第32話 夜明け
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(仁級)
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫、止級研究所社長
・大崎…止級研究所総務部長、義悦の腹心
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・松下幸綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(仁級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(仁級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・臼杵鑑彦…松井厩舎の専属騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・国司元洋…岡部厩舎の厩務員
・阿蘇、大村、内田、成松…岡部厩舎の厩務員
・宗像真波…岡部厩舎の女性厩務員
・及川、中山、田村…紅花会の調教師、逮捕
・千葉、高木、神代…紅花会の調教師(仁級)
・平岩親二…紅花会の調教師(仁級)
・杉尚重…紅花会の調教師(仁級)
・坂広優…紅花会の調教師(仁級)
・浅利…竜主会監査部
・松浦…久留米競竜場元事務長、逮捕
土曜日に日付が変わっても久留米競竜場は大混乱だった。
浅利は厩舎棟の入口を封鎖し報道の入場を全面禁止にした。
更に調教師、厩務員たちには箝口令を敷いた。
当然報道は不満を口にする。
そんな報道たちの前に筑紫郡警の管理官が現れ、極めて重大な事件が発生しており、その捜査が重要な局面を迎えていると説明。
これは警察と報道の間の報道協定の案件であると。
余計な事を漏らしたら報道と警察の信頼にヒビが入る事になるというちょっとした脅迫であった。
報道たちも、どうやらとんでもない事件である事だけは察した。
その上で浅利は、月曜日に会見を開き何かしら報告したいと思うのでご協力をお願いしたいと頭を下げた。
朝からかろうじて調教などの業務は行えているものの、常に警察が徘徊しており、厩舎棟は異様な雰囲気を醸している。
最も混乱しているのは事務棟で、警察が押し寄せて来ている所に出走登録の列が加わり収集がつかなくなっている。
それを見た浅利は郡警の管理官に、まずは業務を優先させて欲しい旨を要望。
郡警の管理官は当然のように渋ったのだが、紀三井寺との兼ね合いで久留米が不利になれば、公正競争違反という問題が出てくると指摘すると管理官も納得した。
めちゃくちゃにされた岡部厩舎は厩務員たちによって少しづつ片付けを始めている。
坂と杉からその事を聞いた平岩たち紅花会の調教師が、自厩舎から厩務員を派遣し片付けを手伝っている。
業務自体は電脳など必要最低限の物を隣の厩舎へと運び込んで滞りなく行っている。
岡部厩舎自慢の珈琲とそれを淹れる道具一式も新しい厩舎に既に持ち込まれている。
入厩している竜も隣の厩舎へと移された。
ある程度厩舎の移動が済むと、紅花会の六人の調教師は移転した岡部厩舎に集った。
「岡部、一人で大変やったやろう。うちら頼りない先輩で申し訳なかったな」
六人の中で最年長の千葉が頭を下げた。
「僕の事なんかより、失墜している紅花会の信用をどうやって回復させていくかを考えましょうよ」
「ほんまそれやなあ。あいつらのせいで紅花会は多くの人達に迷惑をかけたんやもんな」
「あいつらを排除したとはいえ、まだ総合評価として負が緩和されただけにすぎませんからね」
改めて現状を岡部に指摘され六人は各々暗い表情を浮かべた。
「恐らくですが、週明け会長が武田会長と謝罪会見する事になると思います」
そこでこの久留米の紅花会の一件は全国に知れ渡る事になる。
そうなれば当然責められるのは逮捕された奴らでは無く残った自分たち。
岡部にそう説明されると、六人の調教師は容易に想像できる今後の事を思いため息を漏らした。
もっと早くこんな風にできていればと神代が露骨に悔しい表情をした。
「岡部やからできたんですわ。うちら何人束になっても、こないな事はできひんかったでしょう」
そう言って杉が先輩たちを慰めた。
「岡部ほど顔が広いわけやなく頭も切れへんうちらでは到底……」
杉が力無く微笑むのを見て坂も岡部を見て微笑んだ。
「ここからは周囲の厩舎と交友を結ぶところから始めて、ゆっくりと信頼を回復させ、みんなで八級を目指しましょうよ」
岡部が六人にそう言ったところで百武が岡部を呼びに来た。
岡部は六人を残し、また対策本部へと向かって行った。
その日の夜、岡部は戸川に連絡を入れた。
「久留米のゴミは一掃されましたよ。週明けには会の方に捜査が及ぶと思います」
報道に規制がかかっており、戸川も岡部の口から聞いて初めて事件の進捗を知った。
そうかと短く言った戸川の声は、ほっと胸を撫でおろしたという感じの声であった。
「昨日、うちの厩舎に砂越から連絡があったで。会派追放が正式に決まった言うてな」
「じゃあ月曜日、競竜部は大混乱になりますね」
報道が報じていない為、砂越たちからしたら、自分たちの知らない場所でひっそりと問題の関係者が全員処分された事になる。
もちろん杉たちにも箝口令をお願いしている。
なので昨日も今日も、本社の競竜部には連絡はいっていないだろう。
「砂越の奴、電話先でニッコニコやったからな。勝ち誇って出社しはるんやろうな」
「そこで警察から四人の逮捕を聞かされて、どう思うんでしょうね」
そう言って岡部はくすくす笑った。
だが戸川は鼻で笑っただけだった。
「僕はあんなやつらの事よりも、やはり大宝寺さんが気になるわ」
戸川の言葉で岡部も急に真顔になった。
「大宝寺さん、先日、会いたいって言ってわざわざ太宰府まで来たんですよ」
「そんでどう感じた?」
どうと聞かれれば、皆が言うように非常に良い人だったというに尽きる。
非情に真面目で芯が強い。
一言で言えば『人格者』と岡部は感じた。
はっきり言って、武藤、砂越とは真反対の人物だった。
「そしたら、どうしたらええと思う?」
「本人は隠居だって言ってましたが、僕はああいう方には会に残っていてもらいたいです」
「僕も同感や。どこか外部で管理者の足らへんようなとこがあると良えんやが」
そうはいっても岡部も戸川も会派の人事に詳しいわけではない。
戸川はそれでも多少は知っているが、岡部は南北の牧場と宿くらいしか知らない。
それも上層部だけ。
「……あ! ありますね、管理者の足りてないとこ。ほら南の方に」
「おお! あそこか! ほな落ち着いたら会長にちと話してみるわ。そやから君は向こうを頼むな」
「わかりました。週明けにでも」
月曜日、事件の報告は、まずは久留米競竜場の事務棟での記者会見から始まった。
筑紫郡の報道が中継を組み、競竜の局、競技の局、報道の局で流された。
先週の金曜日、事務長及び数人の調教師、さらに騎手、厩務員が複数人逮捕されたと浅利は報告した。
罪状は競竜法の違反だが、詳細は警察が調査中なのでまだ口外できないと述べた。
記者たちはさらに多くを聞き出そうとしたが、浅利は、残りは警察発表を待てと全て突っぱねた。
隣に座った郡警の管理官は、逮捕されたのは現時点で三四名で、その内何人かはかなり重い処罰が下される事になるだろうと報告した。
それ以上は現在捜査中の為、今後の発表を待って欲しいと述べた。
三四人という尋常じゃない人数に報道たちは蜂の巣を突いたように大騒ぎとなった。
その裏で連合警察が酒田の紅花会本社へ詰めかけ、収賄の疑いで砂越と武藤を逮捕した。
大宝寺は連合警察に協力し、土曜日、日曜日で秘匿調査をした資料を提出。
何人かの共犯者を警察に突き出した。
そのうちの一人は大宝寺も疑っていた通り大宝寺の秘書であった。
秘匿調査の中で、そもそも仁級の全ての調教師への支援金額の計算が誤ってる事が判明。
本来の支払額から実際の支払額を計算すると、毎月、五厩舎分程度の使途不明金が見つかった。
そのうちの一部は砂越、武藤が着服。
久留米の松浦の口座にも振り込まれていた事が判明。
だが、それでもかなりの使途不明金が見つかったのだった。
恐らくは飲み代などの遊興費になっていたのではないかと推測される。
午後、大宝寺は緊急の部内会議を開催し、岡部の会派追放の取消と、及川、中山、田村の会派追放を決定した。
同じ頃、執行会でも、及川たち三名の調教師免許剥奪及び、専属騎手の騎手免許剥奪を決定。
さらに労働組合では、厩務員たちの雇用契約の停止処分が下された。
夕方、大宝寺は会長室に赴きここまでの調査結果を報告した。
それを受け最上は竜主会の武田会長へ報告を入れた。
翌火曜日、竜主会の本部で会長の武田と最上は記者会見を開いた。
緊急の放送があると竜主会から通達があり、調教師は全員食堂に集められ、竜主会からの放送を視聴する事になった。
報道に問い詰められ続ける二人を見て、岡部は、本当に自分が行った事が正しかったのか不安にかられた。
それを食堂で一緒に見ていた松井に呟いた。
「幼い頃よく見てた正義の勇者もさ、毎回多くの犠牲を出していたよ。きっと正義の執行には犠牲は付き物なんだろな」
松井は岡部の肩にそっと手を置き、君が行った事は間違いなく正しい事だから自信を持てと慰めた。
竜主会の記者会見が終わると、今度は連合警察が記者会見を開いた。
そこでここまで判明している情報が公開された。
事件の首謀者は砂越で共謀者が武藤と松浦である事が判明したらしい。
紅花会本社内にも利益享受をしていた人物が複数おり、全員逮捕された事が報告された。
またそれとは別に、及川、中山、田村の三人の調教師は多数の公正競争違反が確認されたと報告された。
午後からは筑紫郡の報道たちが紅花会の調教師の下にどっと押しかける事になった。
ここまでの報道たちの情報交換によって、岡部という新人調教師によって暴かれた事だという事が知れ渡っていた。
そのせいで報道の多くは我先にと岡部厩舎に集った。
岡部は報道に取り囲まれると、浅利や卜部から指南されたように、お騒がせしたと何度も謝罪した。
その上で岡部は、及川たちや砂越たちのやった事は絶対に許されるべきことではなく、厳罰に処される事を強く希望すると述べた。
紅花会について率直な意見を聞かせて欲しいと言われると、岡部はどう言うべきかかなり悩んだ。
「それでも僕は紅花会を愛しています。だからこそ、鼠に米蔵を食い荒らされ、今回のように会派の名声に瑕が付くような事がないようにしていただきたいです」
『鼠が米蔵を食い荒らした』というこの岡部の発言は事件の一端を端的にわかりやすく表現していた。
そのせいで報道がかなり気に入ったようで、何度も何度も繰り返し使用される事になった。
報道の取材が一段落すると岡部は止級研究所に連絡を入れた。
電話はそのまま義悦にまわされる事になった。
「おやおや。これはこれは。『米蔵発言』の岡部先生ではありませんか!」
一躍時の人となった岡部を義悦は笑いながらからかった。
「どうやら電話先を間違えたようですので切りますね」
「いやいやいや! ちょっと待って! 電話先間違てないから!」
全くもう!
不貞腐れたような声で岡部は文句を言った。
「これでもね、僕だってここまで苦労したんですよ?」
「大崎から聞きましたよ、色々と。ご苦労さまでした。まさか、あそこまで会派が腐ってたとはねえ」
一体祖父はこれまで何をしていたのやら。
そう言って義悦はここぞとばかりに祖父をなじった。
「その件で実は義悦さんにちょっと相談がありまして……」
「今回の件で? まだ何かあるんですか?」
義悦は岡部の発言を事件はまだ解決していないと受け取った。
岡部もそれにすぐに気が付き、そこまで大仰な話では無いと先に言った。
「大宝寺さんって知ってますか?」
「もちろん。幼い頃から家族同然に扱ってもらってますよ」
「恐らく今回の件で責任をとって辞任してしまいます。この場合辞任は退職です」
義悦は少し言葉に詰まった。
指摘されて初めてその事に気が付いたのだった。
「そうですね。そうなるでしょうね……」
「先日、僕、大宝寺さんに会ったんですよ。その時、少し早いけど隠居するなんて言ってて……」
岡部が言いたい事が何となくわかってきて義悦は小さく息を吐いた。
自分がどうこうできる類いの事ではないだろうと感じた。
「先生、社長の立場から言わせていただけば、誰かが責任を取らなきゃいけないんですよ。だから、この件はやむを得ない事だと思いますよ?」
「だけど今回の件で、できれば関係の無い人を犠牲にしたくないんですよね」
「冷たい事を言うようですけどね、あの爺ちゃんは関係者なんですよ。管理職なんですから。辞任を止めるのは難しいでしょうよ」
第一、会長が公に謝罪して部下に逮捕者が出ているのに、管理者が何の責任も問われないでは、社内の規範が壊れてしまう。
だからその件は口を挟むべきではないと義悦は言った。
「さすがにそこは僕も期待してませんよ。僕もそう思いますし」
「じゃあ私に相談って?」
「まだ大宝寺さんには紅花会にいてもらいたいんですよ」
義悦は少しの間考え事をしているようで黙っていた。
岡部が何が言いたいのかはわかった。
本社からは懲罰で追い出されるが、紅花会内部のどこかで拾って欲しいという事である。
どこか。
わざわざ自分の所に電話をしてきたという事は、自分に引き受けて欲しいとお願いしてきたのだろう。
「取締役の総務部長ではどうですか? 大崎の負担を減らして、できれば経営戦略に専念させたいですので」
「ありがとうございます!」
「これで少しはこれまでの恩が返せますかね」
義悦は電話先で祖父のような高笑いをした。
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