鬼との石とり
今となっては昔のことだが、遣唐使となったものの中に吉備真備という男がいた。
彼は低い身分ながら唐の朝廷の信頼を得て、官吏の職を奉じた男である。これは752年に2度目の唐へ渡った時、17年ぶりに会う、友人の阿倍仲麻呂を待っていた時の話である。
華やかな都の片隅で、緑を感じるために綺麗に整備された公園があった。真ん中には大きな水たまりがあって、これは川から水を引いてきて水車を回し、跳ね飛ばす水しぶきを視線で楽しむという仕掛けの装置だった。
吉備は17年ぶりの再会にこの公園を選んだのであったが、待てど暮らせど阿倍仲麻呂はやってこない。一体どうしたことだろうか。
阿倍はこれほど時間に遅れてくるなどということは今まで一度もなかった。しかしこの17年間で彼もきっと更なる昇進をしたに違いない。私のことよりも重要な、物事にとらわれているのかもしれない。
そうして、懐に忍ばせた木簡に友人がやってこないことに対する深い悲しみを漢詩で綴り、日本語でもわかりやすいように和歌にしたためたりして待っていたのだが、辰の刻を過ぎてもまだ彼はやってこない。何かがおかしい。
空はこんなにも晴れているというのに公園には誰もいない。街をゆく行商人の声や、赤子の泣き叫ぶ声。奥方達の途方もない噂話の声がないならまだいい。まあ、うっかりそういうこともあるのだろう。しかし、鳥の鳴き声さえ聞こえない。それどころか木のざわめきさえも聞こえない全くの無音だ。これはありえない。
川から引かれていた水をすくい上げて、跳ね上げていた水しぶきの音も今は止まっている。
自分の体の中を流れる血管の音や耳鳴りの音さえも聞こえない。声を出そうと大きな声で自己紹介をしてみたが、その声は自分の目の前の空気が取り上げてしまった。なんだか異様な雰囲気を感じて、右手で自分の頬を叩いてみる。こうすることで自分の身の回りの異様さというのは夢のせいであることにしたかったのだが、順調に頬が痛くなった。
そうして雲もないのに空が真っ暗になって、木々や街の風景や、池を黒く飲み込んでしまった。叫び声は誰にも聞こえず、助けを求める声もやはり、目の前の空気に取り上げられてしまった。
耳元で低く「おい」という声がして、振り返ると鬼がいた。
いくつもの角を持ち、目がつり上がって、上半身は彫刻刀で彫り抜かれているような、生まれながら非人間としての筋肉を身にまとっていた。
肩に担いでいた金棒を下ろして地面に突き刺すと、もはや土も見えなくなった闇の床に振動を加えて突き刺さり、吉備の体がポンとはねた。鬼は左手を差し出して言った。
「お前の友人、阿倍仲麻呂は預かった。こいつは、やまとの民でありながら、唐の国にやってきて、鬼どもを片っ端から懲らしめている。これは悪いことだ。人間が裁くのは人間だけに留めるべきだ。だからこそ、鬼である俺がこの阿倍仲麻呂をさばいてやろうと思うのだが、やはり鬼の俺が人間を裁く道理はない。そこで一つ遊戯をして、阿倍仲麻呂を無罪とするか決めてみようじゃないか。」
「どういうことだ」
吉備の声は吸い込まれる。鬼は耳を小指で掃除して、吉備の言葉が鬼にとっては芥に等しいものだと言いたげな嫌悪感を顔に浮かべた。
「つまりは人間というものが、理性的であって、知恵があり、和平を結ぶに等しい存在かどうかをお前で確かめるというわけだ。言葉の話せる魍魎でないことを証明してみせよ。」
鬼が差し出した手のひらの上に、ぼんやりと阿倍仲麻呂の姿が映し出された。眠っているのだかわからないが、とにかく正気か何かが抜けたような、知恵のない表情で、ぼんやりと座っているように見える。
今すぐ護身用に持っている、懐に忍ばせた短刀で鬼の首を取ってやりたいが、しかしそれでは鬼の言うような、人間には理性がなく、知性に乏しい存在であることをかえって証明してしまう。ここは鬼の言う遊戯とやらにきちんと乗っかって正当にわが友阿倍仲麻呂を放心から救い出してやらなければならないだろう。
黙って頷くと鬼は無表情のまま頷き返した。
鬼は金棒で、池であったところを強く殴りつけた。すると中から無数の光の粒々が吹き上がって十字に交差し1間の大きさの正方形が、目の前に規則正しく交差して並んだ。
「縦32列、横32列。合計1024のマス目がある。このマス目から落ちないように光線と光線が交わっているところへ白と黒のついた色のついた石を置いていく。相手の石を多く囲って取っていき、数の多い方を勝ちとする。」
鬼はまず、黒石を盤の中心においた。まるで、人間界全てを黒い目で見通さんといわんばかりだ。吉備は白で後を追う。妖刀の村雨で鬼のあとを追いかけるように。
南東に向かって進む鬼の後を吉備がおいかける。
「追い詰めたぞ。鬼め。」
「それはどうかな。」
というように視線を交わす。鬼は切り返しを見せるが、周りを囲まれてあっけなく明け渡してしまう。
次に狙うは、盤の西側。うって返して、追い詰められているように見せて、鬼は逆に吉備の背後を取る。吉備は負けじと黒を取り返した。盤上の目は黒と白の石が交互に置かれて、盤の脇には互いにとった石が積まれていく。静かな世界の中で、吉備の心は統一されたように感じた。気持ちで負けず、必死に鬼を追い詰めていった。
1024マスに交差する盤の目は、埋めるだけでも相当に精神の滾りが削られ、むやみやたらに汗もかかず、自分の心はただ仏の御心のままに寄り添えているのだという思いで研ぎ澄まされ、確実に鬼を追い詰めていった。
これで終わりだ。吉備は最後の石を盤に置いた。そして南の方を取ったところ鬼は、
「参った。俺の負けだ。」
そう言ってあっさりと認めた。取った石は吉備が380、鬼が142。鬼は頭を垂れて金棒を担ぎ直した。そうして星に向かって命令すると、その盤の目は空まで飛びあがり5等星になった。去り際、鬼は笑っていた。和平を認め、一個の知性を認めてくれたのだろうか。
ふと気が付くと、元の公園に戻ってきていた。長い間、静かな場所にいた吉備の耳を、木の葉の擦れる音がつんざく。さらに不思議なことに、公園の池は天まで届くかと思われるほどに空へ向かって噴き上がっていた。
現世へ戻ってきたことを実感して辺りを見回すと、阿倍仲麻呂が走ってきた。長時間の彼を巡る戦いを経て、彼への友情も高ぶっている。姿を見たときに涙をこぼした。
阿倍は血相を変えて吉備真備に向かって、声をかけた。
「お前昨日一体どこに行っていたんだ。」
「信じちゃもらえないだろうが、お前を助けてたんだ。」
阿倍は昨日の待ち合わせを破ったから怒っているのだろう。まったく、こちらのほうがちゃんと来ていたというのに。
「大変なことが起こっているんだ。」
たった今、鬼から救ったはずの友人は、再会の喜びを分かち合うこともなく、吉備の肩を揺さぶった。様子がおかしい。
「落ち着け、一体何があったんだ。」
「知らないとは言わせんぞ、今のこの都の現状を。昨夜、気が付いた時には、次々と家屋が発火して、今は380世帯の家が焼けている。消火活動しようと思っているが、あまりに水が足りずにみんなここに集まってきているところだ。本当にお前は一体何をしていたんだ。」
吉備はぞっとした。阿倍仲麻呂が言った数字に心当たりがあったからだ。ふと空を見上げると、空は盤の目状に区切るような星に、覆い尽くされていた。吉備真備は先ほどまでいたような懐かしい感じがしてドキリとした。
やけにあっさりと鬼をしたが引き下がったと思っていたが、それはあえて吉備が多くの石を取るように仕向けていたのではなかろうか。記憶の中の鬼の笑顔に影が見え、吉備は空を睨んだ。どこまでも続く真っ青の空に、見たこともないような影が微かに輝いているのが垣間見えた。
友のため益荒男鬼との石とりは雲に隠れし誰か知りしか