第21話 情報
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(仁級)
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫、止級研究所社長
・大崎…止級研究所総務部長、義悦の腹心
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(仁級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(仁級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・臼杵鑑彦…松井厩舎の専属騎手
・荒木…岡部厩舎の主任厩務員
・国司元洋…岡部厩舎の厩務員
・阿蘇、大村、内田、成松…岡部厩舎の厩務員
・宗像真波…岡部厩舎の女性厩務員
・及川、中山、田村…紅花会の調教師(仁級)
・千葉、高木、神代…紅花会の調教師(仁級)
・平岩親二…紅花会の調教師(仁級)
・杉尚重…紅花会の調教師(仁級)
・坂広優…紅花会の調教師(仁級)
数日後、岡部の携帯電話に珍しい人から連絡が入った。
止級研究所の総務部長大崎である。
「先生! 一体何やらかしたんですか! えらい情報が俺の後輩から入ったんですけど」
あまりにも大声を出すので、岡部は思わず受話器を耳から遠ざけた。
事務室にいた国司もびっくりしてこっちをまじまじと見ている。
「先輩から色々とちょっかいを出されているので揉めてるだけですよ」
「競竜部内で先生の素行不良が問題になってるそうですよ。査問にかけるって話も出てるそうです」
一体何をどうしたらそんな事態になるのやら。
入社以来そんな話一度も聞いたことが無い。
何やら大崎はそんな事をぶつくさぶつくさと言っている。
岡部は受話器を耳から離して欠伸をかました。
「大崎さん、ちょっと伺いたいんですけど、武藤って人を知ってますか?」
「管理課の仁級係の係長でしょ。その武藤さんが部内会議で問題だって報告したんだそうですよ」
まあそれくらいの事はするだろうなと岡部は呟くように言った。
「で? 僕はどうなりそうなんです?」
「今度は砂越課長がそちらに行くそうですよ。真偽を確かめるとかなんとか言っているそうで。その報告をもって処分を決めるという事になったそうです」
もしもその砂越という人物が武藤とグルだとしたら……
二人から同じ報告を受ければ会議の雰囲気は確定する事になるだろう。
「その人はあんなチンピラみたいな奴じゃないんでしょうね」
「何ですか? チンピラって?」
「その武藤って奴は口汚く罵ってきた挙句、僕を脅迫してきたんですよ。だから丁重にお帰りいただいたんです。あんたみたいな三下じゃあ話にならんって言ってね」
電話先の大崎は黙ってしまった。
だいたいどんなやり取りがあったか想像できたのだろう。
ため息をついたような音が聞こえる。
「先生。今度の砂越課長は怒らせたらさすがにまずいですよ」
「じゃあ、義悦さんにその課長が来る時に一緒に百合さんが来れないか聞いてみてもらえますか?」
ちょっと待っててくださいねと言って大崎は電話を保留にした。
軽快な音楽が受話器から流れてくる。
手持無沙汰にしていると国司と目が合った。
ここまでの会話を全部聞かれており国司は苦笑いしている。
「聞いてみてくれるみたいですよ。先生、会派追放の話が出てるそうですから、絶対に対応に気を付けてくださいね!」
「へえ、そうなんですね。もし追放されたら、どこの会派に連絡取ろうかなあ」
「先生!」
岡部は思わず受話器耳から離した。
再度大崎が大声を張り上げたせいで耳鳴りがしている。
「冗談ですよ。ご心配くださってありがとうございました」
「もう! 意外と喧嘩早いんだもんな……」
その後もぶつぶつと文句を垂れていたが岡部は強制で電話を切った。
電話を切った後、岡部は仏頂面で頬杖をついていた。
「先日のあの背広の人、怒らせたらマズい人やったんですか」
国司が心配そうな顔で岡部の顔を見る。
実際にその場にいた訳ではないが、話はその時事務室の入口で臼杵と震えていた服部から全て聞いている。
「今度は上司が乗り込んで来るんだって」
「……それってかなりマズい事態と違うんですか?」
マズい事態だと岡部も思う。
ただ国司がマズいと思っているのは岡部の立場で、岡部がマズいと思っているのは紅花会の管理体制だが。
「あの武藤とかいうのは明らかにまともな奴じゃなかったからなあ。身なりといい、目つきといい。もしあれの上司もまともじゃなかったら……」
「無かったら?」
「別の会派に移籍かなあ」
岡部は満面の笑顔を国司に向けた。
国司は苦笑いするしかなかった。
「普通はそれを困った顔で言うもんやと思うんやけど。何でそない嬉しそうに」
「だってさ、あんな屑を窓口だってよこしてくるような会派じゃねえ」
救いようが無い。
そう岡部は呆れ口調で言った。
「僕には先生が好んで火付けてるんが原因なようにも見えますけど?」
「僕だって平穏な日々を送りたいさ」
「あんだけ火付けまくってそれは無いわ」
国司は腹を抱えて大笑いしている。
岡部もそんな国司につられて笑い出す。
「僕は悪どい事したタヌキの背負った柴にだけしか火は付けてませんよ」
「口八丁でワニの頭の上渡ってる悪戯兎にしか見えへんのですけどね」
岡部は僕は誰も騙してませんと言って仏頂面で頬杖をついた。
その態度に国司はさらに笑い出した。
岡部は国司に厩舎を任せ杉厩舎へと向かった。
ここまで紅花会の調教師全員に挨拶に伺い、杉と坂の二人なら一緒に戦ってくれそうと感じたからである。
特に話した感じで、杉はかなり戦力になりそうと感じている。
「なんや岡部、なんぞ問題でもあったんか? まあ、あんだけ先輩に喧嘩売りまくったら、そら問題山積やわな」
「会派クビかもだそうですよ」
「そら、あそこまで派手に大立ち回りしたらな、そういう話は当然出るやろうな。うちらは愚連隊や無いんやから」
杉は前回来た時と違いかなり機嫌が良く、岡部に笑顔を振りまいている。
恐らく杉も岡部に対し、及川たちへの尖兵になってくれそうと期待感を抱いているのであろう。
「杉さんは武藤って奴をご存知ですか?」
杉はその名前を聞くと急に顔が曇った。
「どこでそいつの事を知ったんや」
「先日、そいつがうちの厩舎に喧嘩を売りに来ました」
岡部は平然と言ってのけたが、杉の表情は口を半開きにしたまま固まってしまっている。
「まさかその喧嘩を買うたんか! そやからクビなんて話がでとんのか! アホかお前! あれはうちらの管理人みたいな奴なんやぞ!」
そこまでやんちゃ坊主だとは思わなかったと言って杉は若干軽蔑した目で岡部を見ている。
「杉さんは、あれの上司の砂越って奴を知ってますか?」
「当然知ってるよ。会うた事はないけどな。武藤よりはまともやって聞くがな」
「『よりは』って事は、そいつもまともな奴じゃないと……」
杉は一旦話を途切れさせため息を付いた。
指で近寄るように合図し自分も顔を近づけ小声て話しはじめた。
「砂越いう奴は裏の話をよう聞く。お前も知っとると思うが、うちらは会派からの支援金を補填して運営しとる。どうやらそれを掠めとるらしい」
「え? どうやって? 支援金って振込じゃないですか」
杉はそこで小さく咳払いをし話を続けた。
「お前、うちの厩舎の振込み金額見た事あるんか?」
「そういう事か! でも、その金額って均一じゃないんですか? 上前撥ねたらすぐにバレそうですけど……」
「みんなそう思いこんでるやろ。俺も坂に聞いて金額違うんでびっくりしたわ」
岡部は杉の言葉に唖然としてしまった。
恐らくは及川たちは他の厩舎から跳ねた支援金を余計に振り込んでもらっているのだろう。
だが一つ疑問点がある。
本社の会議で支援金の支払額の資料は提出されるはずである。
その資料では一体どうなっているのだろう?
「その上の競竜部の部長ってどんな人なんですか?」
「大宝寺いう人やな。さすがに俺はよう知らんけども、かなりの歳の人やそうや。もしそこが音頭とって支援金ネコババしとるんやとしたら、ちとキツいな」
この杉の言いっぷりからすると、少なくとも杉は大宝寺部長に関する悪い噂は耳にしてはいないという事だろう。
だからと言ってそれだけでは悪事の親玉という線は捨てきれないのだが。
「武藤の話だと、竜主会から指導が来て部内が喧々諤々だそうです」
「だとすると、大宝寺部長もお前みたいな問題ばかり起こす若い芽より、目の前の自分の部下を庇うやもしれへんな」
岡部という人物に対する印象だけでそういう行動にでかねないと杉は言った。
砂越のような人物を野放しにしている事から、そういう人物像が想像できると。
「腐ってる……」
「会派なんて古い組織やからな。屑が一人でもおったらその周りもどんどん腐ってくんや」
『腐ったみかんの法則』、杉はそう呆れ口調で言った。
「腐った組織ってどうやったら治せるんでしょうね?」
「膿は出し切る。腐ってる病巣は除去。外科手術が必要やろうな」
「……大手術ですね」
杉は岡部の両肩をがっちりと掴んだ。
「それでもやる気なんやろ! 俺はもうお前に賭ける事にしたんや! 応援するから全力でやったれ!」
その大穴竜券が当たるように祈っててくれと岡部が言うと、杉は、大穴なのかよと笑った。
厩舎に戻ると岡部はすぐに大崎に連絡を入れた。
先ほど電話を切って、数時間しか経たずに向こうから電話を入れてきた。
恐らく何かしら進展があったのだろうと大崎は感じた。
だが岡部が調べて欲しい事があると言ってその調査内容を口にすると、大崎は思わず椅子から立ち上がった。
調査内容からある程度岡部がどんな情報を仕入れたか察する事ができたからである。
周囲から何事だという目で見られ、大崎は恥ずかしくなって椅子に座り直した。
気を取り直す為に一度大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
その一連の行動は受話器越しに全て聞こえており、岡部は必死に笑いを堪えている。
「いやあ、先生から頼み事されたなんて言ったら、最上がさぞ嫉妬するだろうなあ」
冷静になった大崎の最初の一言がそれであった。
「信頼できる伝手が大崎さんしかいなくて。すみません、お手数をおかけします」
「近日中にこっそりと調べてそちらに送付しておきますよ」
岡部からは見えないが、大崎は顔がにやけるのを必死に堪えている。
「こっそり? そんな事こっそりやれるんですか?」
「先生もやれると思ったから俺に相談してきたんでしょ?」
さすがだなあという岡部に自尊心をくすぐられ、ついに大崎はがははと笑い出した。
「そんな有能な大崎さんに聞きたいのですが、砂越ってどんな人物なんですか?」
大崎は少し口ごもった。
岡部が聞いているのは当然表面上の話ではなく裏の顔の事である。
本社で流れている噂、それを聞きたいという事だろう。
「仕事はできると聞いてます。ですが金に汚いとも聞いてます。……そういう事ですか。来る前に弱みを握っておきたいと」
まあそんなところですという岡部に、大崎は随分と大人の喧嘩に慣れていると舌を巻いた。
「もし何かあったら、会長が知ってたって事にしておきますよ」
「会長よりうちの最上の方が良いと思いますよ。その方が何かと現実味があるでしょ」
大崎はなるほどとすぐに言ってもらえると思っていた。
だが思った以上に岡部の反応は悪かった。
「また義悦さんに怒られちゃうなあ」
恐らく以前の駿府の話をしているのだろうと大崎は察した。
これほどの人でも無関係の人から怒られるのは嫌なのかと思うと少し可笑しくなった。
「今は何しても怒られないですよ。皇都で何か嬉しい事があったみたいでね。毎日デレデレしてるから」
「それは何より」
皇都で何か嬉しい事というだけで何となく察しはつく。
どうやらあの後も義悦とすみれさんは上手くいっているらしい。
そう思うと岡部は思わず頬がほころんだ。
「先生。真面目な話、砂越課長を敵に回すのはマズいと思いますよ。先生たちの人事権は大宝寺部長しか持っていませんが、砂越課長にはそれを左右する権限があるんですからね」
「まずはそのこっそり調べたものを見てから、大崎さんも判断してみてくださいよ」
出てきた内容いかんでは想像を絶する事態に発展しかねない。
本当にやる気なのかと大崎は危惧している。
「先生も紅花会という企業の歯車の一つだって事、重々お忘れなく」
「肝に銘じておきますよ」
大崎は電話を切る前に、本当にわかってるのかなあとつぶやいた。
「先生。あの『ジャコウ』いう竜、思った以上の当たりですね!」
服部が午後の調教を終えるとそう報告した。
「状況を見てるけどかなり肉付きが良いね、あれ」
「結構体も大きいですし。追っててかなり速度を感じます」
何であの竜がここまで未勝利戦しか勝っていないのか不思議で仕方がないと服部は言った。
現在七歳の『ジャコウ』は、ここまでニ九戦一勝。
最初杉厩舎に入厩し新竜戦二着、続く未勝利戦に勝利。
そこから管理が及川、中山、田村と代わり、怒涛の二七連敗を喫している。
「来月から、四頭全部使っていくけど今の所期待はあれくらいかな」
「『スイヘイ』も期限ギリギリになるやもしれませんけど、何とか勝てるんと違いますかね?」
四歳の『スイヘイ』はここまで六戦して未勝利。
二着が二回あるがどちらも一着の竜からは離されている。
だが、調教では走りに力強さが見える。
「ところで、お前の方はどうなんだ? 何か掴めそうなの?」
「それが、その……」
そう言って服部は俯いてしまった。
「そうか……難しいか……」
「どうしても乗り方を変えなあかんのでしょうか?」
現在、佐藤厩舎の専属騎手の水谷騎手に臼杵と二人で指導をしてもらっている。
だがどうにも服部は理解ができていないらしい。
「早急に頭打ちになって引退したいのか?」
「いや、それはちょっと……」
服部は頭を掻いたり指をモジモジしたりと、かなりバツ悪そうにしている。
「水谷さんはしきりに竜と一体化しろ言うんやけど、ほんま何の事やら」
「え? それって結構初歩の初歩なんじゃないのか?」
岡部の指摘に服部はさらにバツの悪そうな顔をする。
「僕、初歩の初歩ができてへんいう事なんでしょうか?。もうしそうやとしたら最悪ですね」
「確かに戸川厩舎で口を揃えて言われたくらいだからなあ。騎手なら見たらすぐわかるような事なんだろうな」
岡部も元騎手なのだが、悲しいかな服部の何が悪いのか全く見当が付かないのだった。
「国司さんも助言はしてくれてるんやけど……竜の呼吸を感じろて……そんなん言われても何の事やらさっぱりわからへん」
服部は黙ってこちらを見続ける岡部の視線に耐えられず、そっと壁の方に顔を背けた。
「まあ、最悪、調教助手で雇ってやるよ」
「いやいや、岡部厩舎、調教助手雇う余裕無いやないですか」
岡部はパンと机を叩き、いつまでも仁級で燻る気は無いと憤るように言った。
「そういえば、臼杵の方はどの程度できてるの?」
「僕よりはできてるって水谷さんは言うてますね」
なるほどと言って岡部は頷いた。
「つまり臼杵より下手くそって事か……」
「あ、あの、先生……そういう言い方は地味に傷付くんやけど……」
岡部は服部の抗議を無視し深く考え込んだ。
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