第51話 止級
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師候補
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女
・中野みつば…最上牧場(南国)の場長、最上家三女
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・日野…研修担当
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・吉田…日競新聞の記者、通称「髭もぐら」
・松井宗一…樹氷会の調教師候補
・武田信英…雷鳴会の調教師候補
・大須賀忠吉…白詰会の調教師候補
・松本康輔…黄菊会の調教師候補
・服部正男…日章会の騎手候補
・臼杵鑑彦…無所属の騎手候補
・板垣信太郎…雷鳴会の騎手候補
・田北鑑信…黄菊会の騎手候補
・村井貞治…白詰会の騎手候補
十一月に入ってすぐに岡部に一本の電話が入った。
その電話相手の要請で、週末、駿豆鉄道に乗って駿府の大宿に向かうことになった。
大宿の受付に行くと奥から支配人が現れ、既にお待ちだと言って小宴会場を案内された。
「岡部さん久しぶりです。去年の忘年会以来かな?」
小宴会場で待っていた義悦が席につくように促してきた。
だがいつもの笑顔ではなく、どこか不機嫌そうなものを感じる。
「そういえば、『サイヒョウ』が結構良さそうって聞いたんですけど」
「新竜の数か月間しか携わってないですけど良い竜でしたよ。脚が矯正できれば重賞一つくらいは普通に取れそうに見えるんですけどね」
岡部が調教師候補になってから、戸川厩舎では櫛橋が副調教師待遇になった。
櫛橋は騎乗の経験が全く無いからと非常に嫌がったようだが、ちゃんと計画が修正できる人が欲しいからと説得したらしい。
ただやはり竜に乗った事が無いというのはかなりの足枷らしく、かなり苦戦しているらしいと聞く。
夏休みに聞いた話では『サイヒョウ』の脚の矯正はゆっくりとしか進んでいないそうで、出走しては腰痛で休養を繰り返しているのだそうだ。
ただここまで、新竜戦、新竜賞予選、能力戦二、能力戦三、天狼賞予選と走って五戦五勝。
これまで負かした竜の中には新竜賞勝ち竜と上巳賞勝ち竜がおり、同世代の短距離戦線では本当ならこの竜が絶対王者なのではと噂されている。
天狼賞予選の二着の竜が決勝で二着しており、期待度だけは抜群である。
恐らく次走は来年の金杯になるだろう。
「そうか。じゃあ、来年の初戦を楽しみに待つとしようかな」
それまでどこか不機嫌そうだった義悦が、やっとニコリと微笑んだ。
「で、今日はどうされたんですか?」
「まあ、それは昼食でも取りながらおいおいと」
この時点で岡部は、どうやら慰労の為に呼ばれたわけでは無いらしいと察した。
二人は昼食を取ると、ゆったりと珈琲を飲んだ。
どこかゆるりとした晩秋の午後の歓談は、義悦の言葉で簡単に不穏な空気に変わった。
「岡部さんさ、祖父に何か言ったでしょ?」
「何の話ですか?」
義悦は岡部がとぼけたのだと感じ、じっとりした目で見ている。
ならばじっくりと問い詰めるまで。
義悦はカップに口を付けた。
「私、三か月前に急に南国に赴任になったんですよね。何でだと思います?」
「あの時の止級の件でしょうか?」
あの話を知っている人間は少ないはずで、その中の一人が義悦なのだから、岡部の返答はおかしなものでは無いだろう。
「ご名答です。私が南国に行く前にさ、岡部さん北国に行きましたよね?」
「ええ。会長から幼竜を見立てて欲しいって言われて」
「南国の中野さんと一緒に」
「よくご存知で。ちょうど中野さんも北国の牧場を見学に来てましたね」
岡部はあくまでとぼけるつもりだと義悦は感じた。
その態度がかなり不愉快に感じる。
「その後、福原の大宿に行きましたよね? 祖父と何の話をしたんですか?」
「大山さんから止級の竜運船の進捗の報告を聞きに……」
明らかに義悦は満足していない顔で、岡部に不信そうな目を向けている。
その視線が岡部には耐えがたいものがあった。
「義悦さんが、どこまで会長から話を聞いてるかわからないので、こっちもどこまで話して良いのやら」
「ああ、そういう事ですか。双竜会と清流会を天秤にかけて手玉に取れって言われてますよ。絶対、祖父じゃ考え付かないやつね」
誰からの入れ知恵なのやら。
義悦はじっとりとした目で岡部を見ている。
「それは……僕ですね……」
「じゃあ、私を南国に行くように言ったのは?」
義悦は覗き込むようにして岡部の顔を見た。
「……僕たちです」
「ほらあ! やっぱりだ!」
あたかも祖父の案であるかのように指示され、突然南国に放り出された。
これまでの祖父の方針とあまりにも違うから、絶対裏に誰かいると訝しんでいたのだ。
「いや、これには大きな理由がね」
「知ってますよ! 会長に向けての修行でしょ。おかげでもう毎日料理が口に合わなくて。酷い目に合ってますよ!」
義悦は口を尖らせて岡部を責めた。
ここで笑ってしまったら、愚痴が続いてしまうと感じた岡部は、笑い出しそうになるのを必死に堪えた。
「さて。鬱憤を聞いてもらって気が晴れたので、本題に入りましょうか」
義悦はうって変わって笑顔になった。
「実は、私も最初に話を受けた時は、まさかこんな展開になるなんて思いもよらなかったんですよね」
義悦は、これを見て欲しいと言って競竜の機関紙を岡部に見せた。
そこには止級の国際競争が開催されるという記事が載っていた。
「これ僕も耳にしました。今の重賞も、いくつかが昇格するんじゃないかって」
「いくつかじゃないです。全部が一つづつ上がるそうですよ」
全部が昇格という事は、それだけ賞金も跳ね上がるという事で、これまでのように遠いから、資金や施設が無いから遠征しないという選択肢は取れなくなっていくだろう。
「で、『海王賞』が特一になって、国際競走として国際三冠に組み込まれるんだそうです」
「とすると『海王賞』の賞金額は倍額になると」
義悦はちちと舌を鳴らし首を横に振った。
「倍なんてもんじゃない。『竜王賞』『八田記念』と同程度にまで引上げだそうです」
「え! じゃあ、呂級のどの重賞よりも高額になるじゃないですか!」
そう言う事ですと言って義悦は大きく頷いた。
「伊級でも『天皇杯』『天皇賞』に次ぐ、五番目に高額な競争になりそうだそうです」
義悦は、今度はこれを見て欲しいと言って、南府新報という新聞を岡部に見せた。
そこには『紅花会、竜運船を開発か』という記事が載っていた。
日付を見ると先月の中頃となっている。
「あの事業は、今、秘匿事業じゃなくなり、南国牧場の独立事業として私と大山を中心に動いています。だからって、いきなり取材もなくこんな記事を書かれるなんて」
「かなり以前から情報が洩れていて、秘匿じゃ無くなったから公表して良いと新聞が勝手に判断したって事なのかなあ」
だとしたら営業妨害で訴訟問題にすれば良いだけの問題である。
だが何かが引っかかる、そう岡部は感じていた。
「これが記載されてからというもの、連日、事務所は問い合わせがひっきりなしでして」
「報道ですか? それとも会派から?」
「どっちもです。会派については全部祖父にまわしてますけど、報道の方はどうしたものかと」
義悦は頭を抱えてしまった。
毎日のように花蓮の牧場に新聞記者が押しかけていて、お客様窓口の方にも連絡が行っているらしく、業務に支障が出ていて、みつばが毎日ピリピリしてしまっているのだそうだ。
「企業秘密で押し通せないんですか?」
「この記事の時期が悪すぎたんですよね。新聞各社に『止級の竜運技術の向上が急務』って記事が出て、いきなりこれでしたから」
つまり南府新報は新聞各社に『格好のネタがある』と、うちの牧場を売ったのだろう。
自分たちだけでは企業秘密だと蹴られるから、記者仲間を呼び集めて、報道の自由を盾に無理やり押し通って強引に取材をしようとしているのだろう。
「それからというもの、大っぴらに試験もできずに困っているんです。しかし清流会と双竜会の先見の明には驚く次第ですよ」
「いや……きっと清流会も双竜会も、止級の賞金が上がる事をとっくに知ってたんですよ」
義悦は信じられないという顔をした。
恐らくは竜主会の中でも、ごく一部の極めて限られた者だけで止級改変の会議は行っていたはずである。
当然極秘の内容であり、他言は無用と会議の中では言っていたであろう。
だが、そのごく一部の者の中に清流会と双竜会の者がいた。
あくまで噂の範疇だとして会長の耳に入ったのだろう。
「じゃあ、もしあの時、祖父が業務提携を断ってたとしたら……」
「新聞の力で無理矢理こっちの鍵をこじ開けたんでしょうね。間諜(=スパイ、内通者)を使って今の開発者の誰かに裏から金を握らせて情報を得て公開とか」
そんなの完全に違法行為じゃないかと義悦は憤った。
だが岡部は、報道の奴らはそれくらいの事は平気でやってくると指摘した。
彼らは遵法意識が極端に薄く、自分たちを特権階級だと勘違いしている節がある。
『セキラン』の一件で嫌というほど味わった事である。
「清流会とも双竜会とも、ちゃんと業務提携を結んだのに。何で報道がこんな事を……」
「二つの会派が報道を制御できなかったか、あるいは……」
岡部は珈琲を啜った。
「双竜会と清流会には、どの程度協力要請をしたんですか?」
「それがまだどちらとも……」
義悦の言葉に岡部は驚き、思わず珈琲をこぼしそうになった。
「それはまたどうして? もうあれから結構日付経ってますよね?」
「私は話を聞いて、てっきり向こうから協力を申し出てくるものだと思ってたんです。ところがここまでどちらからも音沙汰無しでして」
つまり、こちらが向こうの意図に気付いたように、向こうもこちらの意図に気が付き、駆け引きに出ているのだろう。
向こうは海千山千の会派の会長である。
一筋縄ではいかないであろう。
「この事を会長には相談したんですか?」
「実は、この人事を受ける時に祖父から言われてるんですよ。困ったら若者同士で頭脳を寄せ合ってみろって」
義悦はそう言って岡部から目を反らした。
そんな事を言ったら、義悦さんは困ったらすぐに岡部を頼るに決まっているではないか。
「うわっ。それはちょっと狡くないかなあ」
「就任して指揮を取ってから、大山たちと色々相談してきたんですよ。何とかこちらだけで対処できないかと思いましてね。ですが、もはやこちらの手に負える範疇を超えてしまって、ついには、大山が岡部さんの助力を仰いだ方が良いと言いだして……」
義悦はそう言って苦笑いしたが、岡部はじっとりした目で義悦を見つめた。
「それじゃあ会長は、この面倒事を体よく僕に丸投げしたって事じゃないですか」
「まあまあ。そこの部分は私に免じて」
義悦は両手をパタパタと岡部に向かって仰いだが、岡部は呆れ果て大きくため息をついた。
いつまでも憤っていても仕方がない。
岡部は小さく息を吐き対策を考えた。
「双竜会と清流会の南国牧場の場所は知ってるんですか?」
「ええ。どちらも花蓮近くにあります。ちなみに稲妻牧場や楓牧場は台北に、古河牧場、雪柳会、薄雪会、火焔会は高雄ですね」
そう言うと義悦は、鞄から台湾島の地図を取り出し広げた。
「最初に列島に近い台北に牧場が作られ、次に軍事基地として発展していた高雄に、後発は立地条件を熟考して花蓮にって感じみたいですね」
岡部は口元に手を当て、暫く地図を見て考え込んだ。
かなり真剣に考え込み、ふいにこれだなと呟いた。
「双竜会、清流会、双方に現状の進捗報告をするべきでしょうね」
岡部は左手を顎に当て、右手で地図の花蓮を指さしながら言った。
「今さら進捗報告なんてしたら、焦ってると思われて足元を見られませんか?」
「三会派だけの極秘案件だと言っておけば良い。その上で、報道に情報が少しでも洩れたらその時点でこの話は終りだと言って」
恐らくは報道に情報を流したのは双竜会か清流会のどちらか、あるいは両方だろう。
であればそれでしつこい報道の追及は止むはずである。
「秘密を共有するのか。なるほど。秘密を共有すると親密になるって聞きますもんね」
義悦の相槌に岡部は大きく頷いた。
「ここは大山さんとの協議になるでしょうが、鍵になる情報は全て伏せて実験に協力してもらった方が良いでしょう」
「実験するのはまさにその鍵の部分なのに、その情報を伏せれるわけないじゃないですか」
義悦の指摘に、岡部はそうじゃないと指摘した。
勘違いしてはいけないと。
「共同開発じゃなく開発協力してもらうんですよ? であれば主導権はこっちが握らなきゃ」
「いや、それはわかるんですけどね。もしそれで向こうが納得しなかったらどうするんですか?」
向こうだって当然開発協力するからには少しでも情報を得たいと思うであろう。
最悪の場合、計画の資料を見て協力を解消されてしまう可能性も無くはないだろう。
「どうしようもないくらいごねるようなら、実験場所を高雄に移す事を匂わすんですね」
そう言うと岡部は地図の島南端を指さした。
義悦は岡部の言った言葉の意味がわからず暫く考え込んでいる。
「……古河牧場に協力を仰ぐんですか?」
「という事を匂わせるんです。そうなったら清流会も双竜会も、利益共有は絶望的ですよね。なんせ向こうの方が規模が大きいんですから」
こちらがしっかりと主導権さえ握っていれば、そういう駆け引きはいくらでも可能なのだ。
そう説明する岡部に義悦は徐々に理解が追いつかなくなっていった。
「それだと今度は、古河牧場に足元をすくわれてしまったりはしないのですか?」
「実際には、雪柳会、火焔会に協力を仰ぐんですけどね。清流会、双竜会にハッタリかますには、それなりの張子が必要でしょ」
「古河牧場は囮と……」
岡部は義悦が理解の許容を越えたと感じたが気にせず話を続けた。
「実際、雪柳会たちに協力を仰ぐまで行くようなら、高雄の報道に仲間を作っておくくらいはしないといけませんけどね。でも恐らくですが、そこまでは行かないでしょ」
その駆け引きを自分がやるのかと考え、義悦の額から汗が一粒滴った。
無理とは言わない。
だが、上手くできる自信がない。
「会長になったら他会派との綱引きだらけでしょ。この程度やれなくてどうするんです」
岡部は発破をかけたつもりなのだが、義悦には叱責に感じている。
「はたして私に上手く最良の結果が引き出せるのだろうか……」
「ということは、最良の結果がどのあたりかの想定はしてるんですよね?」
義悦は、次々に新しい課題を出してくる岡部に少し畏怖している。
「いえ……まだ……ずっと先の事だと考えていたので……」
「では、帰ったら大山さんと、まずはそこから相談したら良いですよ」
最良の結末がどんな形かをまず考える。
それさえできれば、後はそこから逆算していけば良い。
どうしていけばその結末に導くことができるか、自ずと手段は見えてくるはずである。
「もしそれでもわからない時は、また僕に相談してきてもらってかまいませんから」
「申し訳ない。ちょっと頭の整理が追いついていかなくて。今後も頼りにしています」
そう言って義悦は、手帳にこれまでの事を纏めて書き込んだ。
それを岡部は珈琲を啜りながら暖かく見守った。
帰り際、岡部は義悦の肩を掴んだ。
「義悦さん。あなたは一人じゃないんだ。僕もいれば大山さんもいる。そう言った相談できる人をもっと見つけて行きましょうよ」
その言葉に、それまで混乱を引きずったままだった義悦の表情から急に感情が消えた。
「それで思い出した。岡部さん。祖母と母にも何か余計な事言ったでしょ!」
「では僕、研修があるのでこの辺で」
「明日、日曜で研修無いでしょ! 下手な言い訳しおってからに。今度、じっくり問い詰めますからね!」
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