錆色の家路
"自分の居場所"とか"帰るべき場所"というものは大抵の場合本人の生活拠点と同じであることが多い。当たり前のことだ。心安らげる場所であるからこそ、そこを住処と定めているのだから。
ただ、この家を自分の居場所だと感じている人間は俺も含めて1人もいないだろうな、と3枚分のトーストをテーブルに配りながら考えていた。
「父さん、朝ごはんできたよ」
テーブルに背を向けて天気予報を見ている父さんに声をかける。父さんはいつも通り無言で席に着くと、俺を一瞥もせずにトーストを齧り始めた。
くたびれた灰色のスーツに表情筋の乏しい顔つき。昔はもっとがっしりしていて、全身に活力が溢れていた。
「コーヒー欲しかったら入れるよ。あと、弁当、玄関に置いといたから」
食事を作るのは俺の担当だった。母さんも料理ができないわけではないが、おふくろの味を最後に食べたのはもう7~8年近く前のことだ。
父さんから返事はない。いつものことだ。父さんが弁当を持たずに会社に行くのもきっといつも通りだろう。
「ほんと、朝っぱらから辛気臭い顔して嫌になるわ。拗ねたガキみたい」
向かい側に座ってスマートフォンを弄っていた母さんがやれやれと首を振ってタバコを取り出した。そこでようやく父さんが朝食から顔を上げた。
「タバコは外で吸えと何度も言っただろう。スーツに臭いがつく」
「あら、加齢臭が誤魔化せてちょうどいいんじゃない?」
「取引先に嫌われて給料が減ったら困るのは誰だと思っている?ろくに家事もできないお前など、社会では何の価値もないんだぞ」
「……はぁ?」
「いってきます。母さん、冷蔵庫に昨日の残りがあるから、昼はそれ食べて」
俺は残りのトーストを急いで口に詰め込むと、学生カバンを持って家を出た。背後から何かが割れる音と「何様だクソジジイ」とか「ごくつぶし」といった声が聞こえてきた。「いってらっしゃい」は聞こえなかった。いつものことだ。
高校に到着した後、カバンを教室に置いてトイレに向かった。洗面台で軽く顔を洗って朝の憂鬱な気分を切り替えるのが入学してからの恒例行事だった。
いつもならこの儀式を経て綺麗に勉強モードにスイッチできるのだが、なぜか今日はまったくそんな気分になれなかった。
父さんと母さんはもう長いことあんな感じだった。記憶にある最新の「仲のいい両親」は小学生時代だったろうか。
何が原因なのか幼かった俺には分からなかった。あの時は両親に言われるまま、自分の部屋で大人しくしていた。ただ、下の階から「尻軽女が」という父さんの声が聞こえてきたことだけは覚えている。
「……酷い顔だな、お前」
鏡の向こうにいる少年の顔は、父さんとは似ても似つかなかった。
授業が始まって、1人で昼食を食べて、昼の授業が始まって終わった。
ホームルームの号令が終わり、クラスメートたちがそれぞれ仲の良い友人とつるんで昇降口を出ていく中、俺は皆の流れから離れて1人図書室へと向かっていた。
「さよなら」を言う友達も「また明日」と声をかける相手もいない。昔はもう少し社交的だったのだが、いつの間にか俺は他人と触れ合うことがなくなっていた。
なぜ、と聞かれても上手く説明することはできない。別に他人が嫌いとか怖いのではなくて、なんとなく、そういうのが無意味に感じられてしまうのだ。
図書室に入った俺は定位置である左奥の席に座ると、机の上に勉強道具を広げていく。授業で出された課題と明日の予習はすべてここで済ませることにしている。
その方が効率が良いから、とクラスメートには答えている。嘘は言ってない。怒鳴り合いが聞こえない分、勉強が捗るのは間違いないのだから。
ただ、ここも自分の居場所ではないと感じる。図書室は共用のスペースだ。決して多くないとはいえ図書室を利用する生徒は存在するし、暇そうな図書委員の「ガリ勉発見!」とでも言わんばかりの視線にも耐えなければならない。
部活に入るという選択肢もあったが、どうにも俺は自分と彼らの間に見えない壁のようなものを感じてしまうのだ。
悲劇の主人公ぶる気もなければ同年代の生徒たちを見下してるわけでもないが、それでも、彼らのように無邪気に人と関わり、笑い合うような真似が自分にもできるとは思えなかった。
1度は深い繋がりを経て、互いに心を通わせ合った父さんと母さんですらああいう結果に終わったのだ。ましてやその子供である自分が上手くやれるなど、到底ありえない考えだった。
下校時間ギリギリまで図書室で粘った俺は、帰宅ラッシュも一息ついた駅のプラットホームで死人のような顔をしていた。
もう長い間楽しいとか嬉しいとか思ったことはなかったが、今日は特に酷い。朝から地の底に沈んだ感情が未だに浮き上がってこない。
同じように電車を待っている会社員がチラチラと心配そうに俺の顔を盗み見ている。たぶん今の俺は飛び込み自殺でも考えているように見えるのだろう。
いっそのことそうしてしまった方が楽になれるのかもしれない。このまま帰っても、明日も、明後日も、その先もきっと、この気持ちが変わることはないのだろう。
人身事故は月曜日に最も多く発生するらしいけれど、俺が一番死にたくなるのは金曜日だった。土日は学校が休みだから行くところがない。逃げる場所がない。息の詰まるような自宅に1秒だっていたくない。
──5番線に電車がまいります。危険ですから黄色い線の内側までお下がりください。
そういえば今日は金曜日だったな、と考えていると、構内放送と共に鈍いブレーキの音が聞こえてきた。地平線に半分だけ隠れた太陽をバックに電車が到着する。
定刻通りだった。根性無しの決心を待ってくれるほど電車は暇ではないらしい。
真っ白な照明に照らされた車内には誰も乗っていなかった。ほとんどの学生や会社員はとっくに帰宅して人心地ついているのだろう。誰だって早く家に帰りたいのだから。
もう数秒も経たないうちにドアが開いて、俺は情けなくもあの家に帰るのだろう。そこは"帰るしかない場所"であって"帰るべき場所"でも"自分の居場所"でもないのだけれど。
それでも仕方ない。なぜなら、この世界に、俺が心穏やかに生きていける場所など、どこにもないのだから。
(もしそんな場所があるのなら、俺は……)
くだらない思考を打ち切り、俺はホームから車内に足を踏み入れ──
「…………え?」
目の前に虚無が広がっていた。
過剰なまでに輝度の高い電車の照明も、横一列に並ぶ座り心地の悪そうな座席も、窓越しに見える町の景色も、何もなかった。
電車の内と外を繋ぐ境界面に──正確には、俺が入ろうとしているドアだけに──一筋の光すら反射しない真っ暗闇が口を開けていた。
「な、何…………うわぁ!」
あまりにも予想外の事態に俺の体は反応することができなかった。既に踏み出してしまった右足は本来着地するべき床を捉えることなく暗黒の空間に落ちていく。当然、右足に引きずられるように俺の全身もそれに倣った。
落ちる、落ちる、落ちる……。
虚無の中をひたすら落ちていく気持ち悪い浮遊感を感じながら俺が最後に見たのは、俺を飲み込んだ穴が生き物のように蠢いて、その口を完全に閉じてしまう光景だった。
……なぜか、女性の声が聞こえた気がした。




