第13話 送別会
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師(仁級)
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫、止級研究所社長
・大崎…止級研究所総務部長、義悦の腹心
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女。夫は光正、娘は京香、息子は光定
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・中野義知…最上牧場(南国)の場長、妻は最上家三女のみつば
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・松井宗一…樹氷会の調教師(仁級)
・武田信英…雷鳴会の調教師(仁級)
・服部正男…岡部厩舎の専属騎手
・臼杵鑑彦…松井厩舎の専属騎手
いよいよ実地研修修了まで残り幾日となってきた。
戸川厩舎では既に荒木の転厩が公表されており、厩務員の募集も行っている。
岡部は荒木を毎日会議室に呼び仁級の説明を行っている。
久留米で発生している問題の説明もしており、それを承知しておいて欲しいと説明している。
一方、中里の研修も最後の追込みに入っており、厩舎では常に櫛橋が教育を施している。
中里は真面目ではあるのだが、あまり要領の良い方では無く櫛橋が時折苛ついている。
元々櫛橋は気が短い方なので、苛ついた雰囲気を醸す都度、周囲は戦々恐々としていていた。
ところが中里は、その辺りの事にかなり鈍感なようで自分の速度を崩さない。
櫛橋も自分の苛つきが暖簾に腕押しなことに徐々に気づきだし、諦めて笑い出してしまう。
それを見ていた戸川が岡部に、よくもまあ櫛橋はあそこまで自分に合う人を探し出してきたもんだと耳打ちして笑った。
櫛橋がやっていた勤務表作成は垣屋が岡部に教わりながら行っている。
垣屋は若い分池田よりも頭が軟らかく思った以上に飲み込みが早い。
それを見ていた戸川が長期休暇中の池田がいないのを良い事に、冗談で垣屋を主任にしようと言い出した。
垣屋は池田さんは応用が効かない人だからと笑っていた。
池田が長期休暇から明けた日、悪戯好きの花房が坂崎と二人で垣屋を主任と呼んでいた。
事情を知らない池田は垣屋が主任扱いされている事に焦り戸川に泣きついてきた。
花房のいつもの悪戯だとわかると、池田は花房を竹箒を持って追いかけまわした。
それを見た櫛橋が池田から竹箒を取り上げ、花房と二人で竜房内に正座させ反省を促した。
竜たちはそんな二人を物珍しげに見て鳴き声をあげて喜んだのだった。
そんな楽しい日々は、あっという間に過ぎ、岡部、荒木、中里の最終日がやってきた。
最終日の日勤は特に何かあるわけでも無く淡々と過ぎ去って行った。
戸川厩舎の面々は業務を少し早めに切り上げ、馴染みの居酒屋『古だぬき』へと向かった。
夜勤者の並河と庄が自分たちも行きたかったと非常に残念そうにしていた。
並河、庄を除く全員が参加しており、戸川が乾杯の音頭を取ると、あっという間に大盛り上がりになり収拾がつかなくなった。
坂崎と垣屋は楽しそうに荒木と何かしら話し込んでいる。
櫛橋と池田は中里とまだ補習のような事をして盛り上がっている。
戸川、長井、松下、花房が岡部を取り囲んで思い出話に花が咲いている。
途中で戸川はそれぞれ三人から一言挨拶をと促した。
最初は中里が挨拶をした。
急な研修依頼だったのに受け入れてくれて感謝するというような話をした後、次は三浦先生が重賞を取る番だと言って場を沸かせた。
次に荒木が挨拶をした。
荒木は、こんな年齢になって初めて人生を賭けたいと思うような夢ができたという話をした。
絶対に岡部先生とここに戻ってくるからと言うと場はさらに盛り上がった。
最後に岡部が挨拶をした。
戸川厩舎に来て多くの人と関わることができてとても楽しかった。
今度は自分がこういう場を作っていけたらと考えていると言うと暖かい拍手が贈られた。
荒木を一瞥すると、苦労が多い方が団結力が強まるかもしれませんしねと言うと、場は感動ではなく笑いが起こった。
挨拶を聞いた花房が久留米に何かあるのかと岡部に尋ねた。
事情を聞いている長井と松下は互いに顔を見合わせる。
「鬼退治に行くんです。久留米に巣食う鬼を退治に」
そう岡部は麦酒を呑みながら言った。
花房は何の事なのかと戸川の顔を見て尋ねる。
戸川は麦酒を呑みながら静かに笑っただけで答えなかった。
松下も言いづらそうにしたので、代わりに長井が久留米に紅花会の屑調教師がいるらしいよと花房に説明した。
「新規開業の騎手って会派の先輩調教師が一日でも早く初勝利をあげさせる慣習があるんは知ってる?」
長井は麦酒を花房の空いた器に注いて、宴席に似つかわしくない極めて真面目な顔で尋ねた。
「よう一月の競技新聞に今年の開業騎手が勝ったいうて記事になってるやつですね」
「岡部先生のとこの騎手、初勝利先日やで。それも別の会派の竜で」
それまでどこかにこやかだった花房の顔からすっと笑みが消えた。
それがいかに異常な事かは花房にも十分理解できる。
「それって先生が妬まれてるとか? 会の中でもかなりの有名人やろうから」
「それやったら普通は逆にへつらうんと違うか? 自分とこに良え竜まわしてもらいたいって」
確かに。
自分がその立場ならそう考えるだろうと花房も感じた。
「そしたら嫌がらせして辞めさせようとしてるとか? 嫉妬心で狂いそうになって」
「それもバレたら良え竜もらえへんようになるかもって思うよな。普通」
確かに。
一体どういう事なのだろう。
花房には皆目見当が付かない。
普通じゃない。
現状では長井にもそれしかわからない。
「ほな、それをなんとかするんが岡部先生が荒木さんと、やろうとしてる事なんか。キツそうやわあ」
「荒木もそう感じたから付いて行って、手助けしたいって思うたんやろうな」
長井はちらりと荒木を見てそう言った。
つられて花房も荒木を見た。
「男気あるなあ……」
ありがたい事ですと言って岡部も荒木をちらりと見た。
翌日の夜、戸川家ではささやかな宴会が行われた。
既に岡部は、そこそこの大きさの旅行鞄に荷物を詰め込み久留米に行く支度を終えている。
梨奈が次々に肴となる料理を客間に運んできている。
奥さんはすっかりお気に入りの御殿場の蒸留酒を水割りにして用意している。
戸川と岡部は麦酒を杯に注いだ。
一通り料理を運び終えると梨奈も麦酒を注いでもらい乾杯した。
「梨奈ちゃんもお酒呑める歳になったんやねえ」
戸川は梨奈が麦酒を呑むのをじっと見つめている。
「そない見られたら呑みにくいやん」
梨奈は杯を両手で持ったまま俯いてしまった。
それを横目に岡部は麦酒を呑み、蒲鉾にわさび漬けを付けて食べた。
梨奈は岡部が麦酒を旨そうに呑むのを見て一口麦酒を呑んだ。
「うえ。苦い……」
「そやけど毬花(=ホップ)の爽やかな香りだけで後味が残らへんやろ?」
「ええ? 苦いだけやん……」
梨奈ちゃんにはまだ早かったんだねと奥さんがからかうように笑った。
戸川は勿体ないからよこせと言って梨奈の麦酒を呑みほした。
梨奈はどうにもお酒が気になるらしく、今度は母さんの方を呑んでみたいと言って、蒸留酒の水割りを一口呑んだ。
「きゃあ! 何これ! お水、お水」
梨奈は水割り用の水を杯に注いで一気に飲み干した。
「なんでこんなんが呑めるんよ!」
「なんでて、麦の香りが強うて美味しいやん。麦酒みたいに無駄にお腹もふくれへんし」
「……どうかしてるわ」
岡部はそうだと言って柏手を打つと、梨奈に何か果汁水を持ってくるようにお願いした。
梨奈は言われるままに台所からみかんの果汁水を持ってきた。
岡部はみかんの果汁水に麦酒を一対三で混ぜ、これで呑んでごらんと梨奈に渡した。
「あ! これ美味しい! これやったら普通に呑める」
「気分だけでも味わえるでしょ。でも、一気に飲んじゃダメだよ。あと、ちゃんと食べるものも食べないとね」
梨奈は岡部の指導にはあいと元気に返事をした。
それを見ていた戸川は、そこまでしないと呑めないなら果汁水だけ飲んでれば良いのにと見も蓋もない事を言いだした。
かわいらしいもの作ってもらって良いわねと奥さんがからかった。
梨奈はそんな二人を無視してみかん果汁の麦酒を嬉しそうに呑んでいる。
麦酒を二瓶空けたあたりから、岡部も戸川も蒸留酒を水割りで呑みはじめた。
梨奈は少ししか呑んでいないのに壁にもたれて寝てしまっている。
そんな梨奈に岡部が小さな毛布をかけた。
奥さんはもう呑み飽きてきたようで、空いた皿を片付けだしている。
戸川は水割りを呑むと、やっぱりこれは良い酒だとご満悦である。
「次会えるんは年末の豊川になるんやろうか?」
「そうですね。その前々日くらいには、ここに帰ってきたいですけどね」
久留米か。
そう呟いて岡部は天井を仰ぎ見た。
「無理はせんで良えよ。初年度はなんやかや慣れへん仕事でしんどいやろうから」
「初年度は向こうの出方を見ようと思ってるので、色々と大変だろうなって思ってます」
初めての厩舎運営だけでも大変だろうに、その上もう一つ大きな仕事がある。
何故に開業したての調教師がそこまでの苦労を背負わねばならんのか。
代われるものなら代わってあげたいと今でも戸川は思っている。
「君にこんなん言うのも釈迦に説法やとは思うけども、対立しよう思うんやったら一人でも多くの味方を集めることやで」
「わかりました。それを基本方針にしようと思います」
蒸留酒をちびりと呑むと岡部は戸川に微笑みかけた。
「君に限ってそないな事は無いと思うけども、対立の事ばっかりで竜の事が二の次にならへんようにな」
「『竜に真摯に向き合え』ですね。僕もそれを厩舎の方針でやっていこうと思っています」
良い調教師だ。
戸川は目の前の青年を見て改めてそう感じた。
早く一緒の舞台で竜を競わせてみたい。
岡部の笑顔を見ていると、そんな衝動が抑えきれない。
「それな、僕の師匠やった八級の先生の方針やねん」
「そうだったんですね。僕、かなり気に入ってますよ」
「僕も良え言葉やと思うてるよ。亡き先生の志が、こうやって次の世代に受け継がれていくいうんは喜ばしい事やな」
岡部は手にしていた蒸留酒をことりと机に置いた。
少し真面目な顔になり背筋を正した。
「僕も次の世代に受け継げるように精進します!」
戸川はややうつむき気味に薄っすらと笑みを浮かべた。
岡部も戸川を見てずっと微笑んでいる。
戸川は水割りをくいっと呑んだ。
「体に気つけてな」
岡部は戸川を見て小さく頭を縦に振る。
「くれぐれも無理はせんようにな」
岡部は、ええと言って微笑んだ。
「それと……何やったかな。忘れてもうたわ」
戸川がふっと鼻を鳴らすので岡部も小さく笑った。
「悩んだ時はすぐに相談しますね」
いつでも電話してきなさいと言って戸川は鼻をすすり、優しい顔で岡部を見続けた。
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