渋みが少なく、ほんのり甘味を感じる。
お茶の淹れ方もかなり上手だと感じる。
「お、わかる? これな、宇治の良え店のお茶を取り寄せとるんよ。お前が珈琲にこだわっとるように、俺もこだわっとるんやで」
俺は酒にこだわってると平岩が言うと、神代は、それは知らなかったと笑った。
酔えれば何でも良いと思っていたと。
「久留米がこんなや無かったらなあ。間違いなく岡部が今年の新人賞やったやろうに」
神代は岡部の顔をしみじみと見て平岩に向かって言った。
「新人賞じゃなかったにしても、大差どん尻は無かったでしょうにね」
現在、新人の成績は紀三井寺の武田が首位、二位が松井、三位が愛子の大須賀となっている。
武田と松井はかなり差を詰めており、来月の成績次第で逆転もという状況である。
岡部は今月六勝の固め打ちをしたものの、四位の小田原の松本とは四倍以上の差を付けられてしまっている。
ここまで未勝利戦や能力戦一と言った賞金の安い競走ばかりで、残念ながらもう覆しようが無い。
「今年はさ、ものごっつい質が良えよな。新人で重賞の決勝に残るか? 普通?」
「しかもその子が四位だって言うんですからね。ちょっと信じられませんね」
松本は十月に『白鳥特別』の決勝に残っている。
結果は最下位ではあったものの、開業初年度の調教師が重賞の決勝に進出とかなり新聞を賑わしていた。
実はその時点では大須賀、松井を押さえて武田の差の無い二位であった。
だがそこから何があったのか大失速。
一勝もできず四位に落ちてしまっている。
「まあ、うちらとしては同じ久留米の松井を応援したいとこやな」
「そりゃあね。久留米から新人賞なんて、こんな良い特報はありませんからね」
しかも弱小の樹氷会っていうのが良いと言って平岩は笑い出した。
「そやけど、あの武田いうの稲妻の縁者なんやろ? 逆転したら松井は厳しい事になるやろな」
「でしょうねえ。稲妻のやつらは団結して当たってきますからね」
岡部がどういう事ですかとたずねると、神代は知らないのかと呆れ口調で言った。
「あいつら勝ち目の薄い竜を捨て駒にしたりして、とことんやってくるんやで」
「汚い手を平気で使うやつもいますしね」
規約ギリギリの事をする奴もいれば、規約違反覚悟のやつもいる。
重賞の予選でよくそういう事をされるんだと平岩は説明した。
「あの三人と違うてやり方が鮮やかやから君でも苦戦すると思うで?」
「まあ、岡部みたいな手出したら倍に返される類の奴には手は出してこんでしょ」
「違いない」
二人は岡部の顔を見てゲラゲラと笑い出した。
よろしければ、下の☆で応援いただけると嬉しいです。