第二章 後悔
九時ちょうどになると、英語の担任である坪井が、画面越しに出てきた。今日もピンクのワンピースに、白髪の髪を後ろで結んで、丸いメガネをかけていた。
「さて、今日の減点の対象者は誰かしら」
坪井の嫌らしい笑みが画面に映ったので、ログオフしたい気持ちが込み上げてきたが、なんとかぐっとこらえた。
学生からは坪井のことを、別名減点魔女と呼ばれている。
画面では、クラスメートをひとりひとり確認することができるのだが、目下のところ、いまだにログインせず黒い画面のままのやつがいる。
俺の親友である直哉だ……。
「岸森さん? 岸森直哉さん? 聞こえてますか? 五秒数えるまでにログインされなかったら、減点しますからね」
ふざけた調子で、減点魔女のカウントが始まった。
直哉、出ろ……。直哉、出ろ……。
心理学者のユングが言う、シンクロニシティーが本当にあるのなら、俺の思いが届けと強く願ったが、結局、減点魔女のカウントが終わってしまった。
あいつ、まだ寝ているのかもしれない。俺とどこか似ているところがあるんだよなと、ふとベッドで爆睡する直哉を想像してしまった。
つまらない授業がやっと三十分過ぎようとしていたころ、英語の教科書に落書きをしすぎて、印刷された文字が消えていく。
「安藤さん! 起きてください!」
減点魔女の声で我に返った。
クラスメートに安藤という名字の女子がいるのだが、その画面に、居眠りしていることを知らせる赤いランプが点滅していた。
「先生、私、寝ていません!」
安藤は必死に減点魔女に言い返している。
そりゃそうだ。画面越しの俺から見ても安藤は寝ていない。というのも、減点魔女に向かって声を上げているじゃないか。
だが、居眠りランプは一向に点滅したままだった。
「安藤さん、悪いけど、これは本校の規則なの。授業中眠っている生徒を見過ごすことがないように、導入したITがあなたを居眠りしているって示しているんだもの。ITは嘘をつかないわ。残念だけど減点ね」
「先生、機械だってバグとかあるんじゃないの? それに、安藤はしゃべってるじゃん。眠ってたらしゃべれないと思うんだけど」
「石田さん! あなた、私に口答えするの!」
「……いいえ。何でもありません」
航は、減点魔女の興奮する素振りを見て、これ以上かかわるのをやめることにした。
画面越しから安藤は泣いているように見えた。クラスの女子の中でも頭が良くて、いつも勉強しているイメージがある。理不尽な減点対象になってしまい、相当ショックが大きかったのだろう。
そういえば、このソフトを作ったのは、日本デジタル戦略的専門員会だった。文部科学省に強く働きかけ、各学校に無理矢理導入させたのだった。
そのあと安藤は、机にうつ伏せになり、英語の授業中に顔をあげることはなかった。だが、二限目からは、普段のように授業を受けていたので、少しほっとした。
ところで……直哉はまだ寝ているようだ。
二限が終わり昼休みになった。ログオフして一階に下りると、電話で話す母の声が、リビングから聞こえてきた。なんだか焦っているようだ。
航は、電話の邪魔をしちゃいけないと思い、ダイニングのドアを静かに開ける。そして、忍び足でテーブルにつくと、ラップされた朝の食べかけの食パンを取り出して、口に入れた。もちろん足りないので、さらにシリアルを皿に入れた。
「……五時ですね。わかりました」
深刻な顔をする母を横目に、立ち上がって冷蔵庫から牛乳を持ってきた。スプーンでシリアルをすくい、口に入れたところで、母が電話を切る。
「どうしたの?」
「病院の先生から電話があって、おばあちゃんが倒れたって」
「ほんと!?」
航は食べる手を止めた。
「急に倒れちゃって、意識が戻らないみたい……」
「ならさ、急いで病院に行こうよ」
「それができないんだって……」
「なんで?」
「オンラインに変わったんだって」
「お、オンライン?」
なんだそりゃと思った。
「今日の五時に予約をしたから、航もその時間帯なら平気でしょ」
「うん……」
なんだか食欲が失せてしまい、食べ残しを冷蔵庫にしまって、早めに自室に戻ることにした。ログイン状態にすると、手を頭の後ろで組みながら、椅子の背に寄りかかる。
祖母には、よく可愛がってもらった。
祖父が先に亡くなくなってしまい、その当時の小学生だった俺は、少しでも寂しさを紛らせたいと思って、よく遊びに行っていた。そんな俺だったが、中学生になると、だんだんと祖母の家に行く回数が減ってしまった。元気だった祖母のことを思い返すと、倒れるなんてまったく予想もできなかった。もっと会いにいってればと後悔をしている。
気がつけば直哉がログインしていた。パジャマ姿が画面に映っていたので、「さっさと着替えろよ」と、航はメッセージを送った。