第33話 京香
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(仁級)
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫、止級研究所社長
・大崎…止級研究所総務部長、義悦の腹心
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(仁級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(仁級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・臼杵鑑彦…松井厩舎の専属騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・国司元洋…岡部厩舎の厩務員
・阿蘇、大村、内田、成松…岡部厩舎の厩務員
・宗像真波…岡部厩舎の女性厩務員
・及川、中山、田村…紅花会の調教師、逮捕
・千葉、高木、神代…紅花会の調教師(仁級)
・平岩親二…紅花会の調教師(仁級)
・杉尚重…紅花会の調教師(仁級)
・坂広優…紅花会の調教師(仁級)
・浅利…竜主会監査部
・松浦…久留米競竜場元事務長、逮捕
紅花会の七人の調教師が事務棟の一室に集められている。
そこに少し遅れて京香が姿を現した。
「今日集まっていただいたのは、例の三人の調教師の管理していた竜を、先生たちで分配していただこうと思ったんです」
京香は精一杯の営業用の笑顔を向けたのだが、七人の調教師の反応はびっくりするほど冷たかった。
あれからかなり時間が経っているのに今さらかと早々に平岩がチクリと言う。
生き物相手の仕事なのに随分と悠長な事だと坂も呆れ口調で言う。
生き物の命を何だと思ってるんだと言って高木が冷たい目で京香を見た。
あの一件があった日、筑紫郡警が及川たちの厩舎を監視閉鎖してしまった。
厩務員も全員逮捕されており、及川たちの厩舎の竜の飼育が全くされないという事態に陥った。
岡部も、せめて給餌だけでもさせて欲しいと浅利に掛け合ったのだが許可は下りなかった。
竜を餓死させるのが竜主会の意向なのかと嫌味を言うと浅利は、ならば郡警と直接交渉してくれと言い出した。
言われた通り直接交渉したのだが、競竜法の関係で他厩舎の厩務員には手出しは許されないと郡警は主張。
それに対し岡部は、厩舎は解散になっているのだから他厩舎の竜ではなく単なる紅花会の竜という事になるのではと指摘。
だが、郡警はそんなのは屁理屈だと言って取り合ってくれなかった。
とはいえ、郡警としても目の前で竜が餌を食べられずに餓死するのは本意では無い。
せめて竜主会の見解が聞けないと特別許可は出せないと言ってくれたのだった。
だから、会派から正式に書面で竜主会に申請を出してもらったらどうかと郡警は岡部に提案した。
ところが肝心の会派の競竜部が機能不全でそれどころではなかった。
郡警も提案してからその事に気が付いた。
岡部の代わりに浅利が竜主会に相談してくれて、執行会の立ち合いの下でならという条件付きで、ようやく許可を取り付けた。
こうして執行会の立会人として事務棟の百武たちが毎回立ち会う事で、何とか飼育ができるようになったのだった。
「あまりにも管理がぐちゃぐちゃで、どれが誰の竜か全く把握ができなかったんです。競竜部も警察が立ち合いしてて機能停止でしたし」
京香は泣き出したくなるのをぐっと堪えてそう説明した。
だったらすぐにここに来れば良かったんじゃないのかと杉がすぐに指摘。
竜主の許可が無く、どれだけの事に制限をかけられていたと思っているんだと高木も呆れ口調で言った。
京香は、あまりの風当たりの強さに心が挫けそうになっていた。
「まあまあ。このお嬢さんが、あいつらの言いなりでこの事態を引き起こしたんやとしてもや、こうして僕らを見捨てずに来てくれただけ良しとしようや」
千葉の皮肉たっぷりのその一言で、京香は、これまで自分が調教師たちにどう思われていたかを知る事になった。
調教師たちからしたら京香もあの三人の協力者の一人だったのだろう。
現状把握も困難なくらい管理がぐちゃぐちゃになっているのに、それを良しとしていたのだから当然と言えば当然だろう。
さらに調教師たちにしてみれば、会派の担当が共犯だったのだから京香に対する風当たりが強いのはやむを得ないであろう。
「まあ、あの状況で会派の人間がここに来たら報道の良え餌食やからな。若いお嬢さんは、それが嫌やったんやないの?」
神代のその言葉は、京香が調教師たちから完全に誤解されているという事を現していただろう。
つまりは調教師たちからしたら京香を好意的に見る要素が何も無いという事なのだ。
千葉は岡部に、お前からも何か言ってやれと促した。
「京香さん、実際あれからどこまでここの状況を把握できたんですか?」
「現状の竜の所属を一頭一頭毎日人を集めて確認したんですが、中々……やっと整理がついたら、こんな日付になってしまっていて」
つまりは整理はしてきたが正確かどうか自信は無いという事なのだろう。
岡部は大きめの封筒を手に京香の前に立った。
会報に書かれている竜の所属、事件直前の竜の所属、登録整理後の竜の所属、それぞれ一覧にしたものを京香に手渡した。
京香は自分が持ってきた資料と岡部から渡された直前の所属一覧の資料を見比べた。
あれだけ時間をかけて作ってきた資料なのに全然内容が異なっていたのだった。
「事務長代理に監修していただいた上で、及川たちが好き勝手した転厩履歴を整理し、その上で及川たち三人に行っていた竜は整理前の厩舎名義で放牧処理しました」
そう言うと岡部は三人の厩舎に所属する竜の預託証と血統証を手渡した。
「……何という事務処理能力」
京香は唖然としてそれ以上の言葉が出せなかった。
千葉はそんな京香を見てさらに皮肉を言った。
「岡部とあんたら、どっちが会の管理者かようわからへんな。管理者がおらへん事でどんだけ岡部が苦労した思うてるんや」
この処理が全て済んだのは事件の三日後の事で、それから何日経ってると思ってるんだと平岩が言うと、嘘でしょと言って京香は顔を引きつらせた。
だからさっきから、すぐにここに来れば良かったと言ってると言って杉は京香を冷たい目で見た。
岡部は封筒から最後の一枚を取り出し京香に手渡した。
「これ、及川たちの厩舎に所属していた竜に対する、ここにいる七人の転厩希望です。京香さんが来る前に取りまとめておきました」
「あ、ありがとうございます」
これからそれを話し合おうと思っていたのに、先に話をまとめておいたと言われ、京香は完全に心が折れてしまった。
「京香さんも今から色々とやる事があるでしょうから、ここの部屋を使ってください」
「はい。少し時間をください。会と連絡を取りますので……」
京香は今にも泣き出しそうな顔をしている。
その顔を見て岡部は一人にさせてあげようと感じた。
「終わったらそれぞれの厩舎に報告してください。申請出しますので」
「わかりました。そうさせていただきます……」
「では、解散させていただきますね」
六人は即座に部屋から出て行ったが、岡部だけは部屋に残った。
「私もあの三人の一味ってずっと思われてたんだ。心外だな……」
京香は今にも泣き出しそうな顔でボソッと呟いた。
「あれでも、まだマシなんですよ? 最初は顔も見たくないって口を揃えて言ってたんですから」
「そんなにだったんだ。最悪……」
彼らの言うように、たとえ競竜部が駄目でも、及川たちがあんな無法者でも、竜主の窓口である京香がしっかりしていれば、こんな事にはならなかった。
それは確かにその通りである。
竜の所有者は調教師では無く竜主なのだから。
「だいたい、三厩舎の竜を七人で取り合いさせたら一日で収集つくわけないでしょ? それも彼ら怒ってたんですよ。うちらに大喧嘩させたいのかって」
「そうだったんだ。じゃあこれどうやったの?」
「僕が事前に分配して、これでどうかって打診したんですよ」
そもそも及川たちの厩舎にいた竜は、杉たちに配属した期待の竜ばかりである。
そこで転厩の履歴を見て基本は元々行くはずだった厩舎へ戻し、既に廃業している厩舎の竜は岡部厩舎へ所属させるようにした。
後は少し調整するだけで計算が合ったのだ。
「それで、すぐに納得してもらえたの?」
「僕が良いんだったら、それで良いよって言ってくれましたよ」
杉や平岩に至っては、分配じゃなく良い竜を全て確保してさっさと八級に昇格しろと言ってくれたくらいである。
「だけど凄い事務処理能力ね。ちょっと驚いちゃった」
実際には岡部は及川たちの厩舎の後始末と浅利の補佐で、まともに自分の厩舎には戻れていない。
その為、岡部厩舎の運営は杉たち六人が交代で代行してくれていたのだった。
「それは、あんな皮肉も言われるよね。でもね、信じてもらえないかもだけど、私もずっと久留米に行くって言ってたのよ。でも父さんと、光定にまで手ぶらで行って何になるって言われちゃって……」
母いろはから、すぐにでも久留米に行って岡部たち残った調教師の補佐をした方が良いと言われていた。
京香もそのつもりだったのだが、強固に父に反対されたのだ。
今行けば調教師の補佐なんてできず、報道対応に追われるだけだと言って。
いろははそれを岡部たちにやらせるのはおかしいと反論したのだが、志村は嫁入り前の娘を報道の晒し者にできるわけがないと声を荒げた。
行くなら自分が行くし、まさか手ぶらで行くわけにはいかないから、資料を整えてから。
ところが中々その資料が集められず、やっと集まった頃には京香が行っても大丈夫なくらい報道の熱は冷めていたのだった。
「机の前だけで仕事してるとそうなるんですかね。僕らからすると、さっさと現場に来ればいいのにって考えますけど。別に現場で仕事すれば良いんだからって」
平岩たちも言っていたが、本社競竜部が機能不全だった事で久留米では色々な事に制限をかけられていた。
竜主がいれば許可しても良いという事象がかなり多かったのだ。
「でもさ、管理者なんだもん。手ぶらで行ったら何しに来たって言われると思うじゃない」
「わからなかったら実情を確認しないと。うちらからしたら、事務処理なんて後でちゃんとやっておいてもらえればそれで良いんですよ」
「よく身に沁みました! 今後の教訓にさせていただきます!」
京香は、さすがに色々言われ過ぎて不貞腐れた。
かつて仕事上でこんなに責められた事があっただろうかというくらい指摘を受けたのだ。
「京香さんは管理者だけど接客の方が仕事だから、きっと管理業務してる部下がダメなんでしょうねって言ったら、皆ある程度納得してくれましたよ」
「それは実際のところ当たってると思う。帰ったら母さんと父さんに相談してみるよ。今は私に人事権が無いのよ」
岡部は少し言いづらそうに京香の顔を見つめた。
「……あんまり連絡が無いもんだから見捨てられたのかと思いましたよ。会派の名声に大きく瑕を付けちゃったから」
「そんなわけないじゃない。爺ちゃん喜んでたよ。もちろん私も嬉しい。そりゃあ快く思ってない人もいるけど」
京香が泣きだしそうな目で岡部を見ると、岡部は優しく微笑んだ。
「じゃあ僕も厩舎に戻りますね。そうそう、うちの厩舎隣に移りましたので」
空調の良く効いた広い会議室に一人京香を残して、岡部は厩舎に戻って行った。
岡部厩舎は及川たちの嫌がらせを一番受けており、七頭の管理竜が変更になった。
新竜の『ドングリ』と『ススキ』は無事戻ってくる事になった。
能力的なものを考え『ハンテン』『ナズナ』と交換してもらう事にした。
更に現在怪我で放牧している三頭も交換してもらった。
その五頭は残念ながらそのまま引退という処理がとられる事となった。
残ったのは『スイヘイ』『センテイ』『ジャコウ』の三頭。
そこに四歳の『ミツバ』、五歳の『ヨウカン』、六歳の『ギュウヒ』『カミシモ』、七歳の『スズシロ』が転厩となった。
『カミシモ』が能力戦二級、それ以外は全て能力戦一級の竜である。
九月も末になって、ようやく十頭の竜が岡部厩舎に揃う事になったのだった。
管理竜が増えた事に伴い、千々石、五島という二名の厩務員を新たに採用する事になった。
久々に観察台に追い切りを見に行った岡部は、服部の騎乗姿勢が非常に良くなっている事に気が付いた。
「服部、僕が後始末でてんてこ舞いの間に、ずいぶん巧く乗れるようになったじゃない」
「ありがとうございます。実は、ある先生の指導のおかげでして……」
岡部厩舎が襲撃された日に中断された騎乗矯正だが、翌日には早くも再開していた。
そこに大谷調教師が現れた。
大谷は無言で練習の風景をじっと見続けていた。
どこかに行くと手の平大の玉を二つと板を持って戻ってきた。
玉の上に板を乗せると、この上に膝立ちで乗ってみろと指導。
暫くやってみたのだが服部はあまり上手にはやれなかった。
臼杵が代わりにやってみると、最初は服部と同じように上手く立てなかったが、すぐに立てるようになった。
それがやれるようになってから今の練習に移ってみろと言って大谷は去って行った。
服部は翌日には普通に膝立ちできるようになった。
その後同じように後手で竜に乗ってみると数時間で乗れるようになったのだった。
岡部は御礼を言いに一人で大谷厩舎を訪れた。
前回とは打って変わって、大谷は応接椅子に座るように促しお茶を出してくれた。
「服部の事、ありがとうございました。おかげさまで力任せじゃない良い騎乗姿になりました」
「お前に対して色々と誤解があったようやからな。罪滅ぼし言うほどの事やないんやけどな」
相変わらずぶっきらぼうな感じではあるが、大谷は精一杯笑顔を作ろうとしてくれている。
「その……服部の事ですけど……」
「お前が来る前から服部からは聞いとったよ。お前、あれの親父の事、あれに全部話したんやってな」
そう言うと大谷は瓶のような大きな湯飲みに入ったお茶を啜った。
「ええ。その上で日章会所属のまま契約する事を薦めました」
「それを服部の方から蹴ったそうやな」
「はい。引退したらその時に考えると」
大谷はそれを服部から聞いた際、岡部という人物は他の紅花会の奴らとは違うかもしれないと薄っすらとではあるが感じた。
だがその後の服部の騎乗依頼の状態を見て、かなりガッカリしたのだった。
「やはり日章会に戻るように、再度促した方が良いでしょうか?」
「それはもうええよ」
大谷は薄っすらと笑みを浮かべ、またお茶を啜った。
「なあ岡部。お前は俺ら日章会の事をどう思う?」
「どうと言われましても……」
「周りが言うように俺もこの会派は斜陽やと思うとる。その上で復活させる為には何をしたらええんか日々考えとるんや」
すでに伊級にも呂級にも調教師はおらず、かつて勢いのあった頃の調教師たちの技術は失われて久しい。
かくいう大谷の師も八級の調教師なのだ。
「そう言う意味でなら、僕は底は脱したとみていますけど」
「ほう。お前がそう言うてくれるんは励みになるな。実は俺はな、会派の事務屋どもの意識を変えさせなあかんと思うとるんや。本社の奴らには俺たちを支援しよういう考えが欠けてんねん」
大谷の話を聞き、どこも一緒だなと岡部は思わず笑ってしまいそうになった。
「そんな些細な事よりも、大谷先生が上の級に上がる方が近道に感じますが?」
「悔しいが俺にはそこまでの才が無いねん。だがな、お前にはあると見たんや。なあ岡部よ、服部を頼む。会派があいつを失うた事を大いに悔むほどに服部を活躍させたってくれ。そしたらきっと会派も奮起する思うんや」
大谷は岡部の目を真っ直ぐ見て返答を待った。
「やれるだけやってみますよ」
「お前は超一流の競竜師や! あの三人を一瞬で差し切ったお前やったらきっとやれるよ!」
大谷は岡部の両肩をがっちりと掴んで険しかった表情をほころばせた。
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