第30話 大宝寺部長
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(仁級)
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫、止級研究所社長
・大崎…止級研究所総務部長、義悦の腹心
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(仁級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(仁級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・臼杵鑑彦…松井厩舎の専属騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・国司元洋…岡部厩舎の厩務員
・阿蘇、大村、内田、成松…岡部厩舎の厩務員
・宗像真波…岡部厩舎の女性厩務員
・及川、中山、田村…紅花会の調教師(仁級)
・千葉、高木、神代…紅花会の調教師(仁級)
・平岩親二…紅花会の調教師(仁級)
・杉尚重…紅花会の調教師(仁級)
・坂広優…紅花会の調教師(仁級)
・松浦…久留米競竜場事務長
「君が岡部先生か。会長から話は聞いていたが、こうしてみるとごく普通の青年だな」
大宝寺は岡部を見るなり薄っすら笑顔を浮かべそう述べた。
「わざわざこのような場所にまでご足労いただきまして申し訳ございませんでした」
「気にせんでいいよ。表向きは休暇だからな。家内も連れてきておるし」
太宰府にある紅花会の大宿の受付横の休憩所で二人は珈琲を愉しんでいる。
岡部はじっくりと大宝寺を観察しながら珈琲を飲んでいる。
年齢ははっきりとはわからないが最上よりも少し若く見えるだろうか。
髪は半分以上が白髪になっているが毛量はかなり多い。
年齢相応のぜい肉の付き方をしており、良く言えば恰幅が良い。
顔は確かに京香が言うように気の良いお爺ちゃんという感じである。
「会長から聞く像と、部下から聞く像で、あまりに隔たりがあってな。直接見てみたくなったんだよ」
「手の付けられないやんちゃ小僧とでも言ってましたか?」
岡部の言い回しが面白かったようで、大宝寺は実に楽しそうな顔で笑い出した。
「そうだな。それっぽい事は言っていたな。部内はそれしか聞いていないから、君への評価はそれはもう酷いもんだよ」
「大宝寺さんはそうは思わなかったのですか?」
「俺は会長から君の事を頻繁に聞いておったからな」
その後大宝寺は暫く自分の事を思い出のように語った。
大宝寺は会長よりも九歳年下なのだそうだ。
若き日の最上会長が、社長になる前に実務研修の一環として競竜部管理課の課長をしていた事がある。
大宝寺はその時の部下であった。
ちなみに筆頭秘書の四釜はその時の新人らしい。
最上は大宝寺を気に入って従妹の山野辺桜という娘を嫁にと薦めたのだが、大宝寺には当時既に恋人がいた。
大宝寺の両親も紅花会の社員で最上家との縁談を進めるように進言したのだが、大宝寺は恋人と結婚した。
最上は怒るどころか大いに祝福した。
そこから大宝寺夫妻は最上一家と親戚同然の付き合いを今日まで続けている。
その後、最上の出世に伴い大宝寺も地位を上げて行き、最上が会長に就任すると大宝寺は取締役として競竜部部長になった。
当時の紅花会は先代の放漫経営のツケで問題山積であり、どこから手を付けていいかすらわからないほどだった。
それを順序立てここまで問題を解決してこれたのは、間違いなく大宝寺の経営計画の手腕によるものだろう。
あの時、桜と結婚していたら、氏家、中野、志村のように社外で社長になれただろうにと影では言われているらしい。
「三年前の夏だったかな。会長が急に私の所に来てな。嬉しそうな顔をするんだよ。とんでもない拾い物をしたと言ってな」
「まさか、それ私ですか?」
「他に誰がおる! それからというもの俺の顔を見れば会長は君の話でな。思わず嫉妬しそうだったよ」
大宝寺はそう言うとがははと笑い出した。
「北国牧場に行き、あげはさんと君の取り合いになり夫婦喧嘩をしたと聞いた時はさすがに呆れ果てたがな」
「それ私も以前女将から聞きましたが、本当の事なんですか?」
いい歳してかなり激しい夫婦喧嘩をしたらしい。
女将の奈江は以前豊川でそう言って笑っていた。
「顔に引っ掻き傷があったのを俺も見たぞ?」
「うわ……」
岡部が渋い顔を浮かべると、また大宝寺は笑い出した。
「君が調教師になると聞いてな、俺もそれはもう喜んだもんだ。実質的に私の管理下に来る事になるんだからな」
「別会社みたいなものじゃないんですか?」
「支配会社だと言えば良いかな? いや、そんな事はどうでも良い。俺は会長が大切にしている君を預けてもらえたという事が嬉しかったんだよ」
これまでお金と人を注ぎ込んで実った果実を岡部という料理人がどう料理してくれるのか。
胸の高鳴りが抑えられなかったと大宝寺は嬉しそうに微笑んだ。
「大宝寺さんも『上巳賞』の件はご存じかと思いますが?」
「もちろん聞いておるよ。うちの大事な竜を身を挺して守ってくれたと思っておる。手段はちょっと何だがな」
岡部が少しバツの悪い顔をすると元気があって結構だと大宝寺は笑い出した。
それまでニコニコしていた大宝寺だったが、そこで珈琲を口にすると急に顔から笑みを消した。
岡部の顔を見ず珈琲をじっと見つめている。
「俺の部下は、そんなに気に入らなかったかね?」
岡部が返答に困っていると、大宝寺は、珈琲から岡部へと視線を移し見つめ続けた。
「上にへつらい下に昂ぶる。典型的な奸物でした。砂越も武藤も。若輩だからと露骨に見下した態度で」
大宝寺は目を閉じゆっくり息を吐いた。
「そうか。二人とも部内では仕事ができると評判なんだがなあ」
「それは多分、違う意味ですね」
どういう意味だと大宝寺は訝しんだ顔をし、岡部の顔を見た。
岡部は鞄を取り出し南京錠を開けると、その中から大きな封筒を取り出した。
封筒の中から例の振込の一覧の書かれた書面を大宝寺に渡した。
「出所はちょっと聞かないで欲しいです。私にも協力者がいると思っていただければ」
「この表は部内会議の資料でよく添付されている資料だな。毎回内容が同じだからあまり気にしていない物だ。ん? 同じ資料がもう一枚?」
「一枚目は恐らく会議で提出している資料です。二枚目は実際に振り込まれた額の一覧です」
同じ資料なのに数字が全然違う。
これはどういう事なのかと大宝寺は岡部に尋ねた。
岡部は鞄から電卓取り出し、大宝寺に二種類の表の合計をそれぞれ計算してみてもらった。
「二厩舎分以上の差額がある! どういう事なんだ? この差額はどこに?」
「行き先まではわかりませんが、本来行くべきところに行っていないのは間違いないでしょうね」
にわかには信じがたい。
大宝寺は二種の資料を穴が開くほど見比べている。
「この感じだと、恐らくはこの二枚目の表の振込金が実際の金額という事なのだろが……内容に間違いは無いのかね?」
「坂、杉、二人の先輩調教師に見せて確認していただき、間違い無い事を確認しています」
大宝寺は大きくため息をついた。
もしこれが事実だとすれば、いささか自分の管理体制は甘かったと言わざるを得ないだろう。
そんな大宝寺に岡部はさらに厳しい一言を発した。
「これ、一人の担当がこっそり行える芸当だと思いますか?」
「……部内の組織的な工作だと言いたいのか?」
「詳細は私にはわかりません。ですがどうやら長期にわたっているらしいんです」
ここまで話を聞いた大宝寺は最初は愕然とした。
だがその一方で岡部に対し少し苛立ちを覚えたらしい。
「何故すぐに報告しなかった! 君なら会長に直接なり戸川君経由なりで報告してこれただろう!」
「いきなり武藤のような者が来て、頭ごなしに責任をとれと言ってきたんですよ! 部そのものが信用できないと思っても仕方ないでしょう!」
大宝寺は愕然とした。
そこで少し考え、なぜ先ほど自分が岡部に対し苛立ちを覚えたかがわかった。
組織的な犯罪行為、それを部を挙げて行っていたと言われた気がしたからだ。
「つまり今日まで俺がやらせたと思っていたという事か……」
「武藤、砂越と連続に来たんですよ。そりゃそうでしょうよ」
大宝寺は大きくため息をついた。
まさか公金横領を犯していた組織の親分だという疑いをかけられていたとは……
「何時この事に気が付いたんだ?」
「これに気が付いたのは杉先生です。私は伝手を使って裏を取っただけです」
だとすれば少なくとも今年になって発覚したわけではない。
何年も前に杉は気づいていたのだが、それでも告発ができなかった。
理由は一つだろう。
自分がその仲間の親分だと杉にも思われていたからだ。
「この不明金の行先に全く見当はつかないのか?」
「さすがに外からでは……恐らくここの事務長にも流れてるんだろうくらいしか」
大宝寺は岡部の言葉の意味をよく考えた。
収賄で事務長を抱き込んでいる意味とは何か。
恐らく及川は砂越たちが報告しているような真面目な人物では無い。
その及川の悪事を事務長に握りつぶしてもらうために金を配っているという事なのだろう。
「ならばそれを調べるのは俺の仕事という事だろうな。帰ったらさっそく手を入れるよ」
「申し訳ないのですが、この事は少しの間秘匿捜査だけに留めておいていただけませんか?」
「今公表しないと君は会派を追放になるんだぞ?」
会議で決まった内容は即日執行されるわけではないはず。
だからもし公表するのなら、決定から執行されるまでの間に行って欲しいと岡部はお願いした。
月が変わった最初の会議、つまり明日に決まってしまうだろう。
執行は月末だから月末手前で緊急会議を開きそこで公表する事にすると大宝寺は言った。
「もしその前に警察が来るようなら警察に協力してしまってください」
「竜主会の指導の次は警察の捜査か……」
大宝寺は本日最大のため息をついた。
岡部もそれには苦笑いするしかなかった。
「それと向こうは三か月分程度の資料を出してくるでしょうが、そんなものに意味はありませんから。先月から振り込み額が定額に戻っていますので」
「調べられた時の為の調整をしているのか。奴らどこまで俺をこけにすれば……」
大宝寺は怒りで両拳を固く握りしめた。
大宝寺もここまで岡部との会話を経て、会長の方が岡部の実像を捕えていると確信している。
暫く黙々と手帳に何かを書き込んだ。
「ところでどうやって調査するおつもりですか?」
「俺にも手駒の一つや二つあるんだよ。ここまで聞いていればいくらでも手は打てる。何せもはや裏付けを取るだけなのだからな」
そう言うと大宝寺はまた手帳に何かを書き始めた。
「後任の人事が同じような人事では意味がありませんが……」
「それは事が済んだ後に考えるよ。ただし秘書には相談はせん。恐らくはアレも共犯だろうからな」
大宝寺は岡部をチラリと見ると、あいつを信じていた俺が馬鹿だったとぼそっと呟き、また手帳に何かを書き始めた。
「後、本社の主業務である競竜部がそんな事になっては……」
「まあ暫くは競竜部は機能停止だろうな。管理課全体が調査対象になるのだからやむを得んだろう。これまで放置したツケだよ」
まだ何か懸念点はあるかな?
そう大宝寺は極めて真面目な表情で岡部に尋ねた。
「もしこの事が表向きになれば、その……大宝寺さんは……」
「間違いなく更迭だろうな」
「それでもおやりになるんですか?」
大宝寺は背筋を伸ばし、椅子の背もたれにもたれ掛かると岡部の顔をじっと見つめた。
「君は部下が失敗したら、部下だけのせいにして逃げるのかね?」
「私は零細ですから社員全員で対処してくだけですが……」
「規模は関係無い。俺だって同じだよ。そもそも『長』というのは、責任をとる為にいるもんなんだよ」
その言葉に立派な人物だと岡部は強く感じた。
それと同時に、この人物を紅花会が失う事になると思うと非常に惜しく感じた。
「私から会長にお願いして部長だけでも……」
「君の気持ちはありがたいがね、そこまでせんで良い。俺も歳だ。少し早いが隠居するよ」
大宝寺は少し寂しそうに笑った。
手帳への書き込みが終わると、大宝寺はぱちりと静かに閉じて鞄へとしまった。
残った珈琲を飲み干し空の器を机にそっと置いた。
「会社員人生の最後に君に会えて良かった。短い時間だったが話していてとても楽しかったよ」
岡部は申し訳なさで言葉が見つからなかった。
「俺の管理不足のせいで君たちには随分と迷惑をかけてしまったな。申し訳なかった」
大宝寺は椅子から立ち上がり岡部に頭を下げた。
「晩節は汚してしまったがな、これまで人生を賭けてずっと取り組んできた事は最近やっと花開いた。思い残す事は無いよ」
まるで今生の別れのような言葉に岡部は目に涙を浮かべた。
「そんな顔をするな。競竜部は本来君らを支える為にあるんだ。それがこうなったのだから俺が責任をとるのは当たり前なんだよ」
そう言うと大宝寺は岡部の肩にそっと手を置いた。
「……申し訳ありません」
「君が謝る事は無い。そうだなあ。できたら俺のお願いを一つだけ聞いてもらえるかな? それを叶えてくれればもう何も望みは無いよ」
「私でできる事でしたら」
大宝寺は岡部の顔を見てニヤリと笑った。
「伊級に行き重賞を勝ってくれ!」
「……それ、私にできる事なんでしょうか?」
「知らん。だが俺が生きている間に頼むよ。なるべく長く頑張ってこの世にしがみついててやるから」
そう言うと大宝寺は右手を振って去って行った。
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