1. 独りの病室
ある曇りの日の、少し遅めの朝。朝食のバターロール二つとスクランブルエッグを食べ終えたエリは、ベッドに入ったまま、すぐ近くの窓のほうをぼうっと眺めていました。
窓は乳緑色の木枠に縁取られています。葉っぱやつるの模様が描かれた木枠は、殺風景な白い部屋に数少ない彩りを与えていました。
傍らの壁に付けられた小さな棚に目を向けると、そこにはクラスの皆からの寄せ書きが置かれています。入院の初日に、担任の先生が一人で来て置いていってくれた物です。
「はやく元気になってね」
「おだいじに」
「また遊ぼうね」……
エリは光の宿らない眼差しでそれを見ていました。
皆、心にも無いことばかり。本当に私を心配している子なんて、きっと一人もいないに違いないわ。
また遊ぼうだなんて。一緒に遊んだことなんか一度も無いのに。こんなのは、先生から無理やり作らされたものに決まってる。
エリはうんざりしていました。その寄せ書きは病気の自分を励ましてくれるような代物ではなく、むしろ疎外感を一層煽る当て付けのように見えました。
皆の文字が仲良く輪を囲んでいる。女の子はいかにも女の子らしい文字、男の子はいかにも男の子らしい文字で、皆そろって同じことばかり。入院なんて言ってもどうせ十日程度なんだから、こんなもの始めから要らないのに。
しばらく恨ましい目で寄せ書きを見つめていたエリですが、それからふとどうでも良くなって、家からお母さんに持ってきてもらった本を手に取り、開きました。
秋の中頃、ひどい喘息の発作を起こして入院したばかりのエリは、安静を心がけるようにと先生から言いつけられています。だから特に調子が悪くなくても、そうしてベッドに横になったまま町の様子を眺めたり、本を読むことにしていました。
道路を挟んだ向かいには、夜までやさしい光を灯しているパン屋さん、赤いテント屋根のついた古い喫茶店、すべり台とベンチしかない小さな公園があります。
真正面にはピンク色のペンキで塗られたアパートが、ちょうどこの三階の病室くらいの高さで建っています。しかし灰色に淀んだ空の下では、そのピンクの外壁はひどく病的に見えました。
エリはそれを見ながら、引越しをして今の中学校に入る前、つまり小学生の頃まで住んでいた町の、古いおもちゃ屋さんの壁を連想していました。エリは一度病院からの帰り道で、車の窓からそのおもちゃ屋さんの建物を見ました。薄汚れた白い壁に、黒くただれたペンギンや、首のねじれたキリンや、人間のような目で笑うゾウの絵が描かれていました。エリはそれを見るなり、怯えてシートに丸くうずくまりました。その無機質で悪趣味な動物達の絵は、幼いエリの目には悪夢のように映りました。今でもそれを思い出すと、そわそわと落ち着かなくなるときがあるほどです。
ピンクのアパートの真下にはコンクリートの囲いがあり、ゴミ捨て場になっていました。三匹のカラスが山積みの黒い袋を破って、中身のゴミをついばんでいます。エリから見てちょうど真向かいに位置する部屋の窓柵には、枯れて干からびた花のささった植木鉢がそのまま残されていました。
エリはもともと大人しい性格ですが、引越しの後は輪をかけて話が苦手になりました。もちろんこの病院でも、ほとんど誰とも話そうとはしません。つい二日前まで、エリの隣のベッドには若い男の人が入院していました。栗色の髪をしたその男の人は、いつも携帯電話を見ながら少し笑ったり、なにかぶつぶつと言ったりしていました。
それでもごくたまに、暇そうにしているとき、エリに話し掛けてくることもありました。
「嬢ちゃん、なんで入院してるの?」
と聞かれたときは、私はいつもこんなに苦しそうに咳をしているのに、どうして分からないんだろう、と相手を無神経に思いました。
そしてエリが大好きな本を読んでいるとき、
「それ、面白いの?」
と、いかにもつまらなさそうな顔をして聞かれたときには、何も言い返さずに黙って本を読み続けました。その本は面白いけれど、これを心から好きになれるのは、世界で自分だけしかいないだろうと思っていたからです。
エリに無視されてしまった男の人は、さらにつまらなさそうな顔をしたまま携帯電話を取り出して、画面を見つめながらまたぶつぶつと何かを言っていました。エリは気を散らすことすらありませんでした。
その二日後、男の人が退院したかと思えば、今まで空いていた向かいのベッドに、エリと同い年くらいの男の子が入ってきました。男の子は右腕を骨折していて、包帯を肩から掛けていました。男の子はエリに似て、大人しそうな子でした。音を出さずにゲームをやったり、漫画を読んだりしていて、エリのほうを気にしようともしませんでした。
エリはその同室者を気に入っていました。少なくとも、どうでも良いことを話し掛けたり、夜遅くまでぶつぶつ喋るような人ではなかったからです。もしも私が、誰か男の子と仲良くするのなら、きっとああいう子だろうな、と、エリは密かに思いました。
だから、もしあの男の子がこっちを向いてきたら、私からそっと微笑み返そう。とエリは決めていました。そうしたらきっとあの子も同じようにしてくれるだろうと考えていました。
男の子が入ってきてから三日目。つまり今日の、お昼過ぎです。エリが大好きな本の八回目を読み終えて、男の子がゲームオーバーに苦い表情を浮かべながら顔を上げたとき、偶然、二人の目が合いました。
エリはすかさずにこりと微笑みました。しかし、男の子はそれに気付いたのかどうかも定かではなく、エリをあっさりと無視して、再びゲーム画面に目を落としてしまいました。
エリはがっかりしました。
きっと、私の笑顔が下手くそだったんだわ。
そう思いながら悲しい顔で外を見ていると、電線の上に一羽のハトが留まっているのを見つけました。こちらを向いてきたのでわずかな笑顔を作って送ってみると、ハトは首を傾げるような仕草をした後、すぐにどこかへと飛んでいってしまいました。
エリはもう何もかもが嫌になって、大きなため息を吐き、頭まで布団に潜り込みました。そしてそのまま、深く深く、眠りに落ちてしまいました。
*
エリは赤い絨毯の上で仰向けになって、知らない部屋の知らない天井を見ていました。天井の模様は、まるでヨーグルトの中に浮かべられた、紫色のミカンの粒のようでした。窓は深い緑色のカーテンで締め切られていて、部屋はとても薄暗いです。壁は苺ミルクのような桃色でした。部屋の隅には、所狭しとぬいぐるみや人形が置かれていました。色々な格好のテディベア、女の子や男の子のつぎはぎ人形、くるみ割り人形やまるで生きているかのようなたくさんのドール。
寝ているエリの足側には、木製のベッドが置かれています。花柄の可愛らしい布団がベッドからはみ出すように掛けられていました。
エリはベッドに目を凝らしました。よく見ると、分厚く掛けられた布団が、寝息を立てる早さでゆっくりと上下しています。
そのとき初めて、この部屋に、もう一人誰かがいたことにエリは気がつきました。と言うよりも、この子こそがこの部屋の住人なんだと理解しました。
ベッドの「女の子」は、エリがふさぎ込んだときと同じように、深く布団の中に潜り込んでいるようです。その子が女の子だというのは、部屋の様子からそうとしか思えなかったからです。
あの子を起こしてはいけないと思い、エリは出来る限りゆっくりと立ち上がりました。そして忍び足で部屋を渡り、引き戸に手を掛けたときです。思ったよりも大きな音が出てしまいました。
布団の微妙な動きがぴたりと止んだことを、エリは見逃しませんでした。女の子を起こしてしまった。気をつけたのに。
しかし、それよりもさらにエリを混乱させることがその部屋で起こりました。
壁際に寄せられた人形達が、魔法をかけられたように一斉に動き出したのです。
人形達はぎこちなく起き上がり、エリのほうへと歩み寄っていきます。
「君は誰?」
「だあれ?」
人形達は口々に問いかけています。その様は魔法というよりも、不気味な呪いのようにも見えます。
エリは心底驚いて急いで逃げようとしましたが、引き戸を開けると、そこには廊下や隣の大部屋などはありませんでした。
赤とも、紫とも、青とも言えない不思議な色の渦がぐるぐると回って、奥へ奥へと流れ込んで、まっ暗い空間を作っていたのです。入ってしまったら、もう二度と戻って来られないかも知れません。
「ねえ、どこから来たの?」
人形達は着実にエリの足下へにじり寄ってきます。途中で転んだ人形は、寝転がったままゼンマイ仕掛けのように足を動かし続けていました。
「ハハハ。転けちゃった。アハハ」
一体の人形が笑い出しました。すると、他の皆もケタケタと、虫のような奇妙な笑い声を上げました。
人形達はすでに、エリの足にまとわりついています。
「来ないで!嫌!」
エリはついに床にへたり込んで、顔をひざに埋め、泣き出しそうになりました。
「泣かないで」
ベッドのほうから声が聞こえました。見ると、女の子が布団から肩と頭を出して座り、こちらをじっと見つめています。まるでその子も人形のうちの一つであるかのように、日本人離れした愛らしい顔をしていました。女の子は口元に優しい笑みを浮かべて、繰り返しました。
「泣かないで」
*
うなされている自分の声で、エリは目を覚ましました。そしてその後しばらく、ひどい咳に襲われました。ひゅうひゅうとした細い息の合間に、止めようのない咳がこみ上げてきます。向かいの男の子がナースコールを押してくれましたが、看護婦さんが来るよりも前に、咳は治まりました。
「またエリちゃんに発作が出たら、悪いけどお願いね」
看護婦さんに言われた男の子は、漫画に目を向けたままこくりと頷きました。
身体中が汗でびっしょりになっていました。窓から外を見ると、空はもう夕方の赤みに染まっていました。
「誰だったんだろう」
エリはつぶやきました。もちろんあれは夢だから、そんなのは誰でも良いのです。それでもエリは、考えずにはいられませんでした。
あの子は誰だろう。あの部屋はどこだろう。私はどうしてあんな夢を見たんだろう。
いつも見る夢はすぐに忘れてしまうのに、それは本当の記憶のように鮮やかに頭に残っています。
きっとなにか、特別な理由があるに違いないわ。なにか……。
しかし、夢のことを思い返して考える集中は、突然病室に入ってきた子どもたちの騒ぎによってかき消されてしまいました。
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫なら入院なんかしてないでしょ」
「お菓子持ってきたぞ」
三人の男の子と二人の女の子が、向かいの男の子のベッドを取り囲みました。自分の考えに入り込んでいるところを邪魔されたエリは、とても不愉快でした。うるさいな、早く帰れば良いのに。と、そのときはただ、そう思っていただけでした。
だけど、そんなエリの不愉快な心は、もっと複雑な形に姿を変えることになりました。
仲間に囲まれた男の子が、いままでに一度も見せなかったような笑顔を浮かべたのです。エリにはその顔が、太陽のようにまぶしく見えました。ひと欠片のためらいも無い、朗らかで、いきいきとした笑顔でした。
真っ黒い炭のような塊がエリの胸の中で大きく広がっていきました。
どうして私には、あんな幸せを届けてくれる人がいないんだろう。どうして私は、あんなふうに輝くような笑顔が浮かべられないんだろう。
どうして私は、こんなにいつも不愉快なんだろう。不愉快で、不機嫌で、自分のことばかり。おまけに病弱。
エリは思い切り泣きたい気分でした。それでも、ひと雫も涙は流れませんでした。涙は心の中に広がる黒い塊のなかに吸い込まれて、外に流れ出す代わりに、その塊をさらに大きくするだけなのです。
女の子の一人が、エリのほうを見て困り笑いをしながら言いました。
「うるさいかな?ごめんね。もう行くから」
そうして皆で去っていきました。男の子は最後まで、明るい表情で手を振り、仲間たちを見送りました。その後は、嬉しそうに微笑みながら漫画の続きを読んでいました。
エリは棚の寄せ書きをにらみました。それから見えないように寄せ書きを裏返しにしてしまうと、いつもの本を手に取りました。
だけど数ページだけパラパラとめくって、すぐに元に戻してしまいました。もやもやした心でこの本を読んでも、面白くないと思ったのです。
エリはため息をついてベッドに潜り込みました。そして固く目を閉じました。
このまま眠りに落ちてしまいたい。こんな気持ちのまま起きていたくない。こんなつまらない現実を、認識していたくない。
それにもしかしたら、またあの夢の続きを見られるかもしれない。
あんなに怖い思いをしたのに、エリはそんなことを期待していました。夢の中なら、こんな気分になることもないはず。それに何よりも、夢に出てきた女の子のことがとても気になっていたのです。
エリは眠りに落ちるように努力しました。だけど結局、眠ることは出来ませんでした。さっき起きたばかりなので無理もありません。
窓の外を見てみると、向かいのすべり台とベンチしかない小さな公園で、ボールを持った子どもたちが遊び回っていました。
その様子を虚ろな目でしばらく眺めた後……エリは再び、深い深いため息をついてから、ベッドを降りて病室から出て行きました。