第29話 強奪
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(仁級)
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫、止級研究所社長
・大崎…止級研究所総務部長、義悦の腹心
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・加賀美…武田善信の筆頭秘書
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(仁級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(仁級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・臼杵鑑彦…松井厩舎の専属騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・国司元洋…岡部厩舎の厩務員
・阿蘇、大村、内田、成松…岡部厩舎の厩務員
・宗像真波…岡部厩舎の女性厩務員
・及川、中山、田村…紅花会の調教師(仁級)
・千葉、高木、神代…紅花会の調教師(仁級)
・平岩親二…紅花会の調教師(仁級)
・杉尚重…紅花会の調教師(仁級)
・坂広優…紅花会の調教師(仁級)
・松浦…久留米競竜場事務長
七月の最終週、三頭の竜をそれぞれ出走させた。
『ナズナ』は古竜能力戦一の長距離に出走させたが、またもや歯が立たず最下位に終わった。
『ハンテン』は古竜能力戦一の中距離に出走させ三着。
『スイヘイ』は世代未勝利戦の短距離に出走し見事に勝利。
かろうじて未勝利引退は免れた。
八月に入り、南国牧場から六歳の『サケセンテイ』が入厩してきた。
それと共に新竜の二頭『サケドングリ』と『サケススキ』も入厩してきた。
『サケセンテイ』は元は中山厩舎の竜で、昨年の秋に怪我をし、今年の一月に岡部厩舎へ転厩手続きがされている。
岡部は事務棟へ行き二頭の新竜の受託登録をし、その足で資料室へ行き、この『センテイ』が怪我をした競走の映像を探した。
『サケセンテイ』は新竜を勝ってから三回怪我をしている。
一度目は三歳の十一月。
二度目は四歳の十月。
三度目が五歳の九月。
それぞれの映像を見て岡部は愕然とした。
その三回ともに、わざと勝負所で鞍上の西尾騎手が落竜し後ろの竜を巻き込んでいたからである。
一度目の映像を見た時はまさかと思った。
だが、二度目、三度目と見るに至り、怒りが込み上げてきた。
厩舎に戻ると岡部は真っ直ぐ竜房に向かった。
既に厩務員は休憩に入っている。
三度の事故で『サケセンテイ』はすっかり人間を恐れるようになってしまっている。
岡部の姿を見ると『センテイ』は後ずさった。
首筋を優しく撫でると固まって動かなくなった。
良く見ると『センテイ』の左前脚と、左の脇腹、左後脚と、三回の手術の傷跡が痛々しく残っている。
「もう大丈夫。僕がお前をあんな酷い目には遭わせないから」
翌日、月初の定例会議を行っていると宗像が報告にやってきた。
「先生。あの怪我から帰ってきた仔、ちいとも餌食べんのですけど」
「ああ、あの仔ね。かなり人を怖がるみたいだから、赤子に接するように、ゆっくり慎重にやってみてごらん」
「赤子? はあ……やってみます」
宗像が竜房に戻っていくと荒木が尋ねた。
「あの竜、何があったんですか?」
「口で言うのは簡単なんだけどね、できれば映像を見てもらいたいな。三人でこの後事務棟の資料室に行ってもらえるかな?」
そう言うと岡部は、三回分の競走の日付の書いた紙を荒木に渡した。
荒木と国司はお互い顔を見合わせ、かなり警戒した表情をうかべた。
「それと先月、念の為南国に送った『ジャコウ』だけどね、異常がないから月末に戻ってくる事になったよ」
「来月は間に合わへんから、次走は再来月あたりですかね」
国司が執行会が配布している卓上の暦を手にし十月の項を見ている。
「そうだね。うちの貴重な稼ぎ頭だから慎重に行かないとね」
「再来月まで、うちの厩舎あると良えんやけど」
国司が冗談を飛ばしてゲラゲラ笑い出した。
岡部はつられて笑っているが、荒木と服部の笑みは露骨に引きつっている。
国司が卓上の暦を元に戻すと、今度は服部が手に取った。
「先生、僕も皇都行かなあかんのでしょうか?」
服部は非常に不安そうな顔で暦を眺めている。
「そうだね。最低でも一日は行く事になると思うな。別に悪い事をしたわけじゃないんだから、事実の通り話したら良いだけだよ」
「うちの厩舎、どないなってしまうんやろ……」
「服部、今月が正念場だ。その後は色々な事を一気に解決していくから。もう少しの辛抱だよ。僕を信じられないかな?」
信じられないか?
そう尋ねる岡部に服部は卑怯な言い回しだと感じた。
土肥での研修で岡部と共に栄光を掴んだ服部が、岡部を信じられないわけがない。
いえ信じますと言って、服部は健気に笑顔を見せた。
「そんな事よりもだ。服部、お前の方はどうなってるんだよ?」
「少しづつやけど竜の呼吸つかめてきましたよ」
まだコテコテ竜から落ちててよく言うよと国司が笑った。
荒木の服部を見る目が非常に冷たい。
服部は荒木の視線を手で遮って、国司に笑みを向けた。
「いやあ、国司さん。落ちるんは落ちるんやけども何かが見えたんよ!」
そう言うと服部は岡部にも笑顔を振りまいた。
「まあ、本人がそう言うんなら、そのうち結果に表れるんだろうね」
「いやあ……まだちと時間かかるかもですけど……」
「そのうち結果に表れるんだろうね! きっと!」
岡部の威圧に服部の笑顔は思いっきり引きつった。
「は、はい。たぶん……」
会議中に珍しく厩舎の電話が鳴った。
岡部は無言で三人を解散させ受話器を取った。
電話の声に岡部は全く聞き覚えが無い。
だが、声からある程度の年齢は把握できた。
丁寧に応対すると、相手は大宝寺と名乗った。
本社競竜部の部長である。
「部内では雰囲気的に君に電話がしづらいのでな。外出中に電話しているんだ。雑踏で聞きづらかったら申し訳ない」
「いえ、しっかり聞こえていますよ」
低く通る声ではあるが、確かに雑踏の音もそれなりに気にはなる感じであった。
「手短に言う。直接会って話がしたいんだがどうかな?」
「私の方は構いません。いつがよろしいでしょうか?」
「今月中でなくてはならん!」
今月中という事は、恐らく今月末か来月初で処遇に関する重大な会議が予定されているという事であろう。
その前に実際に会って人となりを確認しておこうというところだろう。
「毎週木曜日に定休をいただいてますので、木曜日でしたらどの週でも」
「では再来週の木曜日に、場所は太宰府の大宿で良いかな?」
「かしこまりました」
かしこまりましたと岡部が言った後、大宝寺は少しの間無言だった。
想像していた人物像とは違いそうとでも思っているのだろうか。
それとも猫を被るのが上手いとでも思っているのだろうか。
「会えるのを楽しみにしておるよ」
「お待ちいたしております」
電話を切った岡部は、やっとちゃんとした人に当たった事に安堵した。
これまで岡部の所に来る紅花会の面々は、事前連絡無しでいきなり訪ねてきたり、今から行くとか明日行くと言って急にやってきた。
大宝寺は色々と社内の雰囲気もあるのだろうが、しっかりと事前連絡をしてきた。
京香が言うように、かなりまともな人物であるのだろう。
この人物を味方に引き入れられれば全ては完了する、わずかな時間だったが岡部はそう確信した。
翌日、厩舎に及川がやってきた。
及川は来るなり勝手に応接椅子にどかりと座った。
「お前のところに入った新竜やけどな、手違いなんやそうや」
「僕が事前に聞いていた竜と同じ竜が入厩してきましたけども?」
「聞こえへんかったようやから、もう一回言うたるわ。手違いなんやそうや!」
及川はふんぞり返って膝を組み、片方の足を小刻みに揺すっている。
威圧のつもりなのだろうか?
「それは、どこからの情報なのですか?」
「お前の知らんとこからや! 優しい先輩が転厩手続きを作ってきたった。ここに名前を書けや!」
及川は転厩手続きと仰々しく言っているが、単なる事務棟への申請書である。
申請の内容は『サケドングリ』と『サケススキ』を及川厩舎へ転厩するというものであった。
「仮にこれに僕が名前を書いたとして、僕の厩舎は二減になってしまいますが?」
「可哀そうやから代わりにこっちを貸したる。どっちも良え竜やぞ?」
及川が出したもう一枚の転厩手続きには、及川厩舎の竜の名前が書いてあった。
だがその二頭は、いずれも能力戦一級の古竜である。
それもかなり年齢のいった竜だったはず。
「僕の記憶が間違ってなければ、この竜、二頭とも怪我で放牧中じゃありませんでした?」
「気にすんなや。怪我なんぞそのうち治る」
「では治った時に先輩が鍛えればよろしいじゃないですか? 良い竜なんでしょ?」
気持ち悪いくらいに及川は作り笑顔を崩さない。
及川なりに事を荒げたくないとでも思っているのだろう。
砂越辺りから余程きつく言われていると見える。
「そやから言うてるやろ? 貸したるって」
「お断りします」
「ちと名前書くだけやんけ、な?」
慣れない作り笑顔で額に青筋が浮いてきてしまっている。
それでも及川は作り笑顔を崩さない。
そんな及川に岡部は出口を指差した。
「お帰りのお出口はあちらですよ?」
「名前を書くまでここから出てやらん!」
「警察を呼びますよ?」
警察という単語に及川は過敏に反応した。
どうやら前回の強制執行の時に警察とひと悶着あった事を思い出したのだろう。
だが作り笑顔は止めたものの、及川は極めて冷静な顔をしている。
「警察沙汰にしたらどういう事になるか、お前もよう身に沁みたやろ? 悪い事は言わん、ここに名前を書け。それで丸く収まるんやから、な?」
「わかりました。では警察に連絡させていただきますね」
岡部が席を立とうとすると及川は胸倉を掴んだ。
「どうせ名前を書かへんくても、あの竜は転厩になるいうに、無駄な抵抗しくさりおって!」
「どういう意味ですか?」
及川は岡部を睨み付けながら口元を歪めた。
「お前が知る必要は無い!」
そう言うと及川は四枚の紙を持って厩舎を後にした。
その翌日、厩舎に事務の百武が深刻な顔をしてやってきた。
「先生、強制執行です。どげんしたらよかでしょう?」
百武は岡部の前に『サケドングリ』と『サケススキ』の転厩手続きに伴う必要書類の強制執行という礼状を差し出した。
「俺も先生ん味方ばい。でくっことなら先生ん不利になるような事はしとうなかです」
「転厩の申請書に僕は署名はしませんでしたけど?」
怒りの感情を押し殺し、低い声で静かに尋ねる岡部に百武は露骨に怯んでいる。
どうにも岡部の顔が見れないらしく、顔は俯いたままである。
「……事務長が申請書見て、菊池さんに命令ばしたとです」
「そうですか。ならやむを得ないですね」
岡部は金庫から二頭の預託証を取り出し百武の前に差し出した。
「先生、本当によかですか?」
「申請が通った以上はやむを得ないでしょ? それで困るのは百武さんだし。それは僕の本意じゃないです」
あまりにも潔い岡部の態度に百武の方が戸惑っている。
「ばってん、あん書類は不正書類やなかと!」
「不正だろうが何だろうが、申請を通したのはそちらでしょ!」
「そげんこと……」
岡部の迫力に百武は後ずさった。
そんな百武を見て岡部も反省し、大きく息を吸い細く吐き出した。
「申し訳ない。ちょっと言い過ぎました」
「いえ……そん通りです。自分の無力が情けなか」
気落ちする百武の肩に岡部はそっと手を置いた。
「この件だけでもよくわかるでしょう? 事務が腐ったら全体の風紀が乱れるって事が」
「よう心に刻んでおきます」
百武は預託証を受け取ると頭を下げ厩舎を後にした。
翌朝、『サケドングリ』と『サケススキ』は周辺厩舎の多くの厩務員が見守る中、及川厩舎に連れていかれた。
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