死への飛翔
スポットライトがステージを照らしました。たった一人のシルエットが浮かんで、白いチュチュを靡かせて、彼女はくるくると回ります。まるで本当にそこが夜の湖のようで、私たちは彼女が躍るのを、ただそうするのが当然だといったふうに見ていて、なにかの儀式さながらにその場から動けませんでした。彼女は舞台の上でたったひとり踊り終え、何かに怯えた演技を見せた後に上手へはけました。場面はそこで変わり、舞台は暗転します。
静寂。
それはもう、隣の子の息遣いがはっきり聞こえるくらいの静けさでした。まさに夜が明ける湖を思わせるような。
みんなが彼女のすべてに魅了されていたんだと思います。遠くからでも分かる大きな瞳が開いては閉じるたびに、ステージ上に舞台の世界が立ち上がって、私以外にもみんなが彼女をオデットだと錯覚していました。
「お集まりになって、お嬢様がた」
先生が上品な口調を崩さずに、私たちを呼び寄せたので、袖で待機していた私たちは真っ先に舞台を降りて、先生の座る客席を囲みました。ミーティングの時は決まってそうしていて、だからその時も選考会でしたけれど、それは変わらなかったんです。
私たちが集まってから少し遅れて、彼女が輪に加わりました。
「遅くなりました」
彼女は少しだけ息を切らせていました。珍しいと思ったことを覚えています。
「あら、そんなに大変でしたか?」
先生も首を傾げました。だって彼女はいつも凛としていて、弱いところなんてみせたことがなかったんです。
「いえ、お気になさらず。問題ありません」
彼女はすぐに息を整えて背筋をぴんと伸ばしました。立ち姿がとっても美しいんです。ほら諺にもあるでしょう、『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』って。え、都都逸? そんなことはいいじゃないですか、刑事さん。とにかく綺麗な立ち姿で、大きな瞳を鋭く吊り上げて、眉尻も上げて。舞台上で見せた天使・オデットの愛らしい顔とは対照的な、悪魔・オディールの眼差しでした。でももうあの眼差しを見ることが出来ないんですね。そうして彼女は後ろに束ねた長い黒髪をきつく結び直しました。彼女は気持ちを引き締めるときに決まって髪を結びなおすんです。その仕草も絵になるんですよね。
「では、一か月後に迫った公演へ向けて最終調整をしていきましょう」
先生はすぐ彼女から目を離して私たち全体へ目を向けました。
「それでは予定通り」と前置きをして、先生が役柄と選ばれた演者の名前を呼んでいきます。輪の端々から返事をする声が聞こえます。先生は声の主を一瞥して、また私たちに向き直ります。そして間を置きました。最後の役だけが残されました。私は輪を見回しました。目を閉じて両手を組んで祈る子がいました。もう既に泣いている子もいました。なにやらぶつぶつ呟きながら飛び跳ねている子もいました。ばかばかしい。結果なんて明らかでしょう。頭の奥で警鐘のように声がした気がします。そう、予想はついていたんです。それでも緊張からか変に高揚して、心臓が耳の奥でうるさいくらいに早鐘を打っていました。先生の声が掻き消されるくらい鼓動がどくどくとやかましいのに、先生の声ははっきり響いて、今でも鼓膜に残っている気がするんです。
「主役には神宮寺雅さん」
彼女が高らかに返事をしました。あの演技を見ただけで、彼女が選ばれるのなんて明白でした。だからべつに、悔しくなんてないです。本当です。だって、彼女が選ばれるのが当然じゃないですか。私が先生の立場だったら、彼女を選びます。それくらい神宮寺雅って凄いんです。だから私は代役に選ばれたのがむしろ光栄でした。だって次点っていうことなんですよ、代役って。神宮寺雅の演じる『役』の『代』わりができると思われているんですから。
私は彼女のファンなんです。今回の『新訳 白鳥の湖』だって、むしろ客席で見たいくらいでした。もちろん主役は彼女で。彼女の演技で見たかったんです。だから彼女が練習中に突然両目を抑えてうずくまった時も、それからもう目が見えなくなって舞台に立てないと聞かされた時もずっと悲しくて、衝撃的で、だから……。
** * * * * * * * * * * * * * * * * * *
警察は舞台セットが崩壊したことで、真下にいた神宮寺雅が下敷きとなり、それによる怪我が原因と判断したらしい。確かに崩壊したセットにはピアノ線も使われていて、崩壊したセットからは彼女の血液が付着したピアノ線が見つかった。そうして主治医もまた失明に至った傷はピアノ線によるものと判断した。つまり、神宮寺雅は不運にもピアノ線で目が切れて失明したというのが警察の出した結論だ。
私はロッカールームに続く長い廊下を一人歩いている。先生の声がはっきり響いて、今でも鼓膜に残っているのは嘘じゃない。でも残っている言葉が違っている。その言葉を私は呪いのように反芻する。
「そして、代役は市来蝶香さん」
そこで私は脳の血管が切れたんじゃないかと思うくらい、頭が真っ白になった。それから、少しして、「はい」と小さく返事をした。彼女が、主役を圧倒的な演技で勝ち取った神宮寺雅が、私をあのオディールの眼差しで訝し気に見ていたから。
私は俯いてから顔をあげた。そうして彼女を盗み見た。
鼻がすらりと高い。目がぱっちり大きい。すべての上睫毛が綺麗に天を向いている。二重瞼。薄く色づいた、自然と弧を描いた唇。そのすべてが綺麗で可愛くて美しくてかっこよくて凛々しい。彼女を賛美する言葉はいやなほど思いつく。だからいい。私は彼女に負けた。でも彼女の『代わり』に選ばれた。
あれ、それって、私が彼女に『なれる』ってこと?
あの時、暗い感情が重い首をもたげて、まるで私の方を見ているようだった。その眼差しがなぜか彼女と重なった。気づけばもう先生を取り囲んでいた輪は解散していて、中央にいたはずの先生の姿すらなく、ただ神宮寺雅だけが依然として凛々しく立っていた。そうしてこちらを見た。あの悪魔の眼差しで。
「選ばれたのね、おめでとう」
彼女はにっこりと笑った。勝者の笑みだ。綺麗な唇が綺麗な弧を描いている。
「私に何かあったらよろしくね」
ありがとう、と口にしたいのに、言葉が上手く出てこない。だって私は所詮貴女の代わりだ。貴女ありきの『代役』だ。
「……なにも無いでしょうけど」
彼女は卑しく嗤った。下卑た笑みなのに色気に溢れていて、どうしようもなく美しい。そうして彼女は踵を返して去っていく。私の頬を何かが伝っている。涙だ。ぽたりぽたりと足元に落ちて、ワインレッドのカーペットに血のような染みを作る。
所詮『代役』の私は彼女になにも無ければ出番はない。
そう、彼女になにも無ければ。
でも彼女に何かがあれば、私が代わりになれる。
ああ、私は賛美する言葉ばかりが溢れる『神宮寺雅』になりたい。
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私は舞台のセットに細工をした。神宮寺雅がちょっと怪我をすれば、ちょっと舞台に立てなくなれば、私が『神宮寺雅』になれるんじゃないかって。そんな下卑た下心を持って。
そうしてそれは怖いくらいにうまくいった。
スポットライトを浴びて、彼女は例のごとく周りを魅了する美しい演技を魅せていた。舞台の端から端を使って、上手と下手を行ったり来たりして。そうして彼女が舞台の中央に戻ってきたときに、頭上からみしみしと不吉な音が鳴り始めた。それでも彼女は踊るのを止めなかった。先生も周りの子たちも首を傾げたり互いに顔を見合わせたりして、音の正体を探ろうとしている。そうしてぐらりと頭上で組まれていたセットの一つが外れた。そこから次々とセットが崩れ始めていく。みんなが叫んだ。神宮寺雅が上を見上げた。そうしてあっという間に彼女は骨組みの下敷きになって姿が見えなくなった。
「神宮寺さん!」
「早く救急車!」
「警察は?」
「そっち持って」
「雅ちゃん返事できる?」
みんなが口々に叫びながら、神宮寺雅の体を押しつぶしているセットをどかしたり、カバンから携帯を取り出してどこかに連絡したりしてせわしなく動いている。私は、足がすくんで動けなかった。だってここまで派手にセットが崩れるなんて想定していなかったから。私はただセットを組んでいたピアノ線の一つを切った、それだけだった。
助け出された神宮寺雅は床に座り込んでいた。幸いにも目立った外傷は無いように見えた。先生が彼女に近づいて、それから「あ」と声を上げた。よく見ると彼女が顔を覆っている指の間からドロドロとした赤い液体がとめどなく流れている。
「痛いです」
彼女はなおも凛とした声で、淡々と告げた。
「視界が真っ白です。血が出ていると思いますが恐らく目からの出血ではないでしょうか」
相変わらず彼女は『神宮寺雅』のまま、周囲に状況を報告する。
「セットが崩壊したときにピアノ線のようなものが見えたのでそれで切れてしまったんでしょう」
そこには悔しいとか悲しいとかそんな感情は見えなくて、どこまでも機械めいて聞こえた。それからすぐに彼女は救急車で運ばれて、私たちのもとには後日警察がやってきた。
私はロッカールームで本番用の衣装に着替える。他の子たちは警察からの事情聴取をすでに終えて、もう舞台に向かっている。白いタイツに足を通して、主役らしく着飾った衣装を着て、メイクで目元を強調して、鏡をのぞき込む。全身鏡に全体を映した。
「蝶香お姉さま、準備できた?」
ロッカールームに戻ってきた後輩に大丈夫、と返事をして、最後にもう一度鏡の中の私を見る。大丈夫、だって私は『神宮寺雅』の『代役』だから。
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ソロパートは主役の見せ場。
「もっと優雅に」
たった一人で舞台全体を使いながら上手や下手を行ったり来たりしながら踊る。
「もっと全体的にメリハリをつけて」
そうして私は最後に上手にはける。そこで舞台が暗転して、先生からの檄も止む。
ぱんぱんと両手を叩く音が響く。稽古が終わる合図だ。私たちは先生の周りに集まって、輪になった。先生はひとりひとりに注意をして、次回までの課題を提示していく。それは私も同じだ。他の子の倍くらい指摘を受けた。神宮寺雅はこんなにたくさん指摘されたことはない。むしろ称賛されていたくらいだ。
「お嬢様がた、神宮寺さんの件で連日警察の方々からお話を聞かれて大変でしょう。ですが本番まであと少し。気を引き締めていきましょう」
最後に先生はそう締めて、わたしの方を見た。
「もうあなたが主役よ、市来さん。貴女の舞台を見せてくださいね」
私は「はい」と返事をした。そうして俯いた。『主役』に選ばれた神宮寺雅と、『代役』に選ばれた私。代役ってことは次点だけど、神宮寺雅と私には雲泥の差があったわけだ。そんなことに今更気づくなんて。
「市来さんお疲れ様」
輪が解散したあと、二人組が私の方に近づいてくる。綾瀬川さんと白木さんだと一目でわかる。綾瀬川さんはオディールの父でオデットを白鳥に変えた張本人・悪魔ロットバルトを演じていて、白木さんはオデットに恋をする王子・ジークフリートを演じている。
「お疲れ様」
「ソロパート良かったよ、さすが蝶香さまってカンジ」
綾瀬川さんの言葉に苦笑いを返す。
「まさか」
「あたしらさ、正直神宮寺さんそんな好きじゃなくてさ」
周りには誰もいない。もうみんなとっくに解散して、私たちだけが取り残されている。でも綾瀬川さんは声を潜めている。
「そうなの?」
「とっつきにくいっていうか、一緒に踊るときも合わせてくれないっていうか」
「こっちが下手なのが悪いんだけどね」
綾瀬川さんに同調して白木さんも頷いた。神宮寺雅は少し機械めいていて、確かに他人に合わせるっていうことは苦手みたいだった。でもそれこそが『神宮寺雅』を『神宮寺雅』足らしめるものだと思う。
「でもちょっとは合わせてくれてもいいじゃんね」
「だから市来さんが主役になってくれてよかったっていうか」
白木さんが少しだけはにかんだ。王子様に相応しい男の子みたいな佇まいで。だからこそ相手が私じゃなくて神宮寺雅だったら尚更宝塚さながらに美しかったと思う。
私たちは会場を後にしてロッカールームに向かった。廊下には私たちしかいないみたいだ。
「事故は災難だと思うけど」
白木さんが言う。そう、あの神宮寺雅の失明は不運な事故として処理されている。
「事故かぁ」と綾瀬川さんが首をかしげてみせた。
「案外あたしらみたいに神宮寺さん嫌いな人がやったかもよ」
「主役降板させるために?」
「それか市来さん親衛隊が『蝶香お姉さまを主役にするために』ってやったとか」
「うわぁ過激派」
そんなことない。嫌いだったわけじゃない。むしろ大好きで、憧れていて、だからこそなりたくて、そんな感情をほんの少しの狂気が後押しして魔が差しただけなんだ。
「……そんなんじゃないと思うよ」
私はそれだけ答えた。神宮寺雅はきっとこんな後ろ暗い気持ちも抱かないんだろうな。だから私は『神宮寺雅』になれないんだ。
「だ、だよねえ、不謹慎だった、ごめんね」
綾瀬川さんが両手を振りながら弁明する。きっと私が犯人なんて、しかも恨みとか嫉みとかとは真反対の憧憬とか思慕の気持ちからこんなことをしでかしたなんてこれっぽっちも思わないんだろう。綾瀬川さんが気まずそうに先立ってロッカールームのドアを開けた。部屋にはやっぱり誰もいない。それぞれが自分のロッカーの前に立って、制服に着替える。
「市来さんはさ、神宮寺さんのことどう思う?」
白木さんがシャツを羽織りながら眉尻を下げてこちらを見た。困っているのが明白な表情をしている。
「……私は」
そこで一つ深呼吸をした。そうして胸元のリボンを握る。心臓と喉を握りつぶされているみたいに苦しい。それは多分神宮寺雅への罪悪感からだと思う。
「……神宮寺さんが主役だったらよかった」
詰まりそうな喉から絞り出たのはなんともか細い声だった。時間が巻き戻せるなら、私が彼女の身代わりになって、崩れるセットの下敷きになりたい。いや、そもそもセットに細工なんてしなかった。『代役』は所詮『代役』だ。『神宮寺雅』になりたいなんて、なれるかもなんてそんな浅はかで馬鹿な事考えなかった。
「あたしは市来オデット可愛くて好きだな」
綾瀬川さんがにっかりと笑う。
「オディールも可愛いよ」
白木さんもはにかんだ。
「うんうん、それはやっぱり神宮寺さんにはなかったとこだよね」
「可愛げ?」
「うんうん」
二人が私を慰めようとしてくれているのが手に取るようにわかる。じゃあお先に、とロッカールームから出ていく二人に「ありがとう」と声をかけて手を振って、私はのろのろとスカートに脚を通した。
誰もいなくなったロッカールームは静まり返っていて、まるで夜が明ける湖のように、神宮寺雅の演技が終わった直後のように妙な緊張感を伴っている。
「やっぱり私は『神宮寺雅』になれないんだ」
誰も肯定しないし否定もしてくれない。私の呟いた声だけがこだまのように響く。
ノックが四回。私はスカートのチャックを閉めてドアを振り返る。少ししてドアを開けて、目元を包帯で覆った神宮寺雅が姿を見せた。
「市来さんの演技、素晴らしかったって聞いたわ」
神宮寺雅は凛とした立ち姿のまま壁やロッカーを伝いながら私の方にやって来る。私は着ようと手に取ったブレザーを握りしめたまま、そんな神宮寺雅の姿を目で追いながら息を詰める。
「……先生に怒られてばかりだよ」
神宮寺雅は漸く私の居場所が分かったみたいで、こちらを向いて口元に笑みを浮かべた。薄く色づいた唇は相変わらず美しく弧を描いている。
「先生は褒めていたわ」
「本当に? もっと優雅にとか散々だったけど」
「伸びしろがあるってことよ」
また壁伝いに神宮寺雅が歩き始める。そうして私の方に近づいてきて、そこで漸く止まった。
「ねえ、私になりたいの?」
悪魔がささやいてくる。声を低くして、耳元で私の中の狂気に訊いてくる。あの時みたいに。
「セットが壊れるように細工をしたんでしょう」
途端体中が火照り始める。手汗が止まらなくて頭は真っ白になって、ブレザーを握る手に力を籠める。
私はただ黙っている。神宮寺雅は初めから全部知っていた? それとも鎌をかけている?
「ねえ、私になりたいの?」
神宮寺雅がもう一度問いかけてくる。私の、狂気に。
「だからこんなことをしたの? 私になるために」
その声音はとても優しい。神宮寺雅の唇は相変わらず自然と弧を描いている。私は金縛りにでもあったように彼女から顔を逸らせない。
「こんなことをしてあなたがなれるのは主役だけよ」
神宮寺雅はそうとだけ言って、私に近づけていた顔を離す。そうしてまた壁伝いにドアの方へ戻っていく。
「私から主役と視力を奪ったこと、覚えていてね」
神宮寺雅はドアを開けて、美しい立ち姿のまま手を振って去って行った。
私は漸く金縛りが解けて、握りしめていたブレザーを羽織る。手汗のせいで肩口が妙に湿っていて気持ちが悪い。心臓と喉も相変わらず握りしめられているようで、息苦しかった。
**************************
スポットライトがステージを照らす。私だけが舞台に立って、かつて神宮寺雅もそうしたように白いチュチュを靡かせて、くるくると回る。周りは雑然としている。変に緊張感がない。舞台全体を使った見せ場の踊り。軽快に跳ねながら、そうして立ち位置を変える。
頭上からなにかがみしみしと揺れる不吉な音が聞こえる。たまたま視界に入った先生の顔が歪んでいく。
「市来さん!」
先生が珍しく叫んだと思った時にはすでに遅かった。
上を見上げた。ばらばらと頭上で組んだセットが崩れていく。このシチュエーションは前にもあった。あの時この場にいたのは紛れもなく『神宮寺雅』で今は私。
『私から主役と視力を奪ったこと、覚えていてね』
神宮寺雅の声が頭の中で響く。忘れるわけがない。
私は思わず客席を見た。神宮寺雅が腕を組みながら笑っている。逃げなければと思うのに、体が動かない。そうして頭になにか軽い衝撃があった後に体を押しつぶすように骨組みが当たって、私の視界が暗くさえぎられる。
その小さな世界の中で私の眼にははっきり見えた。なにか糸のようなものが、ぴんと張って、私の方に迫って来る。崩れたセット、そこに使われた、ピアノ線。あの時と全く同じ。
そう、あの時私は確かに神宮寺雅に何かがあればいいと思った。軽く怪我をして舞台に立てなくなればいいとだけ。だから失明すればいいなんて思っていなかったし、まさかここまで大事になるなんて思わなかった。
ピアノ線が私に迫る。そうして強い衝撃で私のちょうど睫毛に触れた。そこからはまるでスローモーションのようだった。目を閉じようと思っても体が言うことを聞かない。そうして、つぷ、というすこし水っぽい音が響いたと思った瞬間、鋭い痛みとともに視界がはじけるように白んでいった。中央からあっという間に視界が白く塗りつぶされて、皮膚に頑丈な線がめり込んで目尻を裂いた。
静寂。
誰かが私の上に落ちてきたセットをどかしている。私の目からはやけにドロドロして鉄臭い涙が流れている。私はその涙を拭いながら立ち上がる。相変わらず視界は白いままだ。光が飛んでいるように、ずっと白い。でもなぜか、気持ちは高揚している。私の中の狂気が言う。『神宮寺雅』の時と全く同じじゃないかって。
「市来さん! そっちは」
誰かの声がする。そんなことはどうでもいい。貴女はどこにいるの? これで私は貴女になれる? 早く見てほしい。見えなくても、同じになった。これで私は、貴女だ。
まだ貴女は客席で腕を組みながら笑っているんでしょう? 早く私もそっちに行きたい。そうして一歩踏み出して、みんなが一斉に叫んだ。
悲しいことにそこから先の記憶はない。
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「あら、気が付いたのかしら」
凛とした声が降ってきて、その声の主が神宮寺雅だと気づいた。相変わらず私の視界は白いまま。ここがどこなのかも、明るいのか暗いのかもわからない。ずっと白い布で頑丈に目元を覆い隠されているみたいな。ただ自分が仰向けになっているんだろうことは分かったから、とりあえず体を起こす。
「神宮寺さん?」
確かめるように声をかける。
「そうよ」
多分今、神宮寺雅は笑っている。オデットみたいな天使の顔で。そんな声音だ。
「とんだ災難だったわね」
全部先生から聞いたわ、と神宮寺雅は続けた。白々しい気もするけれど、何も言わないでおく。
「今回の舞台は中止ですって。それもそうよね、主役が二人も同じような『事故』に遭っているんですもの」
神宮寺雅はやけに『事故』を強調した。それはそうだ。だって彼女が失明した原因は事故じゃないんだから。
「ここはどこなの」
「病院よ。貴女が気づくまでそばにいてくれって先生に頼まれたの。先生たちは私の時みたいに警察から事情聴取を受けているからここにはいないわ。事故のことは覚えてる?」
私は首を横に振った。
「セットが崩れて、そこから助け出してもらったところまでは覚えてるけど」
「そのあとあなた舞台を踏み外して落ちたのよ。足を何か所か折っているらしいわ」
馬鹿ね、とまた神宮寺雅は笑った。私も笑う。だって早く貴女に会いたかったんだもの。
「目は?」
なんとなくわかってはいるけれど、確かめたかった。
「私と同じ」
なんともシンプルだけど最高の答えだ。
「……そう」
私は俯いた。彼女には見えないとは分かっているけれど、自然と口が嗤ってしまう。
「覚えていてね、って前に言ったわよね」
神宮寺雅が声を潜めた。それに「うん」と返事をする。
「神宮寺さんから主役と視力を奪ったことでしょ」
ええ、と神宮寺雅が返事をする。
「忘れないよ。だって私がセットに細工をしたのは本当だもん。だから自業自得だと思う」
「そう」
ゆっくりとした足音が私の方に近づく。
「でもこれで、私と貴女お揃いね」
神宮寺雅が私の耳元で嗤った。私の大好きな、悪魔のようなオディールの声で。
だから私は思うのだ。
ああ、神宮寺雅になりたい、って。
「警察です。市来蝶香さん。神宮寺雅さんの失明に関する事件について、少々お話を伺えませんか」
では神宮寺さん、あとは我々に任せて、なんて、そんな男の声がすぐ隣から聞こえてくるまでは。
神宮寺雅が私の大好きなあの声で嗤いながら部屋を出ていく音が聞こえた。
「私になれるわけないじゃない」
そんな捨て台詞を残して。
終わり。