5. 無力な魔法
エリは揺さぶられながら目を開きました。
「ああ。やっと目を覚ました。あんなにうなされちゃって」
それが誰の声なのか、どこから聞こえるのか、何を言っているのか、全てはっきり分かるまで時間がかかりました。エリはその声に応えることも忘れて、世界が終わるのを見たような顔つきで白い天井を見つめていました。
「……お母さん」
瞳孔が閉じないまま右を向くと、温厚さと活発さを秘めたいつもの顔が微笑んでいました。エリが本当に気がついたことを確かめると、お母さんは改めて「おはよう」と言いました。
「と言っても、もうお昼なんだけどね。私が来てもずっと起きなくて、終いにはうなりだしちゃって」
お母さんは早口なので、寝起きのエリには何を言っているのか理解が追いつきませんでした。それに今は、他のいろいろなことで頭がいっぱいになっています。
「……夢を、見てたの」
お母さんの顔よりも少し下に目を向けながら、エリが口を開きました。
「やっぱり。怖い夢なら早く忘れちゃいなさい」
「ううん。怖いばかりじゃないの」
お母さんの物言いはしゃきしゃきしています。エリは頭をめぐる光景を一つ一つ整理しながら話しました。
気がついたら知らない部屋にいたこと、そこには生きた人形たちがいて怖かったけど、慣れたら怖くなかったこと。そして新しい友達。一緒に恐ろしい暗闇から帰ったことに、同じ本を好きだったことに、二人で打ち明けた自分達の悩み。
そのどれもがついさっきまでの出来事なのに、こうして話していると、もう何年も前のことのように感じます。お母さんは真剣に相づちを打って聞き入ってくれました。
「すてきな夢じゃないの」
思っていたより何倍も前向きな言葉が返ってきました。エリは真っすぐ目を見つめ返しました。
「あなたは本当の友達を見つけたのよ、エリ」
「本当の友達?」
エリが首をかしげて聞き返します。お母さんは裏返しの寄せ書きにちらと目を配りました。
「そう。あなたがあまり皆に馴染める性格じゃないのはよく知っているわ。皆にはあなたよりもずっと多くの友達がいて、いつも楽しそうにしていることも」
だけどね……と言いながら、エリの髪をそっとなで下ろします。
「本当の友達に出会える子はほとんどいないのよ。あなたが夢のなかで二度もその子に会えたのなら、それはお互いを必要としてる証拠じゃないの。きっとどこかで、同じようにあなたのことを思っているわ」
大切なことを言うときは、いつもとまるで違ってゆっくりとしたやわらかい言い方です。エリは聞きながら、アイの存在が自分のなかで大きくなっていくのを感じていました。
「アイは、大丈夫かな」
「それはあなた次第よ。エリ……」
そこで言葉を止め、お母さんはまた寄せ書きに目を配りました。
「勝手な引っ越しであなたにつまらない思いをさせて、本当にすまないわ。ごめんなさい。……だけどね、あなたは他の子よりも、人の悲しみを分かってあげられる子よ」
「でも、私にはもうどうしようも出来ないわ」
エリはすっかり希望を失った様子でつぶやきました。お母さんは窓の外を見ながら少し考えた後、聞きました。
「あなた、夢のなかでも夢だって分かってたの?」
エリは質問の意味を汲み取るのに少し間を置いた後、答えました。
「うん。すぐにわかったわ」
「そう。それなら運がいいわね」
なぜ良いの?とは聞かず、エリはお母さんを見つめました。お母さんは自信たっぷりという風に語りだします。
「夢のなかで、自分が夢を見ているのがわかるとね、どんなことでも思い通りに出来るのよ」
「本当?」
信じられないと言う声でエリが聞きます。
「本当よ。私があなたに嘘をついたことがあったかしら?」
「いいえ」
慌ててエリは首を横に振ります。
「私もね、三回だけ、そういうことがあったの。魔法が使えるみたいでとても楽しかったわ」
へえ……と声を漏らしつつ話に聞き入るエリに向かって、お母さんが少し語気を強めて続けました。
「だけどこれは簡単じゃないわよ。集中して想像しないと上手くいかないの。誰でも出来るとは限らないの」
言われながらもエリには、それが出来る自信がありました。それに近いことをやってのけた節が思い当たったのです。
「私やってみるわ」
その前向きな言葉を聞くなり、お母さんはとても満足そうにうなずきました。
「ええ。それじゃあ私は仕事に行くからね。体に気をつけて」
そう言うと、優しくエリの肩を叩いて立ち上がりました。
お母さんがどれだけエリの話を本気にしていたかは分かりません。それでもエリは、自分にとって大事な人が出来たことを確かに感じることが出来たし、わずかな希望を授かることも出来ました。
小さく手を振りながら見送っていると、お母さんはいきなり思い出したようにエリに向き直り、いつも通りのしゃきしゃきした口調で言いました。
「アイちゃんによろしくね。エリ」
エリは返事をする代わりに、もっと元気に手を振ってお母さんとお別れしました。
*
それは荒れ狂う海の中にいるような状態でした。押し寄せる黒の塊はあきらかに実体の感触を伴って、身体中を揉み潰そうとするように迫り続けます。
呼吸をする度に、まるでつららが突き刺さったかのように胸が痛み、鼻の奥がつんとします。
エリは必死で耐えながらイメージを作りました。目を閉じて、早くなっていく息を落ち着かせるのも忘れて、闇の晴れる様を思い描きました。
再び目を開けると、依然としてそこには暗い世界が広がっていました。だけどそれはいくらか落ち着いていて、前に来たときとほとんど変わらない状態になっていました。
足を踏み出すと、地面からしゃくっと音が聞こえました。気がつくと、辺り一面に枯れ葉が散らばっています。いくつかの人形が枯れ葉と一緒に横たわっているのも目に入りました。皆、生気を失くしていました。
横たわった人形を一つ一つ拾い集めている女の子の姿が見えます。長い髪に隠されその表情は分かりません。かろうじて覗く口元は、固く引き締められていました。
エリは足下の人形を拾いながらアイに歩み寄っていきます。すぐそばまで来て、アイがやっと気がつきました。
「また来てくれたの……」
顔を上げたアイの目は赤く、まぶたが少し腫れていました。
「もちろん。放っておくはずないでしょ」
精一杯の明るい声音で応えるも、それがアイにまでうつることはありませんでした。口だけ微笑んだ後、再びアイは人形を集め始めました。エリは取り残されたように立ち尽くしていました。
「……もう動かないの」
沈黙をやぶってエリが言いました。そうよ、人形だもの、とアイが答えました。寂しそうな声でした。
エリはそっと目を閉じました。
「見てて、アイ……」
アイが呆然とエリの様子を見ていると、腕に抱いた人形が顔を起こしました。まわりに倒れたものも少しずつ立ち上がって、アイのもとへ歩きだします。やがて、すべての人形に囲まれたアイが驚いて言いました。
「あなたがやったの?」
「そう」
しばらく、アイは人形達と目を合わせたまま、何か話すような仕草をしました。その顔が時折楽しそうに笑う様子を、エリは見逃しませんでした。
「ありがとう。本当はね、とても寂しかったんだ。あなたは素敵な魔法が使えるのね」
「大したことじゃないわ。だけどこれで、あなたをこの暗い闇から救い出せるかもしれない」
「それは……ありがとう。でも、もう大丈夫。大丈夫だから、心配しないで。エリ、前に言ったでしょ?私をかわいそうだなんて思わないでねって」
「ええ。言ったわ。でも放っておいたら、私たちがいつまでも会えるとは限らないでしょ?あなたはきっと、もっと元気な子でいられる。だから助けたい」
「そう……。じゃあやってみて。私たちはここでじっとしてるから」
アイの優しい微笑みからは、今から始めることになにも期待していない様子が伝わりました。エリは少しだけむきになって、目をつむりました。
次に目を開けるときには、二人はまたあの小さなお部屋の中にいて、ベッドで手を繋ぎながら仰向けに寝ている。窓からは明るい日差しが射し込んで、部屋の隅々まできれいに色づいている。人形たちはみんな歓声を上げて二人を見送る。引き戸を開けると、そこには悲しい暗闇なんて面影すら残っていない。見渡す限りの緑の丘に白いマーガレットの花がたくさん咲き、絵の具で描いたような雲がきれいな青空のなかに浮かんでいる。二人は弾けるように笑いながら、丘をずっとずっと遠くまで走っていく。
そして二人は、丘のふもとに怪しい森があるのを見つける。森は暗くて、近づくにつれて青空も色が変わってしまう。マーガレットの花は枯れて、踏むたびにバリバリと乾いた音を立てる。後ろを見れば緑の丘はどこかに消えて、暗闇だけが広がっている。あとに引き返せなくなった二人。
暗い森の暗い細道を進む途中、エリは後ろを歩いていたはずのアイの姿を見失ってしまう。周りは何か危険なものの気配に満ち始める。エリは不安に怯えながらも懸命に声を振り絞ってアイの名前を呼ぶ。
アイ!どこへ行ったの!アイ!
「アイ!」
その声が、自分のイメージの中だけに響いたものではないことにエリが気がついたのは、数秒間の後でした。周りはイメージそのままの不気味に曲がりくねった木々が立つ森で、そばにいたはずのアイの姿もどこかへ消えていました。
「アイ!ごめんなさい!」
がむしゃらに走り回っていると、夜の電灯に照らされるように少女がうずくまっているのを見つけました。すすり泣くような声もかすかに耳に届いてきました。
「ああ、アイ!待ってて、今すぐ元通りに……」
駆け寄った光は次第に弱くなっていき、代わりにくっきり姿を現したのは、不気味に微笑む人間の抜け殻でした。エリは驚いて逃げそうになりましたが、うずくまるアイの肩になんとか手を掛けました。その途端、木に吊るされた身体は足の先から枯れ葉に変わり、ばらばら落ちて地面につもりました。
「アイ、あれはあなたの……」
「お母さん」
言葉を繋いだのか、ただ独りつぶやいたのか分からないけれど、アイはそう言いました。エリはしばらく何も言えずに肩に顔を寄せ続けていました。
「エリ、本当にありがとう。あなたは特別な友達よ。だって、あなたは人間の女の子だから。まだ一緒にいたかった」
「一緒にいるわ。言われなくても、ずっとこの先も」
エリが涙で顔をぐずぐずにしたまま、まるでわがままな子どものように強く返しました。それでもアイの瞳の深い空洞は、その暗さを増していく一方です。アイは静かに立ち上がって、木々の間を抜けていきます。
「待って」
エリが走りだしたときには、アイはもう最後の木の間をくぐっていました。森のすぐ外は崖になっていて、渓谷はすぐそこまで闇に満ちています。永遠にたどり着くことのない奈落。その深い穴に向けて、アイは左足を一歩踏み出します。
「やめて!」
エリの叫びが虚しく闇に響きました。体の半分以上の重さが空中に投げ出されてしまった状態で、アイはちらりとエリの方を振り返りました。
その顔は笑っていました。だけど大粒の涙がアイの目や頬から弾け飛び、一足先に闇の中へと消えていきました。