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【完結】競竜師  作者: 敷知遠江守
第三章 汚職 ~仁級調教師編~
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第19話 武藤係長

登場人物

・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(仁級)

・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)

・戸川直美…専業主婦

・戸川梨奈…戸川家長女

・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」

・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫、止級研究所社長

・大崎…止級研究所総務部長、義悦の腹心

・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長

・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定

・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか

・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば

・長井光利…戸川厩舎の調教助手

・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手

・池田…戸川厩舎の主任厩務員

・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員

・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員

・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)

・松井宗一…樹氷会の調教師(仁級)

・武田信英…雷鳴会の調教師(仁級)

・服部正男…岡部厩舎の専属騎手

・臼杵鑑彦…松井厩舎の専属騎手

・荒木…岡部厩舎の主任厩務員

・国司元洋…岡部厩舎の厩務員

・阿蘇、大村、内田…岡部厩舎の厩務員

・宗像真波…岡部厩舎の女性厩務員

・及川、中山、田村…紅花会の調教師(仁級)

・千葉、高木、神代…紅花会の調教師(仁級)

・平岩親二…紅花会の調教師(仁級)

・杉尚重…紅花会の調教師(仁級)

・坂広優…紅花会の調教師(仁級)

 仁級は呂級とは日程が三日ずれている。

月曜日と火曜日が競走の曜日となり、水曜日と木曜日が事務棟の休日。

金曜日と土曜日が追い切りの曜日で、日曜日に竜柱が発表となる。



「どないしたん? なんや困りごとでもあったん? 私でできることやったら力になったげるよ」


 隣の厩舎の佐藤調教師の事務室の応接椅子に岡部は座っている。

佐藤は可愛い器に甘ったるい牛乳紅茶を淹れて岡部に差し出した。


「実は明日、初めて調教を行う事になりまして……」


「そっかそっか。もうそこまで準備いったんや。中々手際良えやないの」


 佐藤は優秀優秀と笑いながら牛乳紅茶を口にした。


「それで、その……初めてで不案内なものでして……」


「ああ、そういう事? それやったら、明日うちのがやる時に一緒に付いてきたら良えよ」


 岡部はパッと顔を明るくして頭を下げて礼を述べた。


「助かります! 明日よろしくお願いします!」


「良えよ、そんくらい。会派の他の先輩が、あんななんやもん」


 そこに佐藤厩舎の専属騎手の水谷(みずたに)由美(ゆみ)騎手が休憩から戻ってきた。

水谷騎手は二十代後半で、先日結婚したばかり。

髪が長く、いつも首元で束ねている。

いかにも活発そうという印象を受ける顔つきである。


「あ、岡部先生言いましたっけ? こんにちは」


 明日初めて追切りするそうだから一緒に行ってあげてと佐藤がお願いすると、水谷は岡部を見て悪戯っ子のような顔で口元を緩ませた。


「何、何? 先生、心細いん? なんや初開業いう感じで良えわあ。うちの先生にはすっかり無くなってもうた初々しさやわあ」


「由美ちゃん、人をあばずれみたいに言わんといて!」


 水谷は小悪魔のようにぺろりと舌を出して岡部に笑いかけた。


「実は水谷さんには別でお願いがありまして」


「私に? 私が先生にしてあげられるような事なんて何かあるん?」


 岡部は服部の騎乗について、松下騎手からの指摘を水谷に伝えた。

佐藤は厩務員上がりでいまいち何の事がわからなかったのだが、水谷はすぐに理解できたらしい。


「そっかあ。男の子やと、そういうんわからへんまま開業しちゃったりするんや」


 可哀そうにと独り言のように言って水谷は軽く唇を噛んだ。


「水谷さんはいつ頃気が付いたんです?」


「私は早かったよ。学校の一年の終り頃。腕っぷしやと、どうあっても男の子に敵わへんもの」


 岡部はいまだに理解できていないのだが、この感じだと水谷は完璧にわかっているらしい。

 

「あいつの剛腕っていうのも持ち味ではあると思いはするんですけどね」


「それはそれ、これはこれなんよ。基礎的なもんで、学校では教えきれへんもんがあるんよ。口で言うんは難しいんやけどね。そこに気づかへんと、すぐ頭打ちして引退する事になるらしいって聞くね」


 確かに松下と長井もそれらしい事を言っていた。

それにどれだけ早く気付けるかが問題だと。

服部は剛腕だから気付くのが遅れそうとも言っていた。


「申し訳ないんですが、先輩騎手としてそれとなく指導してやってもらえませんか?」


「それは良えんやけど、上手くいくかはわからへんよ。個人の型みたいなんがあるから」


「もしダメなら、その時は僕もそれなりに考えないといけないですから。あいつとはこの先も一緒にやっていきたいですからね」


 佐藤と水谷は、きゃあと変な盛り上がり方をし、やれるだけやってあげると言って岡部の手をとった。

岡部は二人の圧に思わず後ずさり、ちょっと引きつった顔をし、よろしくお願いしますと言いながら逃げるように厩舎を後にした。




 その足で松井厩舎に向かった。

どんなに厳しい状況でも松井の顔が見えると何か心の奥でほっとするものがある。


「どうした? なんか疲れた顔してるな。さすがの君でも開業の準備は大変か?」


「これは別の疲れだよ」


 そう言うと岡部は応接椅子にどかっと座った。

そこに、遊びに来ていた服部が臼杵と一緒に事務室に入って来た。

お気楽な顔をしている服部をじろりと見て、明日の調教一緒に行ってもらえることになったから佐藤厩舎に挨拶に行ってこいと指示した。

ついでにお前も挨拶してこいと臼杵にも言うと、臼杵は困惑した顔で松井を見る。

松井は苦笑いして行ってこいよと言って臼杵を追いだした。


「どうした? 何かあったのか? ずいぶんとご機嫌斜めじゃないか」


「……竜が四頭しか来なかった」


 深刻そうな顔で言う岡部に松井も言葉を詰まらせた。


「服部から聞いたよ。何でそんな事がまかり通ってるんだよ」


「勝手に僕の名前で転厩手続きしやがったんだよ。僕がいないのを良い事に」


 低い声で睨むような目つきで言う岡部に松井は大きくため息をついた。


「どこまで屑なんだよ……」


「なあ、あいつらさっさと廃業させちまおうと思うんだけど、どう思う?」


 松井はあまりに急な話に言葉を失ってしまった。

そんな松井を他所に岡部はさらに話を続ける。


「もう証拠は貰った。あいつらは大した事ないと思ってるようだが、調べたら免許取消案件だった」


「この間調べてたのはそれか……で、どうやって廃業に追い込むつもりだよ」


「会派経由で竜主会へ捜査依頼をかけてもらう」


 松井は腕を組み、大きく息を吸い込み、ゆっくり細く吐き出した。


「そっか、君の後ろには会派の会長一族がついてるんだったな」


「排除しようと思えば、それほど日付はかからないと思うんだ。問題はいつそれをやるかって事で」


 松井はさらに足を組んで天井を見上げた。

暫く考え込んでから岡部に顔を近づけ小声て囁くように言う。


「まだ止めとけ。恐らくそれだけじゃ弱い。今は一つでも多く証拠を集める時期だ。今追っても逃げ切られるだけだ。君の得意技は怒涛のまくりじゃないのか?」


「好きでまくりやってるわけじゃないよ。前目に付けれるなら先行したい」


「仲間を集めろ! 何の実績も無い今の段階であいつらを排除して、もしあいつらの立ち位置に君がなりたいだけと思われたら、今あいつらに向いている憎悪が君の方に向く事にもなりかねんぞ」


 せめて竜を走らせ、それなりに有能な調教師だという所を見せてからでないと。

松井の忠告に岡部も頷くしかなかった。


「それはそうだね。それは僕の求める結果じゃない」


「逸る気持ちはわからんでも無いが、仕掛けどころを誤ると思わぬ伏兵にやられる事もある」


 松井は岡部の肩へぽんと手を置いた。

岡部は大きく息を吐いた。


「あいつらのあまりの汚物臭にちょっと焦っちゃったかな」


「当面はきっちり蓋でもしとけ」


 岡部は笑顔を取り戻し小さく頷いた。



「ところで君のとこは竜はどうなの?」


 岡部の質問に松井は顔をほころばせ、聞いてくれよと言い出した。


「それがさ、なんだか良い竜を入れてくれたんだよ!」


「この時期にどうやったんだろう?」


「会の先輩から聞いた話では、年末の競りで頑張ったり、他の厩舎からも流してもらったんだって」


 これまで聞いていた樹氷会の印象とだいぶ異なる状況に、岡部もつられて顔がほころぶ。


「ずいぶんと期待されてるじゃん!」


「実習競走で老竜で勝ったっていうのを八級と仁級を担当してる次期会長が知ってくれたらしいんだよ。次期会長自ら競りに行って購入してくれたんだってよ」


 次期会長の為にも期待に応えないと。

そう言った松井の顔からは、かなり強い意気込みを感じる。


「じゃああれだ。会長が代替わりしたら筆頭調教師になれるかもじゃん!」


「俺に君ほどの器量や技量があればな」


 松井はそう言うとニヤリと笑って目を細めた。


「器量は知らんけど、技量は僕が保障するよ」


「なんでだよ! 器量もちゃんと保障してくれよ!」


 二人は顔を見合って大笑いした。


 岡部は来た時に比べずいぶん心が安らいだのを感じた。

近くに理解者がいる、確実に仲間になってくる人がいる、それがこんなに心強い事だとは。

岡部は松井の笑い顔を見てそう強く実感していた。




 厩舎に戻る途中、隣の佐藤厩舎を見ると臼杵と服部が厩舎の面々に囲まれデレデレしていた。


 事務室に入ろうとすると荒木が飛び出して来て、お客さんがお待ちですと報告してきた。

松井厩舎まで呼びに来てくれたら良かったのにと言うと、お客さんに待つと言われてと荒木は焦った顔をする。

荒木に立ち会うように言ったのだが、先日の及川の件で懲りてしまったらしく、全力で嫌がられてしまった。


「すみません。大変お待たせしてしまいまして」


「開業で重要な時期でしょうから、少しくらいは待ちますよ」


 そう言うと男性は名刺を差し出した。

紅花会本社競竜部管理課仁級係係長という肩書が名刺には書かれていた。

名は武藤(むとう)

少し高そうな一張羅に、派手な衿締、先の尖った革靴。

顎が大きく目つきが悪い。

漆黒の髪を整髪料で固めていて、栗色の側頭部は剃っているかのように短い。

見た目だけではやくざの鉄砲玉のようにも見える。


 武藤はそれなりに丁寧な口調で、開業準備がどの程度進んでいるかといった、とりとめのない世間話をした。

それに作り笑顔で受け答えしていると、突然武藤は背筋を伸ばし顎を上げ見下すような表情をした。


「岡部先生。先生がどのような方かは存じてます。ですが今回の事はさすがにいただけませんな」


「何の件でしょうか?」


「強制執行の件と言えば、心当たりがあるんじゃないのかな?」


 武藤は足を組み始め口調が急に威圧的になった。


「開業の手続きができず困っていたら、事務棟の方が案内してくれまして」


「強制執行がどういうものかについて事務棟から説明は無かったと?」


 武藤は目を細め顔を横に背けて横目で睨みつけるように岡部を見る。


「ありましたが、こちらもやってもらわないと開業準備ができなかったものですから」


「そのせいで、うちの会派は竜主会から指導が入ったんだよ! どう責任をとるつもりなんだ!」


 武藤は一際大きな声を張り上げて応接机に拳を叩きつけた。


「で、どうしてそれを私に言うんです?」


「ああん? 強制執行を依頼したのはお前だろうが!」


 何を寝ぼけた事を言っていやがる。

そう言って武藤は岡部を指差した。


「されたのは彼らなんですから、彼らの方を責めるべきじゃないんですか? 強制執行されるような素行の悪い調教師なのですから」


「だとしてもだ、会の中の事なのだから、まず会を通せば良かったとは考えないもんかね?」


 ようは自分を通さずにいきなり強硬手段に出られて面目が丸つぶれになったと言いたいのだろう。

岡部は武藤の指摘を鼻で笑った。

その態度に武藤は露骨に苛立った顔をする。


「会に信用がおけないからと言ったらどうします?」


「何だと? あれだけ会長から目をかけてもらっておいて信用がおけないは無いだろ!」


 武藤は徐々に顔つきが厳しくなり苛つきを押さきれなくなっている。

口調が初期の繕った感じではなく、ちんぴらのそれになっている。


「会長ほどあなた方を知りませんのでね」


「会長は信用できるがそれ以外は信用できないと? お前、何か勘違いしてねえか? お前の厩舎を支えてやってるのは俺ら本社の社員なんだぞ?」


「人の竜を盗むような盗人を擁護するような人たちを、いったいどうやって信用しろと?」


 岡部の一言に武藤は露骨に動揺した顔をした。

それまでの威勢は削がれ、かなりバツの悪そうな顔になっている。

 

「なんの事を言っているのかわからんな」


「わからないわけないでしょうよ。強制執行であなたも指導を受けたんでしょ?」


 武藤は動揺しながらも岡部を睨めつけた。


「ああ、お前のせいで忙しい身なのに余計な指導を受けたよ。お前のせいで、みんなが迷惑してるんだよ」


「指導を受けなければならないような事をしたんですよ。やむをえないじゃないんですか」


 武藤はそれを聞くと再度机に拳を叩きつけた。


「我々が何をしたと言うんだ! 言ってみろ!」


「僕の竜を盗んだような輩をこれまでずっと手助けしていた。違いますか?」


 反論無し。

つまりは図星。

武藤は無言で岡部を睨みつづけている。


「お話が終わったのならお帰りいただけませんか? こちらも開業準備で忙しい身ですので」


「このようなことが許され続けると思うなよ! この事はきっちり上に報告させてもらうからな!」


「どうぞご自由に。そうそう、次回は別の人を寄こしてください。あなたみたいな()()じゃ話にならないんでね」


 武藤は歯噛みし鬼の形相で岡部を睨み続けた。



 その光景を事務室の外で見ていた服部と臼杵は震えあがっていた。

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