第46話 逆襲
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師候補
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女
・中野みつば…最上牧場(南国)の場長、最上家三女
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・日野…研修担当
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・吉田…日競新聞の記者、通称「髭もぐら」
・松井宗一…樹氷会の調教師候補
・武田信英…雷鳴会の調教師候補
・大須賀忠吉…白詰会の調教師候補
・松本康輔…黄菊会の調教師候補
・服部正男…日章会の騎手候補
・臼杵鑑彦…無所属の騎手候補
・板垣信太郎…雷鳴会の騎手候補
・田北鑑信…黄菊会の騎手候補
・村井貞治…白詰会の騎手候補
数日後、四回目の実習競走が行われた。
当日の朝までどしゃ降りの雨が降っていて、雨足は弱まったものの、まだ霧のように細かい雨が降り続いている。
競技場がびちゃびちゃに濡れていて、かなり滑りそうだと騎手候補たちは言い合っていた。
調教師候補たちは、この雨が自分の竜にどれだけ影響するのかが気になっている。
教室の方を見ると、騎手候補の一年と二年が観客として見学している。
発走者の旗を合図に発走機の柵が一斉に倒れる。
一周目、五頭は一団となって周回した。
二周目も五頭は一団となったままだった。
三周目、鐘が鳴り全竜が加速すると『サケエイリ』が少し遅れた。
三角を過ぎ曲線で『ミズホフクガン』が他三頭と共に加速、最後の直線に入ると『サケエイリ』も一気に加速。
『サケエイリ』が前の竜を捕えたところで終着した。
一着は武田の『ハナビシホオヅキ』、二着は大須賀の『ジョウランブ』、三着が松井の『ミズホフクガン』。
岡部の『サケエイリ』は四着、最下位は松本の『ビシャモン』だった。
終着後、服部はまるで勝ったかのような喜びようであった。
臼杵や板垣も自分の事のように服部と喜び合っている。
それは調教師側も同様で、岡部は他の四人から大いに祝福を受けた。
松本も、ついにやられたかと笑顔で岡部の背中をバンバン叩いた。
今日は祝杯だと大須賀が言うと、他の四人はいつもの店に集合だと大興奮であった。
その日の夕方、『いつもの店』こと串焼き屋『串浜』に五人は集合した。
焼き鳥を適当に、それと麦酒を注文。
麦酒が届くと五人は待ちくたびれたとばかりに乾杯した。
「いやあ、やられた! ついに追いつかれたよ!」
松本は負けたというに、どこか嬉しそうである。
「いやあ、岡部くん、狙ってたのってアレだったんだな。凄い差し脚だったよ」
「まだ最終的な所を考えたら五割って所だよ。まだまだあれじゃあ」
「言うねえ! まあ良いよ。今日は言わせといてやるよ! 君の祝賀だからな」
松本は岡部の背中をパンパン叩いた。
「君に最初に負けた人は精神的にきついって俺思ってたけど、そこまでじゃなかったな」
「そりゃあ誰かは最下位になるんだし」
「そうじゃないよ。最初のアレをみんな見てるからだよ。あのガリガリの竜にだけは負けたくないって思ってたんだよ。だけど今は凄く嬉しい。何でだろうな」
武田が何となくわかると言って砂肝串を食べた。
あの竜が自分たちに追いつくのを皆がずっと期待してたのだ。
「それだろうな。俺も今そんな気分だわ。後、負けれないっていう脅迫からも解放された気がする」
確かにそれはあるかもなと大須賀と武田が笑いあった。
実際こうなってくると、先月よりも負けたくないという気持ちが強くなってきている。
あの竜に負けたらさすがにマズイなという気持ちから、岡部君の竜には負けたくないという気持ちに変わっている。
「これで俺は気持ちを切り替えて追う側に入れる。武田くん、大須賀くん、覚悟しろよ!」
松本が嬉しそうな顔で食べ終わった串を武田と大須賀に向ける。
大須賀はえらい吹っ切れようだと笑い出した。
大須賀は追加の串焼きを注文すると武田を見ながら麦酒を呑んだ。
「しかし、武田くんの竜は成績が安定してるよなあ」
ここまで四戦し武田の『ハナビシホオヅキ』は一着、二着、二着、一着。
連帯率十割。
実際の競争なら断トツの一番人気であろう。
「元々僕の竜は最初からみんなに比べ体が大きかったから」
初めて見た時、本当に引退間際の竜だったのかという印象すら受けた。
最初は岡部のガリガリの竜を見た後だから相対的にそう見えるのかとも思った。
だが、調教してみて明らかに良い竜だという感触がある。
これで生涯戦績が三六戦してたったの二勝なのである。
確かに二着や三着が異常に多い。
だがそれでも、これを管理していた調教師の腕はちょっとと思わせる。
「だけどさ、それを保ち続けるのも、それはそれで大変じゃない」
武田は、ぼんじりの串を口にすると、少し照れくさそうな態度を取った。
「板垣の調教が上手いいうのがあるんやろうね」
「確かにあの子、騎乗の姿勢が綺麗だよね」
「僕もかなり助かってるよ。本人にはよう言わんけどね」
天狗になられると困るから絶対にここだけの話にしてくれと武田は四人に念を押す。
言わない言わないと大須賀が笑い出した。
「しかし羨ましいなあ。うちの村井は調教が弱いんだよ。体の芯が緩いんだよね。だから追ってると徐々に竜を追うんじゃなく竜に負わされてる感じになっちゃうんだよ」
大須賀が苦々しい顔で言うと、松本もうちの田北もそんな感じだと憤った。
臼杵も最初はそうだったと言いながら、松井は串を口にくわえた。
竜に呼吸を合わせる為に、とにかく調整室で筋肉を付けろと口酸っぱく言ってたら、最近は少しマシになってきたと松井は説明した。
「つまり、あいつ鍛錬が足らんのか。そうかそうか」
大須賀は目を細め二っと口元を歪めた。
その悪そうな顔に、武田は顔を引きつらせた。
「あんま、やりすぎひんようにな」
岡部は、そもそも服部は調教が雑だと愚痴った。
竜を追うんじゃなく無理やり竜を走らせている感じ。
あれだといづれ竜が服部のいう事を聞かなくなりそうと危惧している。
暫く盛り上がっていると、突然松本の携帯電話に連絡が入った。
松本は宛先を見て、嫌な予感しかしないと言って席を外した。
戻ってきた松本は大きくため息をつくと、岡部に、学校から呼び出しだと告げた。
「何があったんだろう?」
「詳細は聞いてないけど、まあ、大体想像はつくわな」
岡部と松本だけ呼び出しと言われれば、当然昼間の競争絡みだろう。
「誰からだったの? 電話」
「日野さんって教官。という事はだ……」
「また喧嘩かよ。元気良いねえ」
岡部と松本はお互い顔を見合わせてげんなりした。
学校に着くと、二人は一つだけ明かりの点いた教室に通された。
そこには、四人の教官と日野、それに服部と田北がいた。
日野は二人を見ると申し訳なさそうな顔をする。
「悪いね、気持ちよく呑んでたところ。俺もさ、呑んでたとこ呼び出されちゃってね」
日野は呆れ果てた顔で服部と田北を見ている。
「まあ、しょうがないですよね」
松本も服部と田北を見て呆れた顔をした。
「何があったんですか? ……まあ、何となく察しはつきますけど」
「俺はまだ何も聞いてない。前回の事があるからさ、最初から君たちに来てもらったんだよ」
日野の説明に、松本はなるほどと言って再度服部と田北を見た。
岡部も松本と顔を見合わせ、大きくため息をついた。
一人の教官が、服部と田北が調整室でつかみ合いになっている所を見つけ連行したと報告した。
服部と田北は教官を睨み黙っている。
松本は田北に向かって静かに問いただした。
「田北。何で喧嘩になったか言えよ。これで二回目だ。内容次第では俺は許さんよ」
「喧嘩はしてません!」
田北は真っ直ぐ松本の顔を見てそう言い切った。
「教官が見たって言ってるのに、それが通用するとでも?」
「喧嘩はしてません!」
再度、田北は同じ事を全く同じ口調で言った。
「じゃあ教官が見たのは何だっていうんだよ! 遊びが過熱したとでも言うのか?」
「してないものは、していないんです!」
日野は二人のやり取りに大きくため息をついた。
松本は頭を抱えてそれ以上何も言えなくなってしまった。
岡部と服部は視線を合わせずっと黙ったままである。
日野は、そんな岡部の態度を見ると、これは何かあるなと感じた。
ここは俺が治めるからと言って教官を勤務に戻らせた。
「日野さんって喧嘩担当なんですか?」
日野以外の教官が全員教室から退室したのを見て岡部は日野に尋ねた。
「岡部君、喧嘩担当はちょっと酷くないかい? 生活指導なんだよ」
「ああ、だから喧嘩があると呼び出されるんですね」
岡部は笑い出した。
日野は若干不満気な顔をする。
「ところでさ、君たち全然呑んでるとこ見ないんだけど、一体どこで呑んでるの?」
「『串浜』っていう焼き鳥屋ですよ。金山の方にある」
さすがに日野は勤務地なだけの事はあり、お店自体はすぐにわかった。
「そっか、下宿からだと結構近いのかあそこ。で、美味しいの?」
「変な串焼きがたくさんあるんですよ。小赤茄子とか、獅子唐とか」
ほうと言って日野は顔をほころばせた。
「今度、俺も誘ってよ!」
「じゃあ今度研修終わりに一緒に行きましょうよ!」
日野と二人で談笑していた岡部が、ふいに視線を服部に移した。
「で、服部。本当は何があったの? もう日野さんしか教官いないから良いだろ?」
服部は田北の顔を見ると渋々話し始めた。
「田北が落ち込んでたんですよ。初めて最下位になった言うて。飯も全然食べへん状態で」
それでと相槌を打って岡部は話を続けさせた。
「調整室で村井が見かねて田北を慰めたんやけど、ちょっと言い方が……その……田北を憐れんだような感じやったんです」
田北はその時を思い出し拳を強く握った。
「それで田北が怒って。村井と田北が喧嘩になりそうになったんです」
そこまで聞いた松本は、何でそうなるかなあと言って机に突っ伏した。
田北も若干バツの悪そうな顔をする。
だがそれだと話の辻褄が合わないと岡部は指摘した。
当然まだ続きがあると言って服部は話を続けた
「僕が田北を、板垣が村井を止めたんです。そしたら田北が僕に、今度は絶対負けへんからなって……」
服部は田北を見て不貞腐れたような顔をした。
「で、その……売り言葉に買い言葉いうか、僕も、次も抜いたるから覚悟せいって……」
「掴んだまんま言い合ってた、その部分だけを見られて喧嘩だと騒がれたと」
服部は大きく頷いた。
田北もそうなんですと頷いた。
くだらないと、岡部は一刀両断だった。
「日野さん、教官って暇なんですか? 僕には喧嘩してたようには聞こえないんですけど?」
岡部が馬鹿馬鹿しいと言って日野を責めると、日野も非常に呆れた顔をした。
「岡部君。忘れてるかもしれないけど、俺も呑んでたとこ呼び出された被害者だよ? その言い方はあんまりじゃないかな?」
日野は自分も君たちと同じ状況だと主張した。
「で、どうするんです、これ? 始末書とか反省文とか、また書くんですか?」
「……内容的に書くとしたら俺ら教官の方だよね」
「でしょうねえ」
岡部だけじゃなく、松本も責めるような目で日野を見ている。
その二人の視線に日野は耐えられずに渇いた笑い声を発した。
「実を言うと今日、喧嘩になるかもしれないから注意しろって確かに言ったんだけどもね」
「日野さん!」
「そりゃあ杞憂くらいするだろ! それが俺の仕事なんだもん」
日野はあからさまに不貞腐れた顔で岡部と松本を見た。
そんな日野をじっとりとした目で岡部と松本は見ている。
服部と田北は、ここで笑ったら何言われるかわかったものではないと必死に笑いを堪えている。
「しかし困ったなあ。何も無かったって事にしたら、それはそれでこっそり示談謀ったみたいに思われて嫌なんだよな」
松本がそう言って悩み出すと、日野も確かにそれはそうだと困り顔をした。
「そうしたら、調教師候補に厳重指導してもらいましたって事で締めれたりしますか?」
岡部の提案に日野は柏手を打ちそれで行こうと了承した。
「じゃあ、この後三人で呑み直そうよ」
「そうですね、行きましょうか!」
岡部はすっかり酔いが醒めちゃったと少しご立腹である。
そんな岡部を日野がまあまあと宥める。
松本は呆れ顔で、日野さん多目に出してくださいよとねだった。
日野は、服部と田北に寮に戻るように指示した。
教室から出ようとする二人を、岡部は言い忘れていたと言って呼び止めた。
「そうそう。服部、田北。君ら二人、来月のご褒美は無しだからな」
二人は突然の言葉に思わず動きを止めた。
「……え? 何でですか?」
「ご褒美ってのは、良い子にしてた子が貰えるもんだよ」
服部も田北も絶望的な顔でお互いの顔を見合っている。
「いや、あの……誤解やって、わかっていただけたんじゃ?」
「あのなあ。お前ら二人が最初から教官に誤解だって言い繕えば良かっただけの話じゃねえか!」
岡部の指摘に、松本も日野もそれは確かにその通りだと言い合った。
服部はわなわなと震え出した。
服部は田北に掴みかかり、お前のせいで僕までと涙を浮かべた。
それを見た日野が、お前ら反省文が書きたいのかと二人を厳重注意した。
よろしければ、下の☆で応援いただけると嬉しいです。