五、 どろぼう猫 三
《どろぼう猫》の見習いとして働きはじめ、数日が経ったある日。虎蔵にとって初めての客が訪れた。
鶴屋は客に対しても横柄さを崩さなかった。呆れる反面、頑固な芯を天晴れとも思う。柔和さのない薄い笑みで「いらっしゃいませ」を口にする。胡散臭い世界に転がり込んでしまい、動転している人間を安心させる素振りもなく、歩み寄りもない態度だ。
客は不審そうな表情を消さぬまま、上目遣いにはぁとうなずく。
客の視線が鶴屋に向いているのをいいことに、虎蔵は彼女の手前に置かれている名刺を盗み見る。赤地に黒文字とは、死神が差し出す名刺のようにも思われて滑稽だ。
それにしても、と虎蔵は憤る。(今更《どろぼう猫》の悪趣味を嘆いても仕方がない。)
名刺を検めるに、鶴屋にはたしかに「千歳」という名がある。虎蔵に対しては、なぜ「ない」などとあしらったのか。この男のことだ、新人をからかっただけかもしれないが。彼の一挙手一投足について深く考えることは、無益に時を過ごすことと同義だ。おそらく大した意味がない。
鶴屋は虎蔵の腰を突いて挨拶を急かす。
「ああ――よろしく。見習いの仙石虎蔵です」
虎蔵の言葉にも、イヨイヨ客はウンでもスンでもなかった。
無理もない。
この応接室の異常さときたら。虎蔵も、はじめて入った時は眩暈を起こしかけた。ここに座っているだけで、《どろぼう猫》の名物客である「化物両親」でさえ己がために喚かんとする気勢をそがれることうけあいだ。
客間は真紅。砂壁も、天井も。襖は赤と黒の市松模様。赤は人を落ち着かなくさせる。客の手前我慢してはいるが、虎蔵自身、息苦しくてかなわない。涼しげな横顔を見せている鶴屋が憎らしい。脈が速くなり、汗が吹き出し、首もとのネクタイが蛇のようにまとわりつく感覚がある。当然それらは錯覚なのだが、この錯覚こそが赤のひきおこす仕事である。
まともなのは畳や家具、そして、三つボタンのスーツを着た二人の青年。彼らの見目による(張りぼての)ふつうさをもってしても、胡散臭さは払拭できない。
客には逃げ去るという選択肢もあるが、彼らは決まってさっさと依頼をすませようという思考回路になるらしかった。そうせざるをえないのだ。世間にありふれている清掃業者を利用せずに、白菊横丁も最奥の《どろぼう猫》に駆け込むくらいなので、彼らの依頼内容もなかなかまともでない。鶴屋の説明するところによると、新規の客にかんしては正しい意味での掃除の依頼は少ないそうだ。
疑り深い猫のように目を光らせていた客は、ようやく口をひらいた。その唇はかさかさと乾き、皮がべろりとむけている。この部屋の冷房による乾燥のせいかもしれない。
「……遺品整理は取り扱い事業の範囲ですか、」
「ああ。それが主流だな。値段は応相談」
「あ、いえ。今回の依頼は遺品整理じゃないんです。掃除の際に出た不用品は、買い取ってもらったり、捨ててもらったり出来るのかなと思ったんです」
「当然。ふつうの業者と違って何でも引き取るぜ、……何でも。特別にかかる費用は負担してもらうけどな」
客は安堵の息をつく。
「足をくずしてもいいですか」
「足をくずすのにいちいち許可がいるもんか。あんたの足だ、好きにしろよ」
ここにきて、鶴屋の口調に柔らかさがあらわれた。言葉は突き放しているようであっても。
「……悪いな。ウチには洋間がない」
嘘をつけ、と虎蔵は内心毒づいた。
「平気です。正座は慣れているんですけど、今はすこし緊張してるだけなんです、」
彼女ははにかんでぽりぽりと後頭部をかいた。ひょうきんそうな様子が垣間見える。依頼が可能だと見通しがついて、緊張が和らいできたのだろう。
「ウチの店に連絡できただけでも上等だよ。あんな時代錯誤な広告を信用できたんだからな」
一応、鶴屋もあのチラシの今日性の無さは承知しているらしい。そのくせ、デザインを刷新しようとしないのだから不思議だ。
「なかなか胆のすわったお嬢さんだとお見受けするぜ。……茶と茶菓子でも」
三者の前には、藍が目に鮮やかな染付けの湯のみがある。とくべつ、客には和菓子つきだ。
「では、ご遠慮なく」
許可得たりとまっさきに碗に飛びついたのは虎蔵だった。
自分の高姿勢はさておき、客(や自分)より先に茶にありつく見習いの無作法を鶴屋は許しはしない。
ぱあん、と彼の太ももを打つ。あまりに鋭いので、虎蔵は危うく茶を客に吹きかけるところであった。
「見苦しい奴だな」
虎蔵のふくらはぎをつねったまま、にらみつける。
「気にしないでくれ、ええと……」
名前は、と聞く。
「小島です。小島渚」
「ああ、小島さん。申し訳ないね。こいつは出来が悪いんだ」
「いいですよ。なんか可愛いですし」
顔をしかめるどころか、逆に愉快そうに笑う。彼女の緊張を、意図せずほぐす結果となった。虎蔵は、照れと恥に今更顔を赤くする。彼女は自身の発言によって引き起こされた虎蔵の反応を気にもとめずに、用意された和菓子に目をおとした。
鶴屋はその目線に鋭く気付く。
「あんたくらいの年頃だったら、洋菓子の方が口にあうだろう。ケーキにするか、」
たしかに、依頼人の容貌はどうおまけしても高校生程度と見える。録助と同じほどの。依頼人がこれほど若いとはゆめ思わず、事務員は和菓子の方を用意したのだ。
その少女から遺品整理などという言葉がポンと出るのだから、やはり、白菊横丁を訪れる人間はわからない。さすが熟達の鶴屋は、浅ましい詮索心を見せなかったが。
彼が膝をうかせると、彼女は慌ててひきとめる。すると鶴屋は、善良そうな笑みを見せた。
「ああ。わかってるよ。あんたは和菓子のほうが好きだ」
彼女はぎくりと固まる。
はじめは誰でも驚くだろう。この男に内心を言いあてられるのは。しかし、気のせいだと再びからだの力を緩和させるのだ。
「若あゆ、可愛いから好きです」
可愛い、の大安売りだ。この程の娘なら、二言目には「可愛い」がくる。虎蔵の照れもすうと引く。
「遠慮なくいただきます」
「食ってもらうために買ったんだ」
しかし。彼女は一度和菓子切りを手にしたものの、力無くおろす。
「……やっぱり、その前に、依頼内容を聞いていただけますか」
◇
彼女は切迫した様子で、抱える混乱を鶴屋に伝えた。
――「わたしの学校の『開かずの第二宿直室』を、掃除してください」。
その言葉のあとに続いた荒唐無稽な「怪談話」に失笑した虎蔵の大腿は、厳しい攻撃を再び受けることになる。
彼女の依頼は、様子を見て取りかかるという決着になった。早めにどうにかして欲しいとのことだったが、鶴屋いわく、おいそれと手をつけられないケースだと言う。
「積極的に掃除をする者がいるということは、積極的に汚す者がいるということ」、だそうだ。積極的に汚すつもりでなくとも部屋を混沌と化す虎蔵にしてみれば、鶴屋のこの格言は謎かけでしかない。
くわえて。「開かずの間と掃除」、それらの連関はある程度想像がつくが、怪談という与太話がはさまると意味不明で用心の要る話になる。空蝉の人でないものを見る虎蔵は、予防はしても、彼らの排除が必要な事態に遭遇したことなどない。ゆえに、世にはびこる幽霊話は眉唾ものだとして、信じてはいない。
すぐさま動こうとしない《どろぼう猫》に満足していない小島渚は、しぶしぶ店を去ることになる。
「早めに助けにきてください」
その言葉が、虎蔵の耳に残った。
依頼人の見送りを担当するのは、事務員の武智鉄子。名前にふさわしく、鉄のように硬質な印象をもたらす人間だ。
そこはかとなく心配になる。彼女は戦慄するほどの涼風美人だが、いかんせん笑顔がない。義務並みに笑顔が必要な場面でも微笑まない神経は恐ろしい。器量のよさによって来たるべき幸運の何割かを、その無表情さで損なっているはずだ。かかる別嬪が、このような気味の悪い店にいることの不条理にもいくらか納得できた。あの調子では、世間一般の機関、あるいは水稼業でも生きてはいかれまい。彼女は仕事中でも滅多に口をきかなかった。
他方、もう一人の従業員は饒舌がすぎる。この二人を足して二で割ったらよかろうと鶴屋に提案すると、彼は大真面目で言う。「全長二メートルのミキサーと、鋳型を三つつもってこい。お前も一緒くたになって、仕事の能力を分けてもらえ」と。
「……おい、聞いてンのか」
鶴屋は虎蔵の耳をぐいとひっぱる。
「悪い。聞いてなかった」
悪かったと反省しているかどうかは甚だ疑わしい。
「ああ、知ってる。だから聞け」
床柱に寄りかかって腕を組む彼の姿には不機嫌が漂う。先ほどまで生真面目になでつけられていた黒髪は、今は平時のようにおろされている。この男の変身の早さには舌を巻く。
「今のお嬢さんの話はわかったか」
「全然。ふざけた怪談話だってことくらいだ」
「――だろうな」
深々とため息をついて落胆をあらわにする。
「この際、詳しいところを言っておくべきだな。《どろぼう猫》が掃除するのは、部屋や物というくくりだけじゃない。もちろん、ただの不要物引取人でもない。ときどきは、こうして忌みのもたらす澱を掃除するんだ」
おり? と首をひねる。
「忌みがもたらした汚れ。呪い、怨念とでもいうのか?」
「逆に聞かれても困る。つまり、除霊師ということか」
「除霊師なら除霊師と名乗るだろ。ちなみに、霊媒師でも修験者でも陰陽師とも違う」
と、先回りして虎蔵の質問を封じる。
「『あえて言うなら』とあらわせないから、包括的に『掃除屋』なんだよ。表向きには……つまり、顧客向けには掃除もする」
「私のジジイもそんな真似を?」
ネクタイの鞭が飛ぶ。器用なものだ。
「あんたと竜蔵の旦那を一緒にするな。あの人の孫だというのが怪しいぐらいあんたは木偶だ。ここ数日の、事務仕事での失敗も寒気がするほどだ」
忌々しげに目を細め背広を脱いだ。初夏には贅沢な冷房を止めたせいか、部屋の中は暑くなってきた。精神にせまるような部屋の赤がそれを加速する。
「あんたが不出来なせいで、旦那は『定年退職』の前に『自主退職』したんだろ。おかげで、俺はあんたをおしつけられた。旦那もやってくれたね」
録助は言っていた。仙石家は《どろぼう猫》の務めをもう少しで終えると。その最後の最後になって、選手交代したもので彼は気にくわないのだ。
いずれ店を去る人間に仕事を伝授する手間や時間は、《どろぼう猫》の損にはなっても益にはならない。それでも、《どろぼう猫》は契約の限りは仙石家の者を店に置いておく必要があるらしい。
「私がオーナーなのに、何でこのあつかいなんだ」
「まだ言ってんのか。そんなの表だけに決まってるだろう、間抜け」
しまいにはタイを投げつけてきた。実に、上品な顔に似つかわしくないことをする男である。
「こっちの方の契約までも、あんたが主人だとは一ッ言も言ってないからな」
虎蔵はたじろぐ。
「……なに、こっちの方って、」
上司は不敵な笑みを浮かべ、虎蔵の前へと進む。避ける間も無く前髪をむんずとつかみ、脅すように耳元で囁く。
「ここをそこらの商店街なんかと一緒にするなよ、仙石の若旦那。……白菊横丁の君主が誰か言ってみろ」
虎蔵は、ふむ、と短い鼻息をもらした。「君主」の例えを使うまでもなく、この界隈の事情は単純すぎた。しかし、そこを指摘すれば耳が千切れ、前髪の一部分が禿げあがることをさけられそうにないので、 虎蔵は素直に答える。
「銀次郎だろう、」
満足したように、鶴屋は虎蔵を解放した。質のいい髪は、さらりと額におちてくる。
「さっきの案件は、テツに書類におこさせるから、必ず読めよ。意味がわからないところは、『そういうものだ』と無理にでも飲み込んでおけ」
テツ、とは武智鉄子の愛称だ。トラ、が虎蔵の愛称であるように。
暴君・鶴屋は豪快に襖を開け放ち、悠々と客間を出て行く。
《どろぼう猫》の実質的な頭は鶴屋だ。オーナーであるはずだった虎蔵は、祖父の権威すら継げずに鶴屋の小姓的な地位に甘んじている。いや、出世の気配は毛ほどもないので、小姓ではよく言いすぎだろう。
鶴屋と入れ違いに、漆の盆を持った鉄子が姿をあらわした。茶の用意も片付けも彼女の仕事だ。
「お疲れさま、」
虎蔵は、反射的に学生言葉を発してしまった。
武智鉄子はちらと彼を目にいれた。感情の殺された瞳。煤竹色の髪を、額が見えるように半分に分けている。そこからのぞく白い肌は、録助よりも透明だ。
彼女は無言で、虎蔵のだらしない襟元を正した。