第24話 砂越課長
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(仁級)
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫、止級研究所社長
・大崎…止級研究所総務部長、義悦の腹心
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(仁級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(仁級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・臼杵鑑彦…松井厩舎の専属騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・国司元洋…岡部厩舎の厩務員
・阿蘇、大村、内田、成松…岡部厩舎の厩務員
・宗像真波…岡部厩舎の女性厩務員
・及川、中山、田村…紅花会の調教師(仁級)
・千葉、高木、神代…紅花会の調教師(仁級)
・平岩親二…紅花会の調教師(仁級)
・杉尚重…紅花会の調教師(仁級)
・坂広優…紅花会の調教師(仁級)
・松浦…久留米競竜場事務長
二日休みを挿んで金曜日。
調教の観察台から降りる際、及川たち三人とすれ違った。
及川たちは岡部を見ると、指を差し笑いながら観察台へと昇っていった。
岡部が調教の結果を電脳につけていると坂調教師がやってきた。
「岡部君、初勝利おめでとう! 僕のも出てたんやけど、逃げ竜が巧あて完全にやられてもうたわ。それに比べ服部はよう落ち着てたわ」
「ありがとうございます! 多少はあいつも騎乗矯正の成果が出たんですかね?」
岡部は坂を応接椅子に座らせると、珈琲を淹れて差し出した。
「君の事は豊川なんかで噂は聞いてたんやけど、まさかここまでやるとは思わへんかったよ」
「まだ一戦一勝ですよ」
「そっちと違う。あいつらの方の事や」
坂は珈琲を一啜りすると胃をさすり始めた。
「今思い出しても胃がキリキリするわ。毎日あの三人が交代で押しかけてきて。物壊したり厩務員脅しつけたり……」
岡部も珈琲を飲みながら、静かに坂の話に耳を傾けた。
「僕がまともに対処できひんかったから、最初の厩務員は一月で全員おらへんくなった」
「会派に報告しなかったんですか?」
「何遍も脅されたからな。会派に迷惑かけるような真似すんなって」
確かに岡部も初日に及川が来てそんな感じの脅しをされた。
ただ、岡部は背後に会長という理解者がいるから堂々とした態度でいられるだけの話である。
「それでどうしたんですか? 人員の方は」
「再度募集かけたんやけどほとんど集まらへん有様で。見かねた千葉さんたちが一人づつ厩務員を融通してくれて。結局開業は二か月遅れたよ」
恐らく岡部が挨拶した際に千葉たちが冷たい態度を取ったのは、そういった事を岡部にしないように及川たちに何かしらされたからなのだろう。
「よくそれでもう辞めようって諦めなかったですね」
「杉さんがおってくれたからな。同期もおったし。みんな励ましてくれてな。辞めるに辞められへんかっただけの話や」
辞める度胸すら無かった。
そう坂は自嘲したが、岡部はそれだけ坂さんに皆が期待したという事だと言って微笑んだ。
「継続は力ですよ。きっと近い未来に苦労は実になると思います」
「良え事言うやないか。もう一杯珈琲良えかな?」
岡部はくすりと笑って、珈琲のおかわりを淹れに席を立った。
「君が及川さんと喧嘩したて聞いた時は、無茶しよるなって思った程度やったけどな。まさか残り二人にも喧嘩売るとはな」
坂は薄っすら笑顔を浮かべた。
「そやけど勝算はあんのか? 聞いたとこによると会の武藤さんも怒らせたんやろ?」
「近日中に砂越課長が来るそうですよ」
珈琲豆の蒸れた良い香りが事務室に充満している。
「ほなあれか。追放で話が動いてるいう事か」
「恐らくは」
珈琲を二杯分持って、岡部は再度応接椅子に腰かけた。
「で、どないするんや? 追放なんかになったら、竜は没収やし支援金も入らへんようになるんやぞ?」
「自分の厩舎は自力で全力で守ります。それで相手が破滅しようが僕の知った事ではないです」
坂は淹れてもらったばかりの珈琲を静かに飲んだ。
「僕にも君くらいの気概があったらな」
「まだ取り返しはいくらでもつきますよ。悲嘆にくれるのは早すぎます」
あいつらを追い出して一緒に八級を目指しましょうよと岡部は坂を励ました。
翌週の水曜日、ついにその日がやってきた。
朝から松井厩舎に入り浸っていると、宗像が岡部を呼びにやってきた。
「先生! 厩舎にお客様がいらしてます。消費者金融みたか人と、そん情婦みたか人が」
「……情婦。本人聞いたら怒るよ? その情婦の方が偉い人なんだから」
宗像は、えへへと舌を出して笑うと、待っているから急いでくださいと急かした。
「お待たせしてしまって申し訳ありませんね。京香さん、お久ぶりです」
京香は少し引きつった笑顔でお久しぶりねと言うと、岡部に応接椅子に座るように促した。
横の男性が砂越ですと言って名刺を差し出す。
髪は上部を完全に金髪に染め上げており、少し癖をつけさせている。
細い顔に細い眼鏡をかけ、目も細く目尻が吊り上がっている。
見た目で判断してはいけないと思いながらも、こいつもまともじゃないなと感じた。
国司に人数分の珈琲を淹れるようにお願いすると、暫く誰も事務室に近づけないようにと言い含めた。
「まずは初勝利、おめでとうございます」
「ありがとうございます。今日は、お二人で僕の厩舎の初勝利を祝いに来てくれたんですか?」
砂越は無言で岡部を睨みつけた。
「そんなくだらない事で本社の人間が久留米くんだりまで来るわけないでしょ」
「くだらない事ですか……その一勝のためにうちの従業員は日々頑張っているんですけどね。そうですか、くだらない事ですか……」
「従業員もかわいそうにな。こんな屑の下でこき使われて」
京香が少し言葉がすぎませんかと砂越を窘めた。
すると砂越は京香をギロリと睨んだ。
「志村さんにも何があったかは、ちゃんと説明させていただいたはずですが?」
京香は反論ができず、ため息をついて黙ってしまった。
「岡部先生。部下から報告を受けたんですけどね。上司を呼んで来いって言ったというのは本当ですか?」
「ええ、本当ですよ。あの人、あまりにも態度が悪すぎて、窓口として役にたちませんでね」
「じゃあ、わざわざ来てやったんですから、強制執行の件、しっかり弁明してくれますね?」
岡部は目頭を指で摘まんだ。
こちらの話は全く聞こうとせずに、ただただ謝罪を求めてくる。
こんな阿呆が本社の課長だとは。
「弁明とは心外ですね。で、何を聞きたんです? その件の」
「全てですよ。何故そういう事になったかから、どうして竜主会がうちへ指導に入ったかまで」
馬鹿馬鹿しい。
そういう制度だから、それ以外の何を説明しろというのだ。
そう言ってやろうかと思ったが、京香の手前ぐっと我慢をした。
「簡単な話ですよ。うちの預託証を盗まれたから警察に立ち会ってもらって返していただいたんですよ。それ以上でも以下でもありません」
「盗まれたのではなく、管理保管してくれていただけなんじゃないですか? 俺はそう聞きましたよ?」
岡部は殊更大きくため息をついた。
その態度に砂越は苛つき岡部を睨んだ。
「本当にそれだけの話だったなら事務棟の方が取りに行ってそれで事は済んだでしょうね」
京香が確かにそうねと呟くと、砂越は京香を睨みつけた。
「ちょっと考えればわかるでしょ? あなたにだって頭が付いてるんですから」
岡部は半笑いで砂越を見ながら、煽るように右手で自分の側頭部を指差した。
その態度に砂越は激怒し顔をみるみる赤く染めていった。
「俺の頭が空っぽだとでも言いてえのか!」
砂越は応接机に拳を叩きつけて激怒した。
焦った京香は砂越を宥め、岡部に口を慎むようにと窘めた。
「事務員が行っても預託証が渡されなかったから窃盗案件として警察を呼ばれたんでしょ。そうなれば竜主会に連絡が行くなんて当たり前の事じゃないですか!」
「なんでてめえが直接取りに行かなかったんだ! あん?」
岡部は砂越の恫喝を鼻で笑い、半笑いでアホかと呟いた。
「そもそも、僕の厩舎に郵便で届いていたはずの物ですよ! それをうちの郵便受けから盗んでおいて、何でそれを僕の方から頭を下げて、返してもらいにいかなきゃならんのです!」
「てめえよう、てめえは開業したての新人なんだぞ。先輩に挨拶に行くのなんて当然の事じゃねえか!」
馬鹿じゃねぇの?
岡部は砂越に向かって呟くように言った。
それが聞こえ、砂越もどんどん怒りを増していく。
「仮にあなたが言うように挨拶がてら僕が取りに行ったとして、渡してもらえたという保証なんてありませんけど?」
「向こうはそう言っているんだよ。公平に見れば新人のてめえが不義だったって事になるだろうがよ!」
公平ねえ。
まさかこいつの口から公平なんて言葉が出るなんて。
岡部は例の支援金の振り込み一覧の事を思い出し、何の冗談だろうと心の中で呟いた。
「なら、なんで警察に執行されるまで隠していたんでしょうねえ。最初から渡す気が無かったという良い証拠じゃないですか」
「そうとは限らんだろ!」
「そう言い切れる根拠は? あの三人の証言以外で頼みますよ」
岡部は顎を上げ、砂越を見下すような目で見ている。
その態度が砂越にはたまらなく苛々を募らせた。
「俺たちは彼らと長い付き合いがあるんだよ! 昨日今日開業した躾のなってない口の悪いガキとは付き合いの長さが違うんだよ!」
岡部はわざとらしく大きなため息をついた。
砂越を馬鹿にするかのように、両手を開き首を横に振った。
「やれやれ、あのアホの部下だけでなく、まさか上司までこんな根拠も無く威圧でいう事をきかそうとするチンピラとはねえ。紅花会ってのは一体どうなってるんだか」
砂越は怒りが頂点に達し、机を思い切り叩き立ち上がった。
「もう良い! てめえの事はよくわかった! こうなった以上は覚悟しておく事だな!」
「覚悟とは?」
岡部の問いに砂越は口元を歪め、煽るような顔をする。
「会派追放だよ。お前は会長の肝入りだそうだがな、そんな事は関係ねえ! うちらが駄目と言えば駄目なんだよ!」
それを聞くと岡部は鼻で笑った。
ここが勝負所、そう感じ、心の中で鞭を取って振るった。
「どうせ今だってまともに支援金は振り込まれていないんだ! こっちもあんたらには愛想がつきましたよ!」
砂越は岡部の発言に露骨に動揺した顔をする。
勝負あった、岡部はそう感じた。
「な、何が言いたい! 支援金は振り込んでやってるだろ!」
「はあ? まさかバレてないとでも思ってるんですか? あんなの他の厩舎に聞けば一発でわかる話なのに。これは呆れた」
「何のことを言ってるのかよくわからんな!」
砂越は鞄を持つとさっさと事務室から出て行ってしまった。
京香は哀しそうな顔で岡部を見続けている。
これで岡部の会派追放はほぼ決まったも同然。
祖父が知ったらどれだけ悲しむだろうか。
そんな岡部は何事も無かったかのように、静かに珈琲を堪能している。
「あの人が言っていたのは本当よ。彼らが反対したら爺ちゃんでも覆せないって」
「だったら諦めて別の会派を探しましょうかね」
「爺ちゃん悲しむよ? 冗談でもそんな事」
爺ちゃん。
普段は最上の事を会長と呼ぶ京香があえてそういう呼び方をしている。
親近感を沸かせようという京香なりの接客技術なのだろう。
「京香さんはどう思いました? あの人の事」
「正直、あまり気分の良い人では無かったかな。及川調教師と同じ臭いがした」
それを聞き岡部は珈琲の器をコトリと机に置いた。
「さすがは客商売の専門ですね」
「え? じゃあもしかして、ここまで先生の計画の一環だったりするの?」
岡部は静かに首を縦に振った。
京香は驚きで口が開いたままになってしまっている。
「大宝寺って部長もあんな感じなんですかねえ。もしそうなら本当に救いが無いんですけど」
「救いが無いのは先生? それともうち?」
「紅花会が!」
京香だってわかってはいる。
だが岡部の置かれた立場を認識させる為に、わざとそんな聞き方をしたのだった。
「大宝寺さんは幼い頃から知ってるし、親戚のような頻度で会うけど、普通に良いお爺ちゃんよ?」
「武藤や砂越も仕事で高頻度で会ってますよね?」
「あんなのと一緒にしたら可哀そうよ」
岡部は何かを思案するように伏し目がちな表情で珈琲を飲んだ。
「ねえ先生。最後にあの人に言ってた事、何の事なの?」
岡部は京香の顔を暫く無言で見つめ思案した。
京香は何かを勘違いしたようで少し照れている。
岡部はそうですねと一言言うと、これまでの調査でわかっている範囲の事を京香に全て説明した。
「そんな! 嘘でしょ? だってそんな事……」
京香は、あまりの内容の酷さに驚愕し気が動転している。
「残念ながら証拠も掴んでしまっています。あと一つ証拠を掴んだらもう証拠集めは終わりです」
「じゃあ、それをさっさと爺ちゃんに報告しちゃいなさいよ」
爺ちゃんならきっと大鉈を振ってくれて、全てをちゃんと処理してくれるはず。
そう京香は言うのだが、恐らく最上が処理できるのは本社だけ、それも人事で砂越たちを更迭する程度。
下手すると大宝寺が全ての責任を取って、砂越たちは軽い処分で済まされる可能性がある。
それでは及川たちまで処分が及ばないだろう。
「それでは目の前の蠅を払っただけにすぎないんです。僕は根絶してやりたい。後輩の調教師の為に」
「……そこまで考えてくれてるんだね」
京香は口の前で手を組み、少し上目使いで岡部を見た。
「それが会長の求める結果だと思いますから。その為にも、今言った内容は絶対に他言無用でお願いしますよ。いろはさんはおろか、会長にも今は言わないでください」
京香は笑顔を作ると、わかったと言って岡部に微笑んだ。
「もしも先生が会派追放になったらね、私、会派建ててあげる! 先生のための会派だよ!」
「お気持ちはありがたいですけど、先ほどの話を聞くにそんな事態にはならないと思いますよ」
京香は話をはぐらかされて口を尖らせた。
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