4. エリとアイ
アイを助けようと暗闇へ踏み出したエリでしたが、結局最後には、アイに連れられながら部屋へと戻ることになってしまいました。
二人はまるで幼なじみのように手をつないで歩きました。部屋の入り口に到着するまでは、アイが再び笑顔を浮かべることはありませんでした。
アイはずっと周りを気にしていました。眉をひそめて、唇をかたく結んで、闇のなかをきょろきょろ見回しています。
時おり、離れたところに人影が立っていました。きっとあの顔無しお化けに違いありません。
アイは人影の姿を見つけるたびに、エリとつないだ右手を握り直します。
エリは怖さにうつむきながら歩いていましたが、つないだ左手から緊張が伝わるたびに、そっとアイの顔をうかがいました。するとアイはわざとらしく緊張を解いた顔つきになって、エリの目を見つめ返します。
「大丈夫。あともう少しだから」
それはエリを励ましているようでもあり、自分の心に呼びかけているようでもありました。その証拠に、アイの右手は小鳥のように震え続けていました。
行きよりも遥かに長い長い時間、暗闇の上を歩いているように感じられました。ようやく二人は、部屋の入り口が見えるところにまでたどり着きました。アイがほっとした顔を作ると、エリも心が和らぐのを感じました。
二人が安堵に包まれたそのとき、闇に声が響きました。
「アイ」
エリの声でも、向こうのクマの声でもありません。遠い後ろのほうから、アイをやさしく呼び止めようとするように響き渡ってきたのです。エリは思わず後ろを振り向きました。しかし、誰の姿も見当たりませんでした。アイは真っすぐ前を向いたまま歩き続けていました。
今の声は、アイには聞こえなかったのかな。
そう思っていると、アイはつないだ二人の手を静かに持ち上げ、自分の胸に強くあてがいました。
「今の、聞こえた?」
エリが不安と心配の入り交じった表情で問いかけます。
「いいえ。何も」
アイは目も合わさずに否定しました。
裏腹に、アイの胸に当てられた左手は、今にも破裂しそうな心臓の鼓動を直に受け取っていました。それは病弱なエリにはきっと耐えられないような激しい拍動でした。
アイは前を見据えたまま足を早めます。そして二人は、やっと暗闇と部屋との境界をまたぎました。
戸はアイの手によってすぐに締め切られました。
「ああ。流石にもうだめかと……」
クマが言い終わらないうちに、アイはそのやわらかい体を思いきり抱きしめました。他の人形達も口々に歓声を上げて喜んでいます。
「エリが私を探しにきてくれたのよ。ありがとう、エリ」
クマの両脇腹を赤ん坊のように持ち上げてエリの顔に近づけながら、アイはやっと笑顔を見せました。
「私こそ、一人じゃどうしようも出来なかった。ありがとう、アイ」
突き出されたクマを撫でながら、エリはしみじみとした微笑みで応えました。クマはどこか不服そうな顔でされるがままになっていました。
「ところで、不思議じゃない」
エリが突然、思い出したように疑問を口にしました。
「どうしてあなたは私の名前を知っているの?まだまともに話したことも無かったのに」
もちろんその疑問は、考えてみれば何でもないものなのです。つまり、これはエリの見る夢なのだから、夢のなかに出てくる女の子がエリを知っていてもなにもおかしくないということです。そのことは、エリも頭ではよく分かっていました。それでも不思議に思えて仕方なかったのです。
「なぜあなたを知っているのか?簡単なこと。私は、ここで起きていることなら何だって、どこにいたってお見通しなのよ」
「たとえば、お菓子を勝手に食べちゃうとかね」
クマが参ったというように肩をすくめて口をはさみました。その肩に手を掛けてアイが続けます。
「だから、あなたとこの子の会話もちゃんと聞こえてたってことよ」
「すごい!魔法みたい」
エリが手を合わせて驚きます。
「私ね、ずっとあなたのことを、私の夢のなかだけの女の子だと思ってたの。でもそうじゃなかった。あなたはこの世界で、まるで本当の人のように生きてるのね」
言いながらも混乱がとけないままのエリを、アイが愉快そうに笑いました。
「変なこと言うのね。私たちはね、エリ。あなたこそただの幻なんじゃないかって、疑い始めてたのよ」
意外そうに目を丸くした後、エリは笑いました。
向かい合って笑い合う二人の姿は、まるで昔からの友達そのものでした。
ひとしきり笑った後、エリは改めて部屋の様子を確かめました。可愛い内装なのに全体的に薄暗いのが、かえって落ち着ける雰囲気を作っていました。
「ベッドに寝そべっても良い?」
「ええ、もちろん」
答えを聞くが早いか、エリは大の字にベッドに飛び込みました。続いて、アイも仰向けで飛び込んできました。顔を見合わせると、二人は口を閉じてくすくす笑いました。なにがどうおもしろいのかは、二人にもよく分かっていません。幸せが体の内側から二人をくすぐっていました。
ベッドのわきと壁の間には、小さな本棚が置かれていました。エリはその目立たないところにある本棚に気がつき、ベッドから半身を乗り出してなかを見ました。
どれもエリが気に入るようなおとぎ話の本でした。そしてそのなかには、エリが八回も読んだあの大好きな本も並んでいました。
「これ、私も持ってる。何回も読んでるわ」
にわかに興奮しながらエリが言いました。
「本当?私もそれが、その棚のなかでも一番に気に入ってるの」
いちばん、を強調してアイが応えます。エリは、自分の他にこの本を本当に好きな人に出会えたことと、その人が自分にとって特別な人であることの両方をとても嬉しく思いました。
「嬉しい」
エリがそのまま口に出しました。
「今まで誰も、本の話なんて興味を持ってくれる子はいなかったわ。あなたが初めてよ、アイ」
「へえ」
アイは意外そうな声を上げました。
「でも、本が好きな子なんて、他にもたくさんいるんじゃない?」
言われて、エリは首を横に振りながら、ううん、と声を出して否定しました。
「本当にいないのよ。少なくとも、私の周りには一人もいないってこと。皆は皆で、それぞれ好きなことがあるの。それで大抵、三人とか四人とかは、同じ趣味の仲間がいるものなの」
そこまで言って、エリの瞳に再び、以前までの暗さが帯び始めました。本の表紙に目を落としたまま、エリは続けました。
「だけど、今どき本なんかに興味がある子は案外いないのよ。私だけなの。誰とも気は合わなくて、だからもうずっとひとり。……無理に合わせる気もないわ。私は一生かけても、あの子たちの好きなものを、同じように好きにはなれないから」
こうなってしまうと、エリの心は一転して、真っ暗な階段を降りるようにどこまでも沈んでいきます。
「ごめんなさい。どうでもいいことを。私を可哀想だなんて思わないでね。アイ」
エリは無理に笑おうとしましたが、さっきのようにはいかず、小さくため息をつきました。
アイは戸惑いました。こんなとき、下手な助言や励ましをしてはいけないことは、アイ自身がよく分かっていました。言葉による励ましはとても微力で儚いものなのです。今まででアイが本当に絶望しているとき、声を掛けてくれた人々に対してアイは顔も上げないできました。人々の多くは、哀れな少女を心配するという義務を果たそうとしたに過ぎないのです。なかには、本当にアイの苦痛を理解するつもりの人もいたかも知れないけど、いったいどこまで真剣に胸を痛めることが出来たのでしょうか。一週間、早くて五日もすれば、あとは誰も彼も自分のことで精一杯なのです。
もちろんそれは悪いことではありません。だけどアイは、目の前にいる友達を、ただの義務で心配したくはありませんでした。迷った末、アイは自分の身の上を少しだけ打ち明けることに決めたのです。つまらない励ましを送るより、それで痛みを分つことが出来るという思いでした。
「ああ、ねえ、エリ」
アイはたどたどしく口を開きました。
「ここに戻ってくる途中に、顔の無いお化けに会ったでしょ?私、思い出したのよ。あれが誰なのか」
「誰なの?」
エリがうつむくアイの顔をのぞき込みました。アイは自分の両ひざを見つめていました。
「あれはね、クラスメイトの女の子。でもひどい子でね、私をさんざんひどい目に遭わせて楽しむのよ。最初は一人だったのが、だんだん増えてきてね。それがすごく嫌だったの。きっと一生忘れないわ。忘れようとしても、しばらくすればまた思い出すの」
吐き出すように言って、アイは再びベッドに仰向けに寝転がりました。エリは黙ったまま腰掛けていました。
「でもあなたはこれからよ。これから、私なんかよりもっと素敵な友達に出会えるわ。そのつもりで生きていればきっとね」
その言い方はまるで、自分の得られなかった幸せをエリに託しているようでした。アイは少しずつ自分の闇にひたり始めていました。
「アイもそうでしょ?」
ベッドのふちに座ったエリが、身体ごと振り返って言いました。
「私はもうだめ。なにもかも手遅れだから」
わずかな笑いを交えて、投げやりな答えが返りました。
「私は愚か者なのよ、エリ」
「愚か者?」
いきなり発せられた言葉に思わず聞き返すエリでしたが、結局その意味するところは分かりませんでした。
「そう。愚か者」
アイはただ、繰り返しそうつぶやきました。私は愚か者……それに従って、部屋の暗さが増していきました。暗闇のなかのような歪んだ渦が出てきて、部屋中を飲み込んでいきます。アイがとぼとぼとベッドから降りてクマを腕に抱きました。クマにはさっきのような生気が感じられず、手足は力無く垂れ下がっています。他の人形達も同様に、電池が切れたように床に倒れていました。虫のうごめくような闇が部屋を包んでいきます。
「会えて良かった。エリ」
その笑顔を最後に、アイの姿を捉えることが出来なくなりました。激しく渦巻きせめぎあう闇に今度こそめまいを起こしたエリは、数歩進んで気を失いました。
倒れた体は闇の上に伏せた後、そこから消えてなくなりました。




