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Beside  作者: 玄侍
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2. 被虐の暗闇

 アイは暗闇のなかにいました。暗闇のなかでは、どこを向いても真っ暗です。まぶたを閉じても開いても真っ暗です。

 どこまで歩いても、走っても、叫んでも、うずくまっても、暗闇は暗闇でした。アイがさまよっているのは、本当の暗闇なのです。

 本当の暗闇は、地球上のどこを探しても見つかりません。人間が知っている限りでは、宇宙にだって存在しません。

 闇の色は、どこまでも続く黒です。でも本当の暗闇の色は、黒ではありません。紺でも紫でもありません。

 それはたくさんの色という色が混じり合って、せめぎあって、重なり合って出来た、世にも禍々しく恐ろしい空間なのです。

 だから人間が暗闇のなかに入ると、色々なものが見えてきます。そしてそれは大抵、見たくないものであることが多いのです。


 しばらくしゃがみ込んでうずくまった後、アイは顔を上げました。

 すると、前方に白っぽい人影が見えました。それがどのくらい離れたところにいるのかは、アイには判りませんでした。

 人影はアイを手招きで呼んでいます。アイは立ち上がり、恐る恐る近づいていきました。その間、二つのことに気がつきました。

 一つは、その人は中学校の制服を着ているということです。それも、アイと同じ学校のものでした。髪は二つに結われており、女の子のようです。

 そしてもう一つ。その人には顔が無かったのです。目も口も鼻もあるべきところに無く、マネキン人形のようにまっさらでした。

 不気味としか言いようのないその彼女は、アイを自分の目の前まで呼び寄せると、口が無いのにも関わらず話し掛けてきました。

 「どこから来たの?」

 アイはあまりに奇妙なその姿に呆気にとられて、すぐに返事をすることが出来ませんでした。

 「え……どこからって」

 どうしても戸惑いがちになってしまい、言葉がすぐに出ません。

 するとマネキン人形のような彼女は、突然、思いがけないことをしました。

 アイの足を蹴って思い切り転ばせたのです。

 「痛い」

 マネキン女は転んだアイを追い込むように、ためらいなく踏みつけてきます。

 「はやく答えなさいよ」

 言いながら、さらにアイを踏みつけます。

 「やめて、痛いよ」

 マネキン女は聞く耳を持ちません。いつまでもアイをいじめて、ときどき楽しそうに笑います。

 マネキン女は一人だけではありませんでした。いつの間にか後ろから仲間が現れ、寄ってたかってひどいことを言いながら、アイに足をふり降ろしました。

 アイはついに泣き出しました。それでもマネキン女たちは止めようとせず、執拗にアイを痛めつけます。

 それからしばらくして飽きたのか、マネキン女たちは暗闇に混じりながら姿を消していきました。

 暗闇には、ボロボロになったアイの泣き声だけが響いていました。


 しばらく子犬のように弱々しく泣いていたアイは、何かの気配に怯えながら、逃げるように暗闇から帰ってきていました。

 「やっぱりね。こうなると思ったよ」

 テディベアの一匹が、やれやれという風に言いました。

 「最初からやめとけば良かったんだ」

 このよく喋るクマは、アイの持っている人形やぬいぐるみのなかでも一番のお気に入りです。アイはクマの手を持つと、そのままベッドのなかに入り込みました。そして布団に深くもぐりました。

 「もう寝るね。おやすみ」

 クマは呆れた様子です。

 「まったく、寝てばっかりだね」

 アイが、周りを気にするような小さな声で応えます。

 「他に何もないもの。それにもしかしたら、またあの子がここに来てくれるかもしれない。でしょ?」

 「寝ている間に?」

 「そう。今度は驚かしたりしちゃだめよ」

 「そんなつもりは僕らにもなかったよ。なあ」

 ベッドの上から呼びかけられた人形達は、うんうんとうなずくような動作をしています。

 「アイの方こそ、本当はいたずら好きなくせに」

 「それはずっと前のことよ。今はもう違う」

 アイは、自分の部屋に現れた女の子のことをとても気にしていました。年も同じくらいに見えるし、アイにはその子が、とても優しい子に見えました。

 それに、内側も自分と似ていると思ったのです。それはもちろんただの直感ですが、今までに出会ったどの人よりも、はっきりとそんな気がしたのです。

 アイはまたあの女の子に会って、謝りたいと思っていました。あんなに怯えさせてしまって、悪い気持ちでいっぱいになっていました。

 アイは、女の子があの暗闇の中に消えてしまったんだと思いました。だから意を決して引き戸を開け、暗闇へと踏み込んだのですが、結果は散々です。

 結局女の子は見つけられなかったし、見たくないものばかり見てきてしまい、また少し心の裂け目を大きくして部屋に戻ってきたのです。

 

 「はあ……本当に怖かった」

 アイはまだ震えが治まっていませんでした。目から怯えの色が引きません。

 「いったい何があったんだ?」

 クマが躊躇無く問いかけます。

 「踏まれたのよ。ずっと、ずっと、ずっと、泣いてもやめてくれなかった」

 「それはひどいな。誰がやったんだ?」

 「わからない。顔も真っ白だし。それに一人だけじゃなくて、たくさんいるの。全員制服を着てた。だけど、そんなのはどうでもいいわ。あんなことをするのは、どうせ皆同じなのよ。はじめから区別なんて無いの。誰一人」

 「へえ……」

 クマは、その話にはあまり共感が無さげでした。おなかの前で手を組み、目を閉じています。それからしばらく経たないうちに、アイよりも先に寝息を立てていました。

 アイは短くて上品なため息をつきました。

 「せめて、素敵な夢が見られたら良いのに」

 ここでは、眠っても夢が見られません。アイはそれをわかっていながら、ここに引きこもることを選んだのです。

 選んだという言い方では、あるいは間違いかも知れません。

 アイはここから変化することをとても恐れています。だから、どうしようも出来ずにここにいるのです。

 「おやすみ」

 皆が寝静まったなかで、アイは一人つぶやきました。

 暗闇のうねる音が、部屋のなかにまで聞こえていました。


  *


 暗闇には音があります。闇に音なんてあるはずがない、と、多くの人はそう思うかも知れません。だけど本当の闇のなかは、決して無音ではありません。闇では、その動き続ける色と同じように、この世のさまざまな音という音が複雑に絡み合って、一つの巨大なうねりとなって、獣の唸り声のようにそこに響き渡っています。地鳴りのような重々しい響きに聞こえるときもあれば、耳鳴りのように不快な高い音であったりもします。そして、そこにさまよう人が心にわずかな隙間を作ったとき、その人にとっては聞きたくない音や、その心につけ込み、欺くような誰かの声が闇のなかに形づくられ、その耳へと勝手に流れ込むのです。


 アイは、なかなか寝付けずにいました。先ほど見た幻影の恐ろしさが頭から離れなかったのです。ここでは夢は見ないとわかっているのに、眠ったらまた悪夢として出てきそうな気がして仕方ありませんでした。

 アイは、ただ、こうして眠れないでいる自分に寄り添ってくれる人を求めていました。クマとは違って、もっと自分より大きくて、全てを包み込んでくれるような人です。

 「お母さん」

 アイは思わずつぶやきました。今のアイを支える力を持っている人と言えば、他には思いつきませんでした。

 「お母さんは、どこにいるの?」

 「ここよ。アイ」

 優しい返事がありました。

 信じられません。お母さんからの返事が、たった今、はっきりと聞こえたのです!アイはその途端、錯乱に陥りました。

 「お母さん!どこなの?どこにいるの」

 アイは叫びながらベッドから飛び起きます。

 「なんだなんだ?」

 あまりの騒ぎにクマが目覚めましたが、今はそれどころではありません。アイはなおも叫びながら、体ごと部屋中をぐるぐる見廻します。それでも、お母さんの姿は一向に見当たりません。

 「ここよ」

 声が聞こえたのは、上からでした。見ると、天井の紫色の模様がお母さんの顔に変わっています。アイが呆然とそれを見ていると、その顔は天井の表面を、水面に浮かぶ蓮の葉のようにするすると滑って、引き戸のほうまで行って、暗闇のなかへ消えていってしまいました。

 「待って!お母さん」

 アイは錯乱状態のまま暗闇のなかへ駆け出していきました。

 「あっ、待って」

 クマの静止はもはや、なんの価値も持っていませんでした。


 「お母さん!どこ」

 アイは暗闇のなかをひた走ります。先ほどの恐怖などすっかり飛んでしまったかのように、右往左往と暗闇を駆け回りました。

 途中、幾人かの後ろ姿を見かけました。しかしながら、近寄って声をかけてみると、そのどれもがお母さんのような格好をしたあののっぺらぼうでした。のっぺらぼうはアイをもの珍しそうに見下ろすと、闇に紛れてすうっと消えていきます。

 アイは諦めませんでした。きっとどこかにいるはず。私が怯えているのを知って、私を慰めるために、こんなところにまで姿を現してくれた。

 もしもこの機会を逃したら、もう二度とお母さんに会えないかもしれない。アイは漠然とそう思って、気持ちを焦らせ続けました。

 そしてアイは、今までに一度も足を踏み入れていない場所にたどり着いたのです。

 そこは、たくさんの枯れ木が密集した、闇のなかの森でした。真っ暗な森の木の間をアイは走り抜けます。

 森のなかの闇色の地面は、落ち葉でいっぱいになっていました。

 木々を駆け抜けると、目の前にひらけた道が現れました。道にそって行くと、さらに広くひらけた場所に、白く人影が浮かんでいます。

 アイは、今度こそお母さんだと直感しました。

 「お母さん!お母さんなの?」

 「そうよ。アイ」

 その神様のような柔らかい声を耳にするなり、アイは再び走り出し、少しずつお母さんに近づいていきます。

 だけど、近づくにつれて、アイは違和感を覚え始めていました。お母さんは、そこに立っていると言うより、「浮かんで」いるのです。枯れ木を背にして、お母さんは地面よりもやや高い所にいます。

 そしてその意味を察したとき、アイは言葉を失いました。

 枯れ木の枝から垂れた麻のロープが、お母さんの首もとに輪になって掛けられていました。首は長く伸びきって、青白い顔に血管が浮かんでいます。

 アイは魚のようにぱっくりと眼を見開いたまま、数秒の間立ち尽くしてそれを見ていました。そしてお尻からその場に崩れ落ちて、両の手のひらで自分の顔を覆い、嗚咽を洩らして泣き出しました。背中を丸めて下を向くと、指のすき間からボタボタと雫がしたたり落ちました。

 「なんで。なんで」

 鼻のつまった、今にも吐き出しそうな声で繰り返します。

 やっと本当の安心が得られると思っていたのに。

 やっと再会出来ると思っていたのに。

 今のアイにとって、それはあまりにも残酷で、非情で、どこまでも絶望的なものでした。

 首を吊ったまま、お母さんはアイを見下ろして優しく話し掛けます。

 「泣かないで、アイ。お願いよ」

 それだけ言い残すと、お母さんの身体は足の先からみるみるうちに茶色い枯れ葉へと変わり、ばらばら、ひらひらと地面に落ちました。

 泣きながら、アイは枯れ葉を腕いっぱいに抱き寄せました。そして静かに言いました。

 「ごめんね。お母さん」

 アイは幽霊のようにふらふらと歩いて、森の道を抜けていきました。

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