3. 出会い
エリはつまらなさそうな顔をしながら病室のドアを開けて、廊下に出ました。ストレスを溜めているせいか、少し肺がもやもやします。こういうときの気分転換は大切だと、エリは幼い頃からお母さんや病院の先生に言われていました。だからエリは、一階の娯楽室に行こうと思っていました。
廊下の白い床や壁は、窓から射し込む夕陽に照らされて橙色に包まれています。歩いていると、点滴のスタンドを転がすおばあさんや、頭を包帯に巻かれたスポーツマン風の男の人とすれ違いました。
階段では、コスモスの花束を抱えた男の人が思い詰めた表情で上がってきました。隈が目立ってひどく老け込んで見えますが、本当はもっと若そうです。
一階の廊下では、担当の先生とすれ違いました。
「やあ、エリちゃん。具合はどうかな」
先生はにこやかな表情と、にこやかな声でエリに話し掛けます。作り物ではない善意がそこには込められていました。
正直にいえば、エリの身体と心の具合は全くもって良いとは言えません。だからエリは、今の状態をそのまま伝えようとしました。ここで先生に嘘を言っても仕方ないのです。だけど本当にそんな後ろ向きな返事をしても良いものかどうか、エリには自信がありませんでした。
「あんまり……」
過剰に心配されるのが嫌なので、エリは小さな声で控えめに答えました。そのせいで、先生にはよく聞こえませんでした。先生はそこで、余計な気を遣うことになりました。
「ああ、よしよし。悪化してないならいいんだ。きっと来週には退院出来るくらいに回復してるだろう。それじゃあ、安静にね」
一息にそう言ったかと思えば、先生はもう近くの病室をのぞいて、具合はいかがですか、痛みはないですか、などと話し掛けていました。
エリはまたうんざりしていました。あれは、エリが話をするのが苦手だということに気づいた人がよくする反応なのです。そんな気を遣われることはエリは望んでいなかったし、こんな簡単なこともまともに答えられなかった自分も嫌でした。
エリはこわい顔をして下を向きながら、大股歩きで娯楽室のドアまで突き進みました。すれ違う人が皆自分のほうを見ているような気がしましたが、それにはお構いなしでした。
磨りガラスのドアを開けると、床に敷かれたグレーのマットの上に、ビリヤード台や、ダーツ、ホッケーなどが置かれていました。すでに二人の女の子が、楽しそうにビリヤードをやっていました。この二人は姉妹でしょうか。あまりビリヤードには慣れていない様子です。部屋のすみには棚が置かれていて、オセロやチェスなどのボードゲーム、トランプやカルタなどのカードゲームがありました。そして一番上の段には、ジグソーパズルがありました。
エリはジグソーパズルを取り出し、マットの上に置いて、黙々とイルカの絵を組み上げ始めました。
エリはパズルが得意です。その実力は、小学二年生のときに、1000ピースのジグソーパズルを独力で完成させたほどです。買ってきたパズルが目を離している間に出来上がっていたので、エリのお母さんはとても驚きました。
エリは無心になれる作業が好きです。本の世界にも入っていけないようなときには、いつも決まって出来上がったパズルをひっくり返し、一から組んできました。だからこんな500ピースのパズルなど、エリの手にかかればすぐに完成するはずでした。しかし、邪魔が入ったのです。
周りのサンゴや小魚をつくり、イルカの尻尾に差し掛かったところで、ビリヤードに盛り上がっていた女の子の一人、おそらく妹と思われるほうが、ジグソーパズルのほうに近づきました。女の子は気がついて避けようとしましたが、失敗してバランスを崩し、余計にひどくピースを蹴り飛ばすことになってしまいました。
床に散らばったピース。それを石のようになって見つめる三人。
直後、それまで無心でパズルに熱中していたエリは、今まで心の隅に追いやっていたムシャクシャした気持ちを一気に解き放ちました。
「ちょっと!何するの!台無しじゃない!」
エリは一年間に幾度も上げないような大声で女の子に怒鳴りつけました。
「どうしてくれるのよ!せっかくここまでやったのに!ねえ!」
エリは怒りながらも、目元に涙を浮かべています。パズルを壊してしまった女の子は、困り果ててお姉さんにすがりつきました。予想以上の怒りに戸惑っているようです。無理もありません。女の子はただパズルを壊しただけですが、それはエリにしてみれば、今まで様々な憤りを抑えてきた心のダムが、決壊したのに等しいのですから。
「ごめんね。でも、わざとじゃないのよ。そうでしょ?」
お姉さんに言われ、女の子はこくりとうなずきます。その子のほうは、もう頬に涙を伝わせていました。それでもエリの剣幕は止まりません。
「わざとじゃない?何言ってるの!普通はすぐに謝るのよ!」
女の子は気がついて、小さな声でごめんなさいと言いました。実際に謝られてしまったエリは、これ以上言い返す言葉もありません。雫のたまった目をキッと細長くして素早く振り向くと、肩をいからせながら、娯楽室をのしのしと出ていきました。
まぶしい西日が胸に染みます。それで余計にせつなくなり、ついに大粒の涙がこぼれ落ちました。それは目をつむっても歯を食いしばっても止まりませんでした。抑えきれない泣き声の合間に、げほげほと湿った咳を洩らしながら、エリは廊下を早歩きして自分の病室に戻っていきました。幸い発作の誘発には至りませんでした。
病室に戻る頃には、咳は治まっていました。力いっぱいドアを開けたエリは、驚く他の患者たちには目もくれずにベッドに直進しました。そしてベッドを軋ませながらうつ伏せに布団に入り込み、枕に顔を押しつけました。泣きようにも、これ以上涙が出ません。呼吸が落ち着かないのにも関わらず、エリは口も鼻もぴったり枕にくっつけたまま離れませんでした。
このまま息が出来なくなって、気を失ってしまいたいとエリは思っていました。
自分よりも小さな女の子に怒鳴りつけるだなんて、正気じゃない。もう限界だわ。もう家に帰りたい。
もっとも先生に申し出てまともに相談さえすれば、家に帰してもらえないことも無くはないのです。しかし、今のエリにはそんな余裕もありません。枕に顔を押しつけて、意識が遠くなるのを待つしかありませんでした。
だけど、苦しいばかりで一向に気絶する気配はありませんでした。エリは諦めて体の向きを直し、窓に顔を向けました。
日は沈んで、外はもう暗くなっていました。向かいのパン屋さんではいつも通りのやさしい光が灯され、売れ残りのパンが寂しそうに並んでいます。公園では、白い街灯が誰もいないベンチを照らし続けていました。
赤いテント屋根の喫茶店からは、長いコートを着て、丸つばのハットを深々と被った男の人がうつむきがちに出てきます。エリは遠い目でその後ろ姿をながめていました。すれ違う人々や車とは、全く別の空間を歩いているかのようでした。男の人は薄暗いピンクのアパートの前で足を止めると、それをゆっくり見上げました。それからしばらくするとまた深くうつむいて、暗い階段からアパートのなかへと入っていきました。
窓の外に気を取られていたエリは、後ろに夕食の盆を持った看護婦さんが立っているのに気がつきませんでした。エリが慌てて向き直ると、看護婦さんはしっとりとした声で言いました。
「ご飯しっかり食べて、元気だしてね」
笑顔で盆を置き、病室を出ていきます。
また余計な気を遣われちゃったな、とエリは思いました。廊下で泣いていたところもバレバレだったのかも知れません。いずれにせよ、今のエリに食欲なんて欠片もありませんでした。食事を放棄して横になり、一口も手をつけていない夕食が後に回収されていくのを、エリは寝たふりをしたままやり過ごしました。もうその夜は歯を磨いて顔を洗い、ベッドに戻って眠るだけでした。
十時、消灯の時間。電気が消され、部屋中が夜に包まれます。星と三日月をその大きな瞳に映しながら、エリはまたあの女の子の姿を頭に思い浮かべ、今夜の夢でも会えることを願いました。
そしてあまりにも長い現実の世界の一日を静かに終えました。
*
布団の感触は雲のようにふわふわしていて、枕は耳元まで包み込むような柔らかさでした。病院のそれとは全く違った心地の良い木のベッド。
周りを見ると、深い緑色のカーテンを通した弱い光が、桃色の壁紙を浮かび上がらせています。ヨーグルト色とミカン模様の天井、赤い絨毯、暗闇へと続く引き戸。昼間の夢とまったく同じ部屋にいることに、エリはようやく気がつきました。昼間と違うのは、自分がベッドのなかにいることと、ベッドにいた女の子がどこにも見当たらないことです。
寝返りを打って横を見ると、テディベアが布団に埋もれながら寝息を立てていました。エリは、今度は出来るだけ驚かずにその様子をじっと見つめます。それから壁際に目を向けると、そこにはやはり、同じように眠る人形達の姿がありました。
ベッドから起き上がろうとすると、寝ていたはずのテディベアが後ろから声をかけてきました。
「あれ、もう起きてるのか。アイ」
あの子は、アイって名前なんだな。エリはすぐに気がつき、寝ぼけたテディベアを少しからかいました。
「うん。なんだか全然眠れないから」
「ふうん。まあ、無理もないね」
「ええ。それじゃ私、お出かけでもしようかな」
その言葉に、クマは不思議そうに反応しました。
「お出かけって、どこへ……あれ」
結局すぐにばれてしまいました。
君はさっきの女の子じゃないか!などと叫ぶなり、おしゃべりクマは部屋中を駆けめぐります。その騒ぎに、いくつかの人形が目を覚ましました。
それからクマは急に何かを思い出して、ぴたりと動きを止めました。
「そうだ。アイはまた飛び出して行っちゃったんだ。あれは見間違いじゃなかったのか」
クマは一人でぶつぶつとなにか言っています。どうやら一大事のようです。エリはそっとクマに問いかけました。
「アイがいないのね?」
「え?ああ、えっと、うん。そうだよ」
今度はクマのほうが、エリに話し掛けられて戸惑っているようでした。クマは引き戸に手を向けてもごもごと続けました。
「あの向こうだよ。君も見ただろ?」
「エリよ」
クマの高さまで腰をかがめて、自分の名前を教えました。
「ああ、エリ。エリも見ただろ?あそこに出ていったら大変なんだ。今度こそ戻ってこないかもしれないんだ」
クマは言いながら、絨毯の上を行ったり来たりして落ち着かない様子です。腕を組んで頭をこつこつしながら悩む姿は、まるでくまのプーさんでした。
「それで、誰もアイを追いかけないのね」
「僕らはこの部屋から出られないんだよ。出ればその途端に、ただのぬいぐるみになっちゃうからね」
エリは困りました。これでアイを助けられるのは、自分しかいないということになってしまったのです。もちろん助けたいし、会ってお話をしたい気持ちは山々だけど、暗闇はあまりにもおぞましく渦巻いていました。恐ろしいものの気配が部屋に漏れ出しています。
「エリ。行ってくれるかい」
クマが哀願します。もう後には引けませんでした。
「ええ。きっと連れて戻るから、待っててね」
深呼吸をして、暗闇に足を踏み出しました。不気味な音が耳に流れてきます。それは人のうめき声のようでもあり、金属の軋む音のようでもありました。
「アイ。どこにいるの」
立ち止まって叫ぼうとしても、不安で声がこもってしまい、暗闇に溶けて消えてしまいます。
同じ所に留まっていたら、気がおかしくなりそうです。エリは自然と早足になっていました。後ろを振り向けば、遥か遠くに、桃色の壁を背景にしてクマのシルエットが立ちすくんでいました。
ああ。心の中でエリは嘆きます。
今すぐあの部屋に飛び込んでいって、戸をぴたりと閉め、ふかふかのベッドに潜ることが出来たらどんなに良いことでしょう。
前に向き直ると、先の見えない闇はどこまでも続いて、全てが怪しく歪んでいます。どろどろしたうねりを見ているとめまいを起こしかねません。
それでも、とエリは目を固く閉じて首を振り、震える足を動かし続けました。
遠くのほうに、人影が見えました。闇の中で、その人影だけは白くはっきりと見えます。
「アイ。あなたなの」
エリは小走りで近づいていきましたが、それは全くの見当違いでした。途中でエリに気づき振り向いたその人には、顔が無かったのです。エリは短い叫び声をあげると、走って逃げ出しました。逃げながら、懸命に自分の気持ちを落ち着かせようとします。
夢よ。どうせこれは夢。あまりにも生々しくて現実じみているけど、だけど、ただの夢。夢なら覚めないことはないわ。何か恐ろしいことがあればすぐに目が覚めて、私は病院のベッドの上で汗をかきながら、またいつもみたいに息を切らしてる。そうに決まってる。
「違うね。君は永遠にここから出られないのさ」
感情のない不気味な声が後ろから響いてきました。見ると、いつかの無機質なペンギンの絵がそこに浮かんでいます。
「永遠にね」
黒くただれたペンギンは、あっという間にエリのすぐ目の前まで迫ってきました。
悲鳴をあげて逃げ出した先には、大きなキリンの絵が立ちふさがります。キリンはねじれた首をさらにぐねぐねさせながら、エリの顔をまじまじとのぞき込みました。
「可哀想に。これでまたひとりだ。君はどこにいっても孤独だな」
「ああ、本当に可哀想だ」
言いながら、人間のような目をしたゾウが口を大きく裂いて笑います。エリは完全に動物のお化けに囲まれてしまいました。どうすることも出来ないエリは、両手で耳をふざぎ、泣きながらその場にしゃがみ込みました。こんなときにまで、息苦しさが襲ってきました。
「安心してくれ。僕らで良ければいつでもそばにいるから」
直接耳もとにささやかれたような声に、全身が震えました。
「やだ!嫌!消えて!」
叫んでから、心の中でも唱え続けました。消えて。消えて。消えて。お願い。
それからどれほど時間が経ったでしょう。お化けの気配は無くなり、暗闇のうねる音だけが周りに響いています。願いが効いたのでしょうか。しかしエリは、あまりの怯えに顔を上げることが出来ないでいました。
下を向いたまま頭を抱えていると、闇の上に、純白のなにかが静かに現れました。それは靴下をはいた小ぶりの足でした。
見上げると、白のワンピースを着た人形のような女の子が、エリを見降ろしながらやさしく微笑んでいます。
「私を探してくれたのね、エリ。ありがとう」
アイは弱々しくもやわらかい声で言い、白い手を差し出しました。
その幼げな瞳には一瞬、深い哀しみの色が浮かんで見えました。
エリはきっと気のせいだと思いつつ、手を取りました。