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Beside  作者: 玄侍
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Beside ~終~

 Beside


 暗転、そして静寂。叫び声。きんきんと入り交じるその声はくぐもって、その言葉を正確に聞き取ることは難しく、代わりに眩しい人工の明かりがエリの閉ざされた視界を無理やり切り開いて……。

 見えたのは看護婦さんの心配そうな表情と、その隣でやはり気がかりそうに顔を歪める先生の姿。それはすぐに安堵の顔に変わり、まっすぐに立ち直して何かをつぶやき始めます。……親御さん……恐らく……連絡は…………。

 自分の荒い息の音だけがいやに大きく聞こえ、周りの音はほとんど耳に入りません。先生が女の人みたいに自分のひざに両手を当てながら何か話し掛けてきましたが、まともに聞き取る余裕もなくただこくこくとうなずくと、看護婦さんを残して早足で病室を出て行きました。

 「今、お水を取りに行ってるからね」

 ようやくはっきりと言葉を聞き取るときには、エリの頭は全てのことを思い返していました。驚いたような表情を一度看護婦さんのほうに向けると、再び乱れ始める呼吸を必死に抑えながら窓の向きに横たわります。

 外はひどい雨でした。窓にも線を描きながら雫が垂れ、遠くのほうでは雷雲が地響きのような音を鳴らしています。向かいのアパートはいつもと違って、どこか寂しそうに雨のなかに佇んでいました。窓柵の鉢植えからは枯れた花すらなくなり、それはそれでなんだか心細く見えました。

 「エリちゃん、水……」

 先生の言葉をさえぎって、ピシャアと大きな雷鳴が眩しい光とともに訪れました。そのとき、アパートの屋上に、雨雲を背中にして暗い人影が浮かび上がりました。人影はじっとそこに立ったまま少しも動こうとしません。エリが起き上がって目を凝らしてみても、やはりそこには人が立ち尽くしていました。

 「ありゃあ……人か」

 先生のつぶやきからしばらくもしないうちに、エリはベッドから飛び降り、ひとり病室を駆け出していました。呼び止める声はもはや耳に届きません。強烈な確信だけがエリを突き動かしていました。三階の廊下を抜け、階段を駆け下り、病院のロビーまで来たころには、胸が締まるように痛み始めました。重いガラス扉を押し開けると、限界の早さで道路を渡り切り、薄暗いアパートの階段を倒れそうになりながら登って行きます。息も絶え絶えになり、いつもなら発作が起きて当然の状態です。それでもエリは屋上を目指しました。今までとっくに知っていたような、知らなかったような答えを確かめるため、今度こそ助けの手を差し伸べるために、まだ倒れ込むわけにはいきません。

 淡い光が階段の上のほうに降りています。錆びついたパイプやコンクリートから雫がこぼれて肌を濡らしました。冷たい雨にさらされながら屋上にたどり着くと、雨脚はいっそう酷くなっていました。

 「アイ」

 まともに声が出せているのか、自分でも分かりません。ひたすらにのどを絞って辺りを見回すと、それは依然として病院と向かいになって柵に手を置き、その場に立ち続けていました。

 しかし、エリの声に気づいて振り返ったそれは、あの愛しい友達ではなく、ほおをこけさせた大人の男でした。それは確かに見覚えのある、やつれた様子の男です。エリはすっかり落胆、消沈すると同時に、今まで抑えてきた激しい咳と胸の痛みに襲われ、力なくその場に崩れ落ちました。


 *


 再び目を覚ましたのはいつもの白いベッド。白い天井。白い壁。ただひとつ明らかな違いは、先生のとなりでエリを深い心配の眼差しで見つめる男の存在です。

 「先生!目を覚ましました」

 「おお。まったくびっくりしたよ。追いかけたけど見失っちゃって」

 エリのまぶたは半開きのまま、その視線はいまだにあのアパートの部屋という部屋を追い続けていました。思わず右手が伸び、雨に濡れる窓の、その向こうの景色を撫で始めます。

 「大丈夫かい」

 男の人がかがみ込んで声をかけます。

 「うん……」

 心ここにあらずといった調子でエリは返事をしました。

 「エリちゃんは、アイのお友達かい」

 「え?」

 男の人が消え入りそうな低い声で言った言葉に、エリが驚いて向き返りました。男の人は長いまつげを伏して少し微笑んでいます。

 「さっき名前を呼んでいたから、そうじゃないかなと」

 「ええ、でも……」

 上手く説明出来ず、エリはそこで言葉を切らしてしまいました。男の人は感慨深げな表情を壁のほうに向けてつぶやきました。

 「そうか、そうか。あの子にもこんな友達がいたなんてなあ……」

 「あの」

 そう口を開いてからしばらく、静かな間がありました。何からどう聞くべきか、エリは慎重に考えてから質問を口にしました。

 「アイを知っているんですか」

 男の人はさっきよりもいくらか嬉しそうな声音で答えました。

 「ああ。僕は、あの子の父親だよ」

 何となく予想していたその返事を、エリはゆっくりと飲み込んで続けます。

 「アイは、あのアパートに住んでいるんですか」

 「ああ。いや……」

 男の人は再び長いまつげを伏し、物憂げな表情を作りました。それはまるで絵画に描かれているかのようにエリの目には映りました。

 「君はきっと、あの子が小学生の頃に、学校で一緒に遊んでくれていた友達だね。そうだろう」

 焦りながらエリはうなずきました。

 「やっぱり、そうか。実はね、その後僕らは引っ越しをしたんだ。君もその話は聞いていたかもしれない。あのアパートに住んで、君たちとはひとつとなりの中学校に入ったんだよ」

 「やっぱり……」

 「でも、そこからは良くないことばかりだった。妻は……お母さんは、外国の生まれでね。ずっと北のほうにある国の田舎の村だよ。だから、見た目が僕たちとは少し違っている。アイもそれを受け継いでいるから、学校ではいつも目立ってたんだ。君たちといた頃はまだ小さかったから、それを気にする子はあまりいなかったけどね」

 「それで、なにか嫌なことがあったんですか」

 「うん……そうだな。始めは、見た目の違いで変な噂をされたくらいだった。それがだんだん酷くなって、暴力も混ざるようになったらしい。制服を泥で汚して帰ってきた日もあった」

  「らしいって……」

 アイのお父さんは少し目をそらして、言い辛そうにしました。

 「……ああ。僕はほとんど、いや。何もそのことについて知らなかった。当時は仕事が忙しくて、家に帰った頃にはアイも妻も眠っていたんだ。ただ、安心して、仕事に行ってほしいとだけ聞かされていて、僕はなにもそれを疑わずに過ごしていた。そんな風に毎日が過ぎていって、アイの入学から半年が経ったくらいのとき……お母さんが、あの公園の木で、自分から命を絶ってしまった。そのとき遺書を読んで初めて二人の苦しみを知った」

 にわかに声が震え出していました。エリはアイのお父さんを責める気も起こさず、その悲しい物語に耳を傾けていました。

 「お母さんはひどく心を弱らせていた。何度も学校に掛け合ったけど、子どものすることだからとまともに聞いてくれなかったらしい。目立った暴力を止めてもらうので精一杯だったと。彼女のやつれた頬も、目の隈も、僕は見逃し続けていた。気がつかないようにと、自分で自分を騙してたのかもしれない。とにかく僕は、情けなくて仕方が無くなった。なんとかしてアイだけは救おうと、学校に行くのをやめさせたんだ。それから、あの子は家にこもりきりになった」

 エリは聞きながら、あの桃色の部屋で人形たちとたわむれているアイの姿を思い浮べました。

 「アイはいつも、お母さんのことを口にしていた。私のせいだとか、僕が違うと言ってもほとんど耳を貸さなかった。だけど、僕は安心していたんだ。家にいさせれば、ひとまずあの子が傷つけられるようなことはないって。だけどそんなことはなかった。あの子は、自分自身を常に責め続けていた。そうやって罪の意識を抱え込んで、心をボロボロにして、ついにはアイまでも、お母さんと同じことをしてしまった。結局僕は何もしてあげられなかった」

 「そんな……」

 絶望感でエリの胸が一杯になりました。溜まった涙に目を赤くしながら、それでも未だに解けない疑問を聞こうとしました。だけどそれは、到底まともな言葉では説明できない疑問でした。

 「じゃあ……なんで……」

 男の人は、ほとんど独り言のように窓の外を見つめながら話していました。外の雨は上がり、うつろな顔は太陽の光を避けることもなく真っすぐと据えられていました。

 「あの子は、暗い曇りの朝早くに、クマのぬいぐるみを抱え込んでアパートの屋上から飛び降りた。だけど……それでお母さんのところへ行ったわけじゃない。不幸中の幸いっていうのか、下に積まれていたゴミ袋がクッションになって、一命は取り留めたんだ。だけどそれから三ヶ月ほど、寝たきりの状態が続いてる。再び目を覚ますかどうかはわからない。……はっきり言って、確率は低い。でも信じてあげるしかできないんだ。……君にも申し訳ない」

 言葉を失うエリに、となりで二人の様子を見守っていた先生が口を開きました。

 「エリちゃん。できれば、そばでアイちゃんを見守ってやってくれないか。病院で手配して、ベッドをとなり合わせにすることもできる。どうかな」

 その言葉に、エリの顔が少し柔らかくなりました。

 「お願いします」


 *


 案内された小さめの病室は、雨上がりの空からあたたかな日の光が射し込んで、日だまりになっていました。そこには二つのベッドが並んで置かれていて、まるで幼い姉妹の部屋のようにも見えます。

 左側のベッドの掛け布団がふくらんでいます。枕元には、見慣れたクマのぬいぐるみがちょこんと置かれていました。傍らの機械が、ピ……ピ……と規則正しい心臓の動きを伝えています。

 その優しい様子に、緊張や、恐れの気持ちはすっかり消されて、いつにない穏やかさに包まれながらエリはそのベッドへとゆっくり歩み寄っていきます。

 布団を少しめくると、驚くほどにきれいな、かわいらしい寝顔がそこにはありました。明るい色の髪を軽く撫でて、エリは顔をほころばせました。

 「よろしくね」

 心なしか、機械の音が落ち着いたような気がしました。

 エリはとなりのベッドに入って静かに目を閉じると、心地良いまどろみのなかに溶けていきました。


 ーBesideー終わり

 

ありがとうございました。四苦八苦しましたが、最後まで書けてよかったです。これからどうするのか、まだ決まってはいませんが、やるなら短編にしようと思います。その時はまたよろしくお願いします。

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