第12話 追憶
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手
・戸川為安…調教師(呂級)
・戸川の妻…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
外は、依然強い雨が地面を叩き続けている。
地面から跳ねた小さな雨粒がちょっとした靄を作り出している。
岡部は傘を差したまま、玄関前で奥さんを待った。
玄関の扉に鍵をかけた奥さんは、傘を差さずに車庫に駆けてくる。
玄関前で岡部も車に乗り込むと、奥さんは車を走らせた。
ワイパーが前硝子を左右に踊る。
奥さんは車を運転しながら岡部に問いかけてきた。
「綱一郎さんは好きな食べ物って何なん?」
色々ある中で何が一番なのか、暫く考え込んだ。
「お好み焼きでしょうか」
「あれって地域によって結構違いあるらしいんやけど、どこのが好き?」
「ごく普通の出店なんかで出るみたいのですかね」
結局、甘辛のタレが旨いだけなんじゃないかと思うと言うと、奥さんは、それはまだまだ詰めが甘いと笑った。
駅前大通りに出て、そこそこの広さの通りを曲がり、真っ直ぐ進むと大きな八百屋に到着。
奥さんは岡部を車に残すと、一人傘を差して八百屋に向かって行った。
雨粒が車の屋根を叩き、安らかな音色を奏でている。
岡部は、その音楽を鑑賞しながら奥さんの帰りを待った。
この世界に来て三日。
改めて思うのは自分は非常に無力だという事。
戸川家の手助けが無ければ、何一つ生活行動がままならない。
あの時、戸川に拾われていなかったら、拾ってくれたのが戸川じゃなかったらと考えるとぞっとする。
そう考えていると、競馬学校時代の慣れない寮生活をおもむろに思い出した。
――中学校では運動はある程度できたが勉強はイマイチだった。
昔から背が小さく、周囲に馬鹿にされることが多かった。
そんなくだらないことで喧嘩になり、何故か馬鹿にされた自分が担任の教師に怒られる。
今にして思えば、担任は自分の事をかなり嫌っていたように思う。
親の目の前で、チビだから騎手にでもなったらどうだと言った担任の下衆な笑い顔は、未だに鮮明に思い出せる。
ある時、寝たきりだった祖父が頭を撫でながら、自分の欠点を武器にしていきなさいとアドバイスしてくれた。
その祖父の言葉に一念発起し、高校進学を蹴り競馬学校に願書を出すことにした。
十六歳で競馬学校に入り、丸刈りにされ、痣だらけになりながら、青春を棒に振り、なんとか十八歳で晴れて騎手となれた。
あれだけ小さかった身長は、競馬学校に入ってからみるみる伸び、卒業時には同期でも最も高くなっていた。
新聞記者に囲まれ、憧れの騎手はとインタビューを受け、写真を何枚も撮られた。
自分はこの競馬の世界で注目される存在なんだと大いに舞い上がった。
初騎乗のレースのことは今でも鮮明に覚えている。
もう何が何だか全くわからず、がむしゃらに馬を動かし、全くままならぬまま最下位に沈んだ。
それでも所属厩舎の安西調教師は、よく無事に戻ってきたと、好々爺のような顔を向けてくれた。
所属させてもらった安西厩舎は、それほど年間勝星の多い厩舎ではなかったが、年に一度は重賞を勝ち負けするような老舗厩舎だった。
初騎乗の週での最高順位は六着。
それも九頭立てのレースでである。
そこから三か月が経過したが、未だ勝ち星をあげることはできないでいた。
それでも先生は怒る事はなく、焦らんで良い、いづれ必ず苦労は糧になると毎回慰めてくれた。
待望の初勝利は安西厩舎以外の厩舎の馬だった。
嬉しいの前に、安西先生にどんな顔を向けたら良いかわからず困惑した。
だが先生はすぐに駆け寄ってくれて、満面の笑みでおめでとうと言ってくれた。
検量を終え先生を見ると、その馬の調教師に何度も頭を下げお礼をのべていた。
初年度こそ酷い成績だったが、下級条件戦を主体に徐々に良い着を得られることが増えていき、騎手としての手ごたえを感じ始めていた。
同期の中には、初日から勝ち星を挙げ派手に新聞に取り上げられる奴もいたが、人は人、自分は自分と言い聞かせ、毎日真摯に馬と向き合った。
先生の教え通り、きっとこの苦労がいつかは自分の糧になるはずだと。
ある時、同期の奴がぼやきながら言った。
同期間でも、親が関係者のやつとの差がどんどん開いて焦る。
いづれこの差は致命的になり、全く手の届かないところに行かれてしまうんだろうと。
それを聞き、コネの無い自分はスタートラインが違うのだから、コネのある奴の数倍頑張る必要があるんだと、自分に言い聞かせた。
同期がアイドルと熱愛と言う話を聞いた時は、羨ましいより追いつくチャンスだと感じた。
毎日トレーニングはかかさなかった。
録画したレースの映像を流しながら毎日床についた。
テレビとちゃぶ台以外ほとんど何もない空っぽの部屋で。
背の高さが災いし、筋肉をつけると減量が地獄になっていった。
それでも私生活を犠牲に散々努力を重ねまくった。
だが勝ち星は望んだようには増えず、同期でも最も低い成績に甘んじていた。
アイドルと熱愛している同期は、順調に勝ち星を積み重ね新聞に豊富なネタを提供している。
GⅠに騎乗という新聞記事を読んだ時には、未だに重賞にすら騎乗できていない自分と比べ憤りを覚えた。
世の中はかくも不公平にできているものなんだと、理不尽さを噛みしめた。
競馬界の暗部となり始めている自分に徐々に絶望を感じ始めていた。
初騎乗から四年が経ち、未だ条件戦の騎乗依頼しかこない自分を尻目に、同期の奴らは次々に重賞に騎乗していた。
このままでは差が埋まらないどころか、加齢で体力が少しでも落ちたら一気に詰むと、日々焦りが募っていった。
再来年に安西先生が定年になり厩舎が解散になる事を聞くと、焦りは頂点に達した。
無理をしてでもギリギリを攻めなければ、じり貧になるという強迫観念に陥った。
その日からレースでは無理に無理を重ねた。
ところがそれを機に、目に見えて勝ち星が増えていった。
自分には闘争心が足りていなかったのだと思うようになった。
そんなある日、美浦の先輩騎手に、最近乗れるようになったと褒められた。
これまで自分のやってきたことは誤りじゃなかったんだと、家に帰って一人嬉し泣いた。
それからというもの、さらに無理をして攻めた騎乗をするようになった。
だがあるところを境に、期待したようには勝ち星は増えていかず、逆に過怠金が課されることが増えるようになった。
あれだけ優しかった安西先生からすら、そんな乱暴な騎乗をするのなら、うちの馬には乗せられないと苦言を呈された。
もうどうしたら良いかわからなくなっていた。
そして二日前のあのレースだった。
学校では何度も落馬を経験していたが、本番で落馬するのは五年目で初めてだった。
それもよりによってあんな大事故に……
まさか、こんな形で同期に手が届かなくなるなんて――
少し眠っていたらしい。
目が覚めると二時間近くが経過していた。
外はまだ雨が降ったまま。
空は暗く煙り太陽の光を覆い隠している。
車はまだ八百屋の駐車場にいた。
それから暫くして奥さんが戻ってきた。
「ごめんね。近所のよう喋る奥さんに捕まってもうて」
少し声が枯れている。
大きく伸びをして、居眠りしていた風を装い瞳の雫を服で拭った。
「寝てしまっていました」
奥さんは、ごめん、ごめんと謝ると、車を走らせながら、お腹が空いたねと言い出した。
「ひるげに、前から気になってた咖哩屋に行ってみよう思うんよ」
岡部は少し興奮して、カレー屋があるんですねと盛り上がった。
最近皇都に出来た、本場デカンの方が開いた店で、ちょっと辛い汁に平たい麩をちぎって食べる制度らしいと説明された。
いわゆるインドカレーの店なのだろうが、正直その説明だとあまり美味しそうに感じないのは何故だろう?
車は駅前通りを北上し戸川宅付近を通過、更に駅も通過し一本路地を入った。
『デカン料理 歓喜天』と書かれた看板の下、店の扉を開くと、店内から空腹を容赦なく殴るような暴力的なスパイスの香りに襲われる。
二人は胃袋に促されるかのように足早に席につき、出された品書きを見た。
この国特有の表記で、平麩だの成羊だのと書かれてはいるが、複数の小鉢が盆の上に乗った写真は、見覚えのあるものだった。
ふと品書き越しに奥さんを見ると、珍しく困っている。
「初めてやから、全然わからへんのよ」
「じゃあ僕が適当に頼みましょうか?」
岡部はデカン人という店員を呼ぶと、マトンカレーと、チキンカレーのナンセットを二名分注文した。
「綱一郎さんは、こういう店来たことあるんやね」
「元の世界では比較的よくある店でしたね」
料理が運ばれてきても、奥さんは非常に困惑している。
「この汁は匙ですくったら良えの?」
「それでも良いですけど、こっちのを一口大に手でちぎって、付けて食べるのも良いですよ」
ナンをちぎりチキンカレーをすくって食べてみせる。
奥さんもそれを真似した。
「手で食べるんは、何や、ごつい行儀の悪いことをしている気分」
「背徳感がありますよね」
途中でカレーの具をスプーンで食べ、最後のカレーをナンで拭い取ると綺麗に完食。
奥さんは初めてのせいか、そこまで綺麗には食べれていない。
最後にマンゴラッシーを飲み干した。
最後の飲み物は何なんだろうと聞かれたが、うまく説明がつかないのでメニューをそのまま見せた。
「ああ、南国の芒果の味なんや。あとは、北国の発酵牛乳なんや。これはなかなかオツなものやね」
奥さんはインドカレーもマンゴーラッシーもかなり気に入ったらしい。
思ってたより美味しかったから、今度真似して作ってみようと言いだした。
「市販の粉でも良えんやろうか?」
「いや、確か香辛料を何種類も使って、独特な作り方をするんだと思いましたよ?」
ラッシーの方なら簡単かもと言うと、奥さんは、じゃあこっちを作ってみようと嬉しそうな顔をした。
二人は満足して店を後にした。
空は今だ鼠色の厚い雲に陽を隠され、雨が降り注がれたままであった。
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