第23話 初陣
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(仁級)
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫、止級研究所社長
・大崎…止級研究所総務部長、義悦の腹心
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(仁級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(仁級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・臼杵鑑彦…松井厩舎の専属騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・国司元洋…岡部厩舎の厩務員
・阿蘇、大村、内田、成松…岡部厩舎の厩務員
・宗像真波…岡部厩舎の女性厩務員
・及川、中山、田村…紅花会の調教師(仁級)
・千葉、高木、神代…紅花会の調教師(仁級)
・平岩親二…紅花会の調教師(仁級)
・杉尚重…紅花会の調教師(仁級)
・坂広優…紅花会の調教師(仁級)
・松浦…久留米競竜場事務長
「おお、やっとるなあ!」
午後の調教が終わった後、服部と臼杵は毎日騎乗矯正の訓練をしている。
毎回水谷騎手が指導してくれていはいるが、会派が違う為、国司と松井厩舎の雑賀が主導で指導している事になっている。
吉良調教師が提案してくれた手を後ろに縛って竜を歩かせる方法を、競竜場の訓練用の竜を借りて行っている。
仁級の竜は騎乗位置が低いため落ちてもあまり危険ではないが、それでも落ち方次第では危険はある。
訓練を開始して二週間が経とうとしているというに、服部は未だに少し動くだけで竜から落ちる。
一方の臼杵は服部ほど落ちはしないが、それでも頻繁に体勢を崩して変な声をあげている。
この日、吉良厩舎の専属騎手である安芸真元騎手が様子を見にやって来てくれた。
水谷が安芸にまだ全然動かせない有様でと説明すると、安芸はじっくりとその光景を観察し続けた。
ちなみに水谷の方が安芸よりも三年先輩である。
安芸は二人に一旦竜から降りるように言うと自分と水谷に交代した。
「俺も久々だから、どこまで上手くできるか自信は無いけど……」
「安芸君が自信が無いんやったら私なんもっとやわ。こんなん初めてやるんやから」
そう言って二人は竜に乗りこんだ。
口で言うのとは裏腹に、安芸も水谷も竜に乗る体勢を全く崩すことなく乗り続けている。
次第に水谷が楽しくなってきて竜の速度を上げ始めると、安芸も負けずに速度を上げた。
「なんや簡単やないの! 君らこの程度ができひんのかいな! 一体、学校で何を学んできたんよ!」
「おおよそ教官に歯向かってまともに指導を聞かんかったんでしょ。自業自得だ」
臼杵も服部もその光景に驚愕し、目と口を大きく開き続けている。
水谷と安芸は再度臼杵と服部に交代し二人の様子を見ている。
「ねえ安芸君、目隠しもしてやろうか」
「良いかもしれないですね。やってみましょうか」
さすがに後手では危険かもと思い手は前で縛り、手ぬぐいで目を隠し竜に乗せた。
視界が遮られた恐怖で二人は思わず竜にしがみついた。
「馬鹿野郎! 竜に捕まるんじゃねえ! 竜に騎乗するんだよ!」
「ほら! 二人ともちゃんと姿勢を正しいな!」
結局、この日二人はまともに乗る事すらかなわなかった。
厩舎への帰り道、安芸は服部に体全体で竜の動きを把握するんだと教えた。
竜の動きに合わせてあなたも上手に重心を移動させないから振り落されるんだと水谷は指導した。
二人の指導に国司は無言で頷いている。
服部は厩舎に戻ると二人に深々を頭を下げお礼を言った。
「先生、今日の訓練終わりました」
「ご苦労様。……何だかいつもよりボロボロだな」
「今日、鬼教官が一人増えまして……」
服部の報告を国司は隣でくくくと声を殺して笑っている。
岡部には何の事かよくわからなかったが、誰かが服部の指導に加わってくれた事だけは把握した。
明らかに味方が増えている、そろそろ何かしら行動を起こす時期かもしれないと岡部は思案した。
いよいよ岡部厩舎の初出走の日が近づいてきた。
申請書に必要事項を記載し、事務棟に出走登録を提出しに行った。
申請書を持った岡部の姿を見た菊池はいよいよですねと微笑んだ。
菊池が登録作業を終えたのを見て、岡部は少し聞きたい事があると持ちかけた。
菊池は受付を百武に代わってもらうと、二人分の珈琲を淹れ休憩室へ向かった。
「どげんしたと? 私に聞きたい事って」
珈琲を飲みながら菊池はニコニコ顔で岡部に尋ねた。
「実は、ちょっと事務長の事をお聞きしたくて」
「松浦事務長? どげん事が聞きたかと?」
ここまでで岡部が菊池に聞きたいと言ってきた事は、及川たちの悪事にからんだ話ばかりであった。
なぜ急に事務長の事がと菊池は訝しんだ。
「例えばどこの会派の方かとか」
「雷雲会よ。なんで雷雲会の人が、こげんとこに来ちょるのか知らんけど」
事務長は競竜場の運営責任者である。
だが『場長』ではなく『事務長』というように権限はほぼ無い。
各競竜場の事務長は歴代の執行会の会長の会派から派遣される事が多く、その執行会の会長には稲妻牧場系の会長は就任しない。
つまり稲妻牧場系の雷雲会の人物が事務長になっているというのは異例と言っても良い。
「近くで見ていて金回りが良いとかそういう事ってありませんか?」
「例え多少金周りが良かでも、雷雲会の人やけん不思議な事では無かごて思うんやけど」
つまりは菊池から見ても金回りが良いように見えるという事になる。
だが雷雲会という首位会派に所属しているのだからそういう事もあるだろうと。
竜主会に所属する会派には『横並びの暗黙の原則』というものがあって、給料はきっちりと定められているはずなのに。
「先生は事務長が怪しか思うと?」
岡部は少し声を小さ目に話した。
そのせいで菊池は自然と顔を岡部に近寄せた。
「あの人が、うちの及川たちを裏で支援してるんじゃないかと」
「そげん事!」
岡部は口元で人差し指を立て、しっと言うと、菊池もしまったという顔をした。
「そげん事がなして言えると?」
「今年の一月頃、僕の竜の転厩の手続きって、どういう経緯で行われたか覚えていますか?」
もう数か月も前の話である。
菊池も思い出すのに少し時間を要した。
「確か……及川先生が申請ん紙ば持って来て、そこにはちゃんと岡部先生ん名前も書いてあって……」
「僕が研修でいないのに書けるわけありませんよね?」
菊池は岡部の指摘に少し気分を害したという顔をする。
「私も全員ん先生ん名前、完璧に把握しちょるわけや無かけんね」
「そりゃあそうですよね。特に配属が決まったばかりの新人ですし」
岡部の指摘で菊池は当時の事を少し詳しく思い出した。
配属が決まったばかりの新人の名前が書いてあったから、すぐにその申請が変だと気が付いたのだった。
「ばってん、確か申請書に印ば無くて……どげんしたんやっけな……そうだ! 事務長に……相談……」
「で、事務長は問題無いから手続きをするよう指示した」
菊池は血の気が引いていくのをはっきりと感じている。
まさに岡部の指摘の通り。
新人の竜が誤って入厩してしまったのだろうから、そのまま処理してあげて。
そう言われ納得して処理を進めたのだった。
「今までなんも疑問に思わんやった。でも、どげんしてそん事に気付いたと?」
「先日、田村が証拠をと言ってましてね。それって証拠を消せる自信があるって事じゃないかと」
菊池は驚いて目を丸くし、言葉を失ってしまった。
「その時に田村に転厩記録の話をしてしまいましたからね。もしかすると僕の竜の転厩記録、この後こっそり消されてしまうかもしれません」
菊池は両手を口元に当て、驚きで頭が真っ白になってしまった。
だがすぐに岡部の言う事は難しいという事に気が付いた。
「ばってん、そげん事しても電脳には操作履歴っちうもんが残るばい」
「操作そのものを取り消しても?」
「そしたら取消ん履歴が残るばい」
だからいくら消そうとしても必ず怪しい履歴が残ってしまう。
そしてその履歴は現場では閲覧が限界で、操作は生産監査会の本部の担当者しかできない。
「そういう履歴って誰でも見れるものなんですか?」
「管理者権限ある者しか。そもそも全ての登録や修正の操作は管理者権限持つ者しか」
そこで岡部はやはりという顔をした。
その鋭い視線が、再度、菊池に悪い予感を抱かせた。
「その管理者権限ってのは誰が持ってるんです?」
「私と……事務長……」
菊池はあまりの衝撃的な事実にかなり困惑してしまっている。
取り乱しているといっても過言では無いかもしれない。
「ねえ、岡部先生、私、こん先どげんしたら?」
「なるべく平静を装ってもらうしか……」
「そげん事できるわけなかでしょ!」
菊池は完全に混乱し涙目になってしまっている。
そんな菊池に岡部は極めて冷静に、珈琲を飲んで落ち着くように促した。
菊池は言われるままに珈琲を飲み、ふうと一呼吸ついた。
「では、こういうのはどうでしょう? 気持ちだけでも僕たちと情報を共有するというのは?」
「それは先生の間諜(=スパイ)になれ言うことと?」
岡部は精一杯の優しい笑み作って菊池に見せた。
「それなら、そういう演技もできるんじゃないですか?」
「わかったばい。そう務めてみるばい」
菊池は不安そうな顔を岡部に向け続けた。
岡部は菊池を宥めるように、このままあいつらを許す気はありませんからと言って微笑みかけた。
土曜日、岡部厩舎としての初出走の日を迎えた。
『サケジャコウ』が古竜能力戦一の中距離に出走するのである。
出走枠は三枠、人気は最低の八番人気となっている。
ここまでで『サケジャコウ』はすっかり良い肉が付いてはいる。
だが前走からは六カ月も開いており、鞍上の服部も、ここまでわずか一勝。
最低人気もやむを得ないだろう。
荒木たち出勤者は全員食堂へ行き大画面で競走結果を見守っている。
下見所では国司が竜を曳いており、係員の合図で服部が騎乗した。
あからさまに緊張している服部に、国司が二言三言冗談を飛ばし気持ちをほぐしてくれた。
仁級の競技場は楕円形に歪んだすり鉢状をしている。
競技場には少し反発性のある塗装を施した板状のものが敷き詰められていて、竜の脚、特に爪への負担を軽くしている。
競技距離は呂級同様、短距離、中距離、長距離の三種で、それぞれ七七十間(約千四百m)、八八十間(約千六百m)、九九十間(約千八百m)。
短距離は競技場を三周、中距離と長距離は四周する。
ただし短距離と長距離は、最後の一周は競技場の大回り路線を走る事になる。
大回り路線は通常周回より向正面の終りからが外路線になるので、最後の直線が長くなり駆け引きが長く楽しめるようになっている。
競技場の競技幅の関係で、競技は最大八頭で行われる。
一枠から白、黒、赤、青、黄、緑、橙、桃という枠色は呂級と同様である。
発走者が大きな白黒市松の旗を振ると、競技場に発走曲が流れた。
全頭が発走機に収まり、発走者の合図で発走機の前柵が一斉に前に倒れる。
全八頭が一斉に競技場の周回を始めた。
『サケジャコウ』は三番手に付けている。
先頭の竜が速度を上げ下げし揺さぶりをかけているが、『サケジャコウ』はあまり気にしていないように見える。
三周目に入ると先頭竜の速度変化に徐々に脱落する竜が現れる。
四角を回り最終周の鐘が鳴ると先頭の竜は早くも加速を開始した。
『サケジャコウ』は二角で膨らみながら外から前の竜を追い越し、向正面で二番手に躍り出た。
三角手前で先頭竜に並びかけ、先頭竜のすぐ外をピタリと走行。
外を回ったせいで四角で先頭竜から少しだけ遅れる形で最後の直線に突入。
直線で鞭を見せると『サケジャコウ』は一気に加速。
追込んできた二番手以下を一竜身押さえてきっちりと勝ちきった。
検量室に戻ってきた服部は無言で鞍を国司から受け取り検量へ向かった。
検量から帰ってきた服部は俯いたまま岡部の前に立ち止まった。
その瞳には大粒の雫が湧き出て、今にも零れ落ちそうになっている。
「岡部厩舎の初勝利を届けてくれてありがとう!」
岡部のその言葉に服部は小刻みに肩を震わせた。
岡部が服部を軽く抱きしめると、服部は声をあげて泣き始めた。
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