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「──て。ねえ、起きてったら!」
「…………ッ!?」
あの穴に落ちてからどれくらいの時間が経過したのだろうか。あれからずっと夢現の境を漂っていた俺は、体を揺さぶられる感触に気付いて跳ね起きた。
跳ね起きた、ということはつまり踏みしめる地面が存在するということだ。あの恐ろしい虚無の空間から抜け出したことに胸を撫で下ろしながら周囲の状況を確認しようとする。
「ぐ……げほっ!げほっ!」
「だ、大丈夫!?だいぶ砂吸っちゃってると思うから、まずはゆっくり呼吸しよう?ね?」
唐突に咳き込んでしまった俺をあやすように背中が撫でられる。鈴が鳴るような、心地よい囁きに従って呼吸を整える。確かに声の言う通り、口の中に砂の味がする。唾を溜めてから隣にいるであろう親切な誰かさんに当たらないように砂を吐き出した。
「うぇ……酷い目に遭った」
「みたいだね。でも、怪我がなさそうでよかった」
ようやく周りを観察できる状態まで落ち着いた俺は、声の主に礼を言おうとしてそちらに顔を向けた。
そこにいたのはふわりとした黒い髪を腰まで伸ばした1人の少女だった。歳は俺と同じか、やや若いぐらいだろうか。
いや、それはいい。女性なら髪を伸ばしていても不思議ではないし、ここは学校ではないのだから髪の長さにいちいち文句を言うつもりもない。ただ1つ気になったのは彼女の服装だった。
「…………魔女?」
つばの大きなとんがり帽子に小さな体を覆ってしまうほど大きなマント、痩せ型の体にフィットしたインナー、そのどれもが鮮やかな紫色で統一されており、極めつけに背丈の8割ほどもある木製の杖を抱えていたのだ。
それはどう見ても、かつてアニメやゲームで見たことのある魔女のイメージそのものだった。
「残念、魔術師です。それとも、皺くちゃでとっても怖い魔女の方がよかった?」
「いや、君でよかったよ。さすがに起き抜けに怖いお婆さんは見たくない」
少し不機嫌そうに鼻を鳴らす少女を宥めながら、俺の中に奇妙な違和感が湧き起こる。
……少女が話している言葉は、その文法も、発音も、明らかに日本語とは大きくかけ離れていた。だというのに俺はその意味を理解し、あまつさえ"少女にも理解できる言語で"返事をしたのだ。
まるでその言語に対する知識があらかじめ自分の中にインストールされているような、ごく自然な不自然さとでも言うべきか。
(……まあ、今考えても仕方ないな)
自分が知らぬ間にバイリンガルになっていることは驚くべき事件だが、真相を追求することの優先度は低い。便利だし。
それよりも優先すべきなのは、ここがどこで、魔術師と称する彼女が何者なのかという事だった。
「言うのが遅れたけど、助けてくれてありがとう。……ええっと、あそこから助けてくれた……でいいんだよな?」
「うん、そうだよ。ダンジョンに入ってすぐ落盤に巻き込まれるなんて運がなかったね」
「落盤……?」
"ダンジョン"という何とも聞き覚えのある非日常語(という表現も変だが)はさておき、それよりも俺の興味を引いたのは落盤という単語だった。
「君、私が来た時には半分くらい埋まってたんだよ。埋まってたっていうか、岩の隙間に挟まってたって言った方が正しいのかな?そのおかげで怪我もなかったし、引っ張り出すのも楽だったよ。早まって先生たち呼ばなくて良かったぁ」
振り返ってみると、少女の言う通り大量の土砂が天井までうず高く積みあがっていた。そこにきて俺は、はじめて自分が洞窟の中にいることを自覚した。
俺が嵌っていたらしい岩の隙間を覗いてみたが、真っ黒な穴なんて見当たらなかった。
「それにしても……洞窟……ダンジョン……魔術師ねえ」
「??……どうしたの?」
訝しげに俺の顔を覗き込む少女には構わず、周囲を油断なく警戒する。
地面をそのまま掘り抜いたような、地層剥き出しの洞窟の内部は薄暗く、それほど遠くまでは見渡せないものの、空間に立ちこめている紫色のなんだかよく分からない霧のようなものがキラキラと輝いているおかげで最低限の明るさを維持していた。緑色の"それ"に気付くことができたのはひとえに幸運の賜物だった。
なんとなく予想はついていた。"ダンジョン"と呼ばれる洞窟。そして魔女に魔術師。お次に来るのは当然、
「──魔物だっ!」
「え?きゃあっ……!」
咄嗟に少女の体を抱き寄せてその場から飛び退く。さっきまで俺たちが座っていた地面に錆びたナイフが叩き付けられた。
それを振り下ろしたヤツは、緑色の肌をした小さな子鬼だった。そいつは奇襲が失敗したことを悟ると、爛々と光る赤い瞳で俺たちを睨みつけた。
痩せこけた餓鬼のような体つきと2本の短い角……こんな奴がファンタジックな魔女っ娘とセットになって出てきたら、誰だってこう呼ぶに違いない。
「やっぱり……ゴブリンだ……!」