第40話 福原
登場人物
・岡部綱一郎…元競馬騎手、紅花会の調教師候補
・戸川為安…紅花会の調教師(呂級)
・戸川直美…専業主婦
・戸川梨奈…戸川家長女
・最上義景…紅花会の会長、通称「禿鷲」
・最上義悦…紅花会の竜主、義景の孫
・武田善信…雷雲会会長、竜主会会長
・氏家直之…最上牧場(北国)の場長、妻は、最上家次女のあすか
・志村いろは…最上競竜会の社長、最上家長女
・中野みつば…最上牧場(南国)の場長、最上家三女
・長井光利…戸川厩舎の調教助手
・池田…戸川厩舎の主任厩務員
・櫛橋美鈴…戸川厩舎の女性厩務員
・坂崎、垣屋、並河、牧、花房、庄…戸川厩舎の厩務員
・荒木…戸川厩舎の厩務員
・松下雅綱…戸川厩舎が騎乗契約している山桜会の騎手
・日野…研修担当
・三浦勝義…紅花会の調教師(呂級)
・吉田…日競新聞の記者、通称「髭もぐら」
・松井宗一…樹氷会の調教師候補
・武田信英…雷鳴会の調教師候補
・大須賀忠吉…白詰会の調教師候補
・松本康輔…黄菊会の調教師候補
・服部正男…日章会の騎手候補
・臼杵鑑彦…無所属の騎手候補
・板垣信太郎…雷鳴会の騎手候補
・田北鑑信…黄菊会の騎手候補
・村井貞治…白詰会の騎手候補
出雲旅行ではしゃぎ過ぎたらしく、翌日から三日、梨奈は熱を出して寝込んだ。
週が替わり、土肥の競竜学校に戻るまで後幾日という日の事だった。
来月以降、年末近くまで岡部は土肥に行ったままになる。
奥さんと梨奈は明日はどこに連れて行ってもらおうと、岡部の前で旅行雑誌を開いてニコニコしている。
あっちはどうだ、こっちはどうだと二人で言い合い、最終的に琵琶湖の竹生島に行こうという事で意見がまとまった。
だが戸川が帰ってくると二人の笑顔は凍り付いた。
最上会長から福原の大宿に呼び出されたのだった。
翌日、皇都から山陽道在来線の快速列車に乗って福原に向かう事になった。
「いやあ、怒ってましたねえ」
昨晩の事を思い出すと岡部は思わず苦笑いしてしまう。
奥さんと梨奈は戸川に対し、父さん一人で行けと何度も文句を言っていた。
そんなわけにいくかと戸川は怒ったのだが、二人はああでも無いこうでもないと文句をたれ続けていたのだった。
「すまんなあ。あいつら、もうすっかり味しめてもうて……」
「まさか梨奈ちゃんの学校が始まるのが明日とはね」
二人の抵抗は実は戸川の何気ない一言であっさり終了した。
梨奈の学校はいつからなのか。
梨奈はしまったという顔をし非常に小さな声を発した。
戸川はギロリと梨奈を睨み、聞こえないと指摘した。
「だいたい、出かけて熱出して休んでしとる奴が、今日遊びに行っとったら明日学校行けへんやないけ」
ごもっともと言って岡部は笑い出した。
「ところで、会長から何の用事か聞いてます?」
「詳しくは聞いてへんけど、おそらく先日のあの件の続報やろ」
福原の大宿に着くと、受付近くの待合で南国牧場の大山が座って珈琲を飲んでいた。
「お久しぶりです。大山さん」
「おお、岡部さん、戸川先生。お久しぶりです!」
大山は岡部たちに駆け寄ってそれぞれ握手を交わした。
「今日はどうされたんです?」
「会長に呼ばれたんです。ご指名だって場長に言われて。岡部さんたちもですか?」
岡部は戸川の顔をチラリとみると、無言でこくりと頷いた。
「大山さんは今日の議題が何か聞いてます? 僕たち詳しい事聞いて無くて」
「岡部さんたちも何も聞いてないんですね。場長も何も聞かされ無かったみたいで」
これは報告だけじゃないなと、戸川は不機嫌そうな顔をした。
暫くすると最上が受付に現れた。
最上は待合に揃った三人を見ると、お待たせしてしまったかなと笑顔を見せた。
戸川と岡部は慣れたものだが大山にとっては雲の上の人物の登場である。
緊張でガチガチになっている。
最上は三人を小宴会場に案内すると、宿の係員に昼食の準備をお願いした。
昼食が運ばれてくると、最上はまずは昼食にしようと言って茶の入った湯呑を高く掲げた。
「大山さんは南国暮らしはもう慣れました?」
大山の緊張をほぐそうと岡部は大山に話題を集めた。
「実は食事がなかなか……僕の住んでた相模の逗子とは味付けが全然違うんですよ」
昆布出汁だけで汁物を作ったり、豚を茹でてその茹で汁で蕎麦を食べたり。
独特な調味料にもどうにも慣れないと大山はかなり困った顔をする。
「そういえば前回行った時、正直、僕も食事の味付けには慣れませんでしたね」
同じ食べ物でも味付けが全然違う。
その上独自の調味料を使うものだから想像したものとは全然違う味のものが出てくる。
鰹出汁をあまり使わないんだよなと戸川も嫌そうな顔をした。
そういえば、みつばたちも最初嫌がっていたなあと最上が笑いだした。
「場長たちも食事には苦戦されてたんですね」
「北国に行ったあすかはそんな事は無かったんだがな。中野もみつばも二言目には帰りたいって言ってたな」
懐かしい話だと最上は少し遠い目をして微笑んでいる。
「場長たちはどうやって克服したんでしょうね?」
「克服はしてないんじゃないか? みつばがうちのに言われて全部食事作ってるだけで」
早くそういう連れ合いを見つけろという事だと戸川は大山を見て笑い出した。
大山は照れて鼻の頭を掻いてる。
岡部は自分に話が飛んでこないように食事に集中し始めた。
食事が終わる頃には、大山はすっかり緊張がほぐれていた。
食事が終わると最上はすぐに配膳を下げさせ、代わりに飲み物と菓子の用意をお願いした。
「さて、さっそく本題に入ろう。最初は大山君には少しわからない話が続くだろうが我慢して聞いていて欲しい」
大山は黙って最上に頷いた。
「先日、足利さんが長尾さんと一緒に酒田に来たんだよ。セリはまだ時期尚早かもしれないから業務提携からできないかとね」
「それやと双竜会と清流会が裏で示し合わせたってバレバレやないですか」
戸川は呆れた顔をする。
最上も思わず苦笑いである。
「まったくだよな。戸川の成績を見るに、そろそろ伊級の生産を再開したらどうかだとさ。先日の会議が無ければ飛びつくところだったよ」
危ない危ないと最上はお茶らけた態度を取った。
「あたかも善意で誘っている風で来たところが何とも狡猾ですねえ」
岡部は笑顔を見せたが、その目は全く笑ってはいない。
本当だよと最上も憤った。
「君たち二人の洞察に感謝するよ。稲妻系と紅葉会に対処するには連盟しかないとは思っていると言ったら、彼ら非常に喜んでいたよ」
そこで最上は口元を歪めクスリとした。
「まずは三会派で業務提携をしようというので、それで構わないと言うと彼らは握手を求めて来たんだ。そこで例の言葉を言ってやったよ!」
最上はそこで一旦話を止め、悪戯っ子のような顔でニコニコしている。
戸川と岡部も、そんな最上の顔を見てほくそ笑んだ。
「『止級も含まれるのか』ってな。握手したままだぞ。二人顔を見合わせて焦った顔をしていたよ。いやあ傑作だった!」
最上はがははと大笑いしている。
そこまで聞いて大山がはっとした顔をした。
そんな大山をちらりと見て最上は話を続けた。
「足利さんは誤魔化そうとしていたがな、長尾さんは観念したようで、止級の話に私たちも噛ませて欲しいと正直に言ってきたよ」
「もしかして、その『止級の話』というのは、僕のやってる竜運船の話ですか?」
大山がかなり驚いた顔をする。
そういうことだと最上は大山に頷いた。
「そこでだ。私も現状を知っておきたいんだが、君から見て実用化を終着として、今どの程度まで開発が進んでいると考えるんだ?」
大山は暫く考え込んだ。
まるで役員会議にでも出席させられたかのような変な緊張感が襲っている。
「実用化まで何が障害になるかわかりませんので、今の段階ではその質問は答え難いですね」
大山の回答に最上は少し不満があった。
だがさすがそこは長年会長職をしている最上である。
聞き出し方という話術を多数取得している。
「そうか。そうかもしれんな。ならば質問の仕方を変えよう。試作船の完成を終着としてならどの程度なんだね?」
「それなら最初の試作船はもう完成していて、今竜を乗せて実証実験を行っています」
「何? もうそんなとこまで行ってるのか!」
「ええ。ですが実際製品にするとなると、まだまだ改良の余地がかなりありますから」
大山の回答から、全体の二割くらいの進捗と最上は推察した。
もうそんなところまでとは言ったが、恐らく平均並みといったところだろう。
この圧倒的に経験不足の若者が音頭をとってやっているにしてはよく頑張っているという意味である。
「技術的な事は言われても私にはわからんが、これから障害になりそうな要因はどんな事が思いつくのだね?」
大山はまた深く考えた。
「先日、場長から極秘事業じゃなくなるかもと聞きました。実は今までの障害は、まさにその部分でした。人が関われば関わるほど秘匿は困難になります。ですのでこれまで必要最小限の人数でやってまして」
大山の発言に最上はうんうんと頷いた。
どうやらみつばの集めた若者たちは思ってた以上に優秀らしいと最上は感じた。
「で、今後に想定される障害は?」
「一番の障害は、お恥ずかしい話ですが我々首脳部に止級の竜と競走の知識が乏しい事ですね」
「なるほどな。知的資源が足らんという事か。時期的に今、止級競走が開催されているんだが、太宰府か浜名湖には行ったのかね?」
最上の指摘に大山は、首脳部は今試験で手一杯でと言葉を濁した。
問題がわかっていながら解決しようとしないのは最上が最も嫌うところだろう。
それを察した岡部が、秘匿事業で少人数でやっていましたもんねと救援すると、最上が小さく何度か頷いた。
「資金があったら首脳部の人数を増やせそうなのかね?」
大山は腕を組み天井を仰ぎ見た。
ここまでの最上の質問からするに、ようはうちだけでどの程度できるのかを把握したいのだろう。
人を増やして開発が進むならさっさと人数を増やせと言いたいのだろう。
「今、資金管理は牧場にやってもらっていますので、その辺りの事は私ではちょっと。ですが増やせるのであれば、ある程度人材に心当たりはあります」
「止級の知的資源を得られそうな人材なのかね?」
「今一緒にやっている中にかなり興味を示している者がいますので」
最上は珈琲を飲みながら、暫く考え込んだ。
恐らく彼らだけでは竜運船は完成しないだろう。
原因は圧倒的なまでの仕事の経験不足と知識不足。
よしんば完成したとしても、それは予定より遥か先の事になり、その間に他の会派に完成させられてしまうだろう。
ここまでの大山の回答から最上はそう感じた。
「戸川、岡部。君たちは双竜会と清流会をどこまで絡ませるべきだと思う?」
うちらは専門じゃないからと、最上の問いに戸川はすぐに謙遜した。
「本職の私が悩むのだからもっともではあるのだが、それを承知で聞いているんだ」
黙り込んでしまった戸川に代わって岡部が私見を述べた。
「全部知ってる者が現場で指揮をとって、うちで骨子を握りつつ脇芽だけを子会社扱いで手伝わせる。僕ならそうします」
「それでは、我々が独占しようとしていると彼らが僻みはしないだろうか?」
「本気で絡みたいと思えば、それなりの供物が必要だって向こうもわかると思いますけど」
最上はすぐに岡部の発言の意図を理解し、岡部の顔を見て高笑いした。
戸川も意味はわかったようでなるほどと頷いている。
大山は意味がわからないようでぽかんとした顔をしている。
「そうかそうか。ただ利益を横から奪おうとするなら、見返りもその程度しか得られんようにすれば良いわけか!」
「協力したいという会派が二つあるのですから供物の量を競わせれば」
それだなと最上は笑いながら頷いた。
戸川は上手い事考えると笑い出した。
大山はやっと意味を理解したようで驚いた顔で岡部の顔を見ている。
「で、綱一郎君。誰に指揮させたら良えと思うとるんや?」
戸川の質問に岡部は大山を見た。
「私は現状、事業管理だけで手一杯で、そんな事までやれる余裕なんてありませんよ!」
大山は全力で拒んだ。
岡部は会長を見て小さくため息をついた。
「会長が陣頭指揮するのが理想ではあるのですが」
「私もそうしたいところではあるのだがな。実際面白そうだしな。だが私が出て行ったら、みつばは無駄に反発するだろうな。そうなったら大山君たちは開発どころじゃなくなってしまうだろう」
最上の指摘に岡部と戸川は同時にみつばさんかと呟いた。
暫く菓子を食べ、飲み物を飲み考え込んだが、中々これという案は出なかった。
戸川にしても、岡部にしても、紅花会の人事を把握しているわけではないので、容易に答えが出るわけがなかった。
そのうち最上が、ちと一風呂浴びに行くかと言いだした。
ここの温泉はわざわざ有馬からの取り寄せなんだぞとニンマリすると、それは凄いと戸川が大喜びした。
大山は温泉に身を浸して、入社して初めて会長にお会いしたと感動している。
凛として活力に満ちていてと、大山は会長を見て率直な感想を漏らした。
最上は若者に褒められてまんざらでも無いようでニコニコと微笑んでいる。
すると戸川が悪い顔をして、自分の竜が勝てないからってうちらを北国に呼びつけるような爺さんだぞと笑い出した。
最上は真顔で戸川にお湯をすくって飛ばす。
「私が自分で築いた人脈を駆使して何が悪い! いろはの奴、急に良い竜を選びだしやがって……」
「競竜会は今光定さんが竜選んでるんだそうですよ」
岡部の指摘に、最上はそうなのかとかなり驚いた顔を向けた。
「そうか、あの子がなあ。最近、会報も読んでて楽しいしな。いつの間にやら良い仕事をするようになったな」
若者の成長が著しいのは会にとっては活気に繋がり大変喜ばしい事だと、最上は岡部と大山に微笑んだ。
若者ではない戸川は、初めての義悦さんにまで良い竜持ってかれてと最上をからかった。
少しむっとした顔をした最上であったが、何かを思い出したようでクスリと笑い出した。
「義悦な。まさか竜を買いに行かせたら、あんな掘り出し物を買ってくるとはなあ」
最上が思い出したのは『サケサイヒョウ』の事である。
未だ歩様の矯正ができず大きな結果は出せていないが、出走すれば必ず話題になっている。
ここまで三戦三勝なのだが、新竜戦で負かした相手がその後の新竜賞竜、上巳賞の予選で負かした相手が上巳賞竜で、そういう点でも世代最強竜との呼び声が高い。
「義悦さんって普段何やってるんですか?」
「仁級や八級の自分の竜の管理をやっている。所有してる数がそれなりにあるからな」
所属は一応本社総務部竜主課の課長という事になっている。
主業務は紅花会の毎日の出走竜の賞金管理で、それをまとめて競竜会の光定のところに報告している。
有り体に言ってしまえば閑職で、いづれ社長になる為に現場の仕事を学んでいる状態である。
「じゃあ会長って、そんなに竜って所有してないんですか?」
「私は呂級だけだからな。会長としての仕事が多いから、そこまではね」
岡部はなるほどと納得して頷いている。
こう見えても忙しい身なんだと最上は笑い出した。
すると、それまで最上を散々にからかって笑っていた戸川が急に真面目な顔になった。
「そしたら、義悦さんに指揮執ってもらいはったら良えやないですか。会派間の駆け引きとか学んどいて損は無いでしょう?」
あれにかと呟いて、最上は腕を組んで考え込んだ。
「学校で経営を学んだようで、自分の竜は管理できてるようだが、そういう事は知識すら無いだろうな。だが果たして、あれにそういう芸当ができるもんだろうか?」
「そやいうても、次期会長がその程度の駆け引きもできひんかったら会派の未来は暗いですわ」
「確かに戸川の言う通りかもしれん。色々学ぶ良い機会かもしれんな。部下の動かし方も覚えないといけないだろうし。それに、あれにはみつばも甘い事だしな」
最上は戸川たちの顔を見渡すとうむと大きく頷いた。
義悦にやらせてみようと最上は力強く言った。
「上手く行ったら、会長も安心して隠居できるやろうしね」
戸川が最上をからかいウヒヒと笑い出すと、最上はむっとした顔をし戸川に湯を飛ばした。
「戸川! お前が引退するまで私は隠居せんと言ったはずだぞ!」
岡部は大山と顔を見合わせて、あははと笑い合った。
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