三、 どろぼう猫 一
目の前で揺れる濃紺の暖簾を手でよけ、頭を低くする。
「旦那様、足もと一段高くなっておりますので、よくお確かめください」
背後で注意をうながす童の声がする。ああ、と返事をしながら目線をおとすと、ふわりと暖簾が背中にかかる。敷居を踏まないようにしてこえ、ようやく屋内をおがむことができた。
「お邪魔申す」
後続するはずの童は入場してこない。裏口にでもまわったのだろう。
人の目がないのをいいことに、後ろ手に戸をしめた。というのも、背をむけるのをためらうほどに美しい木目が目前に広がっていたのだ。何年も何年も耐えてきた強さの感じられる框の板。
正確な種は判然としないが、香のわずかな香りがする。あまりにもかすかなので、数秒後には鼻に馴染んで気付かなくなるほど。そのひかえめさが好ましかった。
会席料理でもフランス料理でも、食前酒や先付けの印象がその先にあるものを象徴する。人のある建築物でいうならば、入り口がそれにあたるだろう。これは果実を絞った鮮烈な食前酒をぐいと呑んだ気分、歓迎されているようで心地いい。文目も分かぬ暗夜のなか出向いてやって良かったとの感想を抱いた。
長年踏まれ続けてきたのだろう、たたきにはでこぼことくぼみがあり、その一つ一つが清潔だ。寝転んでも平気かもしれない。――と、妙な関心がわきおこる。
「そこで寝るなよ」
男の声がする。
顔をあげると、自分とそう変わらないほどの若い男がいつの間にか姿を現していた。音もない登場に、虎蔵はいたく驚いた。
彼は柱に寄りかかってこちらを見おろしている。土間は床よりもなかなか低いので、彼の立ち位置は必要以上に高く感じた。それでなくても、平均程度の虎蔵を超えるほどには上背があろう。
「こんばんは、」
反射的に頭をさげた。しかし、その男は微動だにせず、憮然と虎蔵の挨拶をはねかえした。心もとない「こんばんは」がころころと転がり落ち、足元まで戻ってきたような気さえする。
適度に崩した和服が様になるのだが、帯も長着も漆黒であることが喪をほうふつとさせ、眉をひそめたくなる。
それはまだ許容範囲であろう。頬や腕っ節に傷をおい、刺青がシャツの裾からはみでるような容貌でなくてなりよりだ。そういった、恐ろしい分野の人間でなかったので安堵のため息をつく。この男はどちらかというと頭脳派だろう。だからといって油断はできない。近頃の流行としては、デスクワーク専門のような顔をして、裡には強靭な筋肉をひそませるのがオツなのだ。いや、油断していても、べつに殴られはしないからかまわないだろうが。
「早くあがれ、のろま」
「涼しい」を通り越して「冷ややかな」目を細くして、虎蔵を急かす。
どうにも乱雑な口調だ。容姿からして「おあがりください」とは言っても、「あがれ」とは言いそうにないのだが。この男はしつけのなっていない丁稚だろうか?
清潔そうな髪は黒くまっすぐで、片側を耳にかけている。会社勤めの人間のように短くはない。そのせいか、学生だといわれても納得するかもしれない。顕になっている耳朶で、ごく小さい耳飾りがちらと輝く。ラピスラズリのように高尚な青。壁画を思わせる色。
「……今、なんて?」
「早くあがれと言ってるんだよ。靴箱はそこ、」
腕を組んだまま靴箱を顎で示す。
「いや、そうじゃなくて、そのまえ、」
男は空気のように腰を浮かせると、式台におりてきた。裸足だった。
「たたきで寝たいと思ったろう。だから、寝るなと言った」
「どうして、私がそう思ったとわかるんです」
男は面倒くさそうに頭をかいた。自分でも、面倒くさいことを聞いてしまったと反省したところであった。
「そういう話はあとだ。……ついてこい」
顎ばかり使ううえに、命令口調ときた。
「顎を使ってばかりいるとしゃくれると母上に教わらなかったのか」
「聞いたことない。そんな戒め」
唇をとがらせたい思いで土間の縁による。録助の用意した仙石流の礼装なので、足元は雪駄だった。燕尾服は仙石家の辞書……もとい衣装箱にはない。(と聞く。)
虎蔵がこれ見よがしに履物を脱いでも、男は傲岸不遜な態度で見下ろしているだけなので、丁稚ではないらしい。小間使いにしては態度が大きすぎる。自分で履物を下駄箱にしまった。
男は声も掛けずに背を向け、ぺたぺたと歩き始めた。偉そうな顔して、たいそう間抜けな足音だ。
男を追うべくして急くと、体がよろけた。平時から和服なのだが、慣れない礼装用の袴は鬱陶しい。身近の柱を支えにすると、その縁をヤモリがかけるのが見えた。何故か、虎蔵の視界のうちでピタリと一度動きを止めた。黒々とした瞳は、乾燥した鱗の肌に似合わぬほどの潤いを見せる。ささいな不釣合いが、厭な寒気となって身をおそう。
店は凸の字のように玄関だけが狭い。中心には坪庭があり、床面積は思ったよりも広くはなさそうだ。
彼らは縁側を歩く。雨戸がしめてあるうえに電気が点いていないので、ほぼ闇だ。目の前を行く男の背が辺りの黒にとける。頭上の電気はおそらく白熱灯で、透かし文様の入った杉らしき木製の傘だ。明かりがともれば暖かな光がおちるだろう。にもかかわらず、灯さない。玄関を一歩抜ければ歓迎の雰囲気は霧散してしまった。あの空間の好印象との落差に、どうにも胡散臭いものを感じる。
――ここが白菊横丁であるということを、虎蔵はウッカリ失念していたようだ。
不安にかられ、男を追う足をはやめる。
横に並んだところで、男は口をひらいた。
「あんたが、新しい仙石のだな?」
態度が悪いのに加えて、初対面で「あんた」呼ばわりだ。会って数分としないのに明確な上下関係をつきつけられた気分だ。しかも今ごろそれを聞くのか、と呆れる。
「そうだが」
だとするならば、自分が丁寧語を使い続けなければいけない謂れはない。
縁側はつきあたりを左に折れ、先の正面の戸を指して「便所だ」と告げる。そこを素通りすると、奥に階段がある。
「あんたは?」
「いったい誰だ?」を省略して、先に階段を登る男のかかとに問う。
「鶴屋」
暖簾に染め付けられた鶴の紋が思いおこされる。
「ああ、じゃあ、あんたが店長か」
録助は、「店長の鶴屋さま」と言っていた。“階段”で「鶴屋」の名を聞くことの洒落を思いながら、下の名は、と質問を繋げる。
「ない」
「ない?」
階段を登り終えると、きしきしと音を立てる廊下を最奥まで進んだ。運動不足の虎蔵は、たった十数段の階段でもおっくうだった。
「まさか、『南北』とでも名乗ると思ったか?」
突き当たりの襖のまえで、男は真顔でふりむいた。考えていたことを読み取ったかのようなことを言う。
きまりが悪くて黙っていると、「名前が無くて不満か」と聞いてくる。不満かどうかと問われても、他人の名にかんしてどうこう言うつもりもない。鶴屋なら鶴屋でかまわない。勝手に心うちを読む男に反抗の意もこめて、だんまりを継続した。
気にするふうでもない青年は、懐から携帯用の糸くず取りを抜き出し虎蔵の着物をなぞり始めた。繊細な人間かと思いきやずいぶん大雑把なほうらしく、人を廃棄物のように荒々しくあつかう。背中に糸くず取りを走らせるその一撃が、叩いているように痛い。あえて痛くしているのかもしれないが。
「一旦、ここで穢れをおとす。そうしないと、銀次郎がうるさいんでね」
銀次郎。この男の場合、呼び捨てにしているところを見ると銀次郎と立場が対等なのかもしれない。
「ほんとうなら、湧き水を頭からぶちまけてやりたいけどな。そして塩を一袋浴びせかけてやりたいね」
腰をかがめたまま、上目遣いに嫌味らしいことを言う。
「清めの風呂には入ったのだが、まだ汚れてるのか……。見えない汚れなんだろうな」
参道を歩く間に、何かにさわってしまったか。
男は羽織の袖を掴んで鼻をつける。丸みのあたりだ。
「……白檀、」
小さく呟いた。
鶴屋は正面に回り、羽織の紐をなぞって点検する。そういった形式的なところは録助に任せたので、手直しは必要なかった。襟に手を入れぱんとひくと、よし、と満足げに頷いた。
鶴屋と間近で対峙し、気圧されるほどの上等の見目だと気付く。いや、気圧される原因は器量のよさだけではない。タンチョウの朱よりも数段暗い、蘇芳の瞳による。暗がりにあってなお、不気味な赤みを見せている。その赤みも、神経質にならなければ茶色の範囲として通じるかもしれないが。日本人にしては不思議な色の瞳、それを不躾に見る間も与えず彼は虎蔵から離れた。
襖に手をかけたところで、彼はふと振り返った。
「そうだ、携帯電話はもってないな?」
「もってないけど。必要ないだろう?」
もともと祖父や祖母は携帯電話を持たない人間なのでいいが、年頃の虎蔵は携帯電話のないことで不便な思いをした。携帯電話の発する何かを「気配」たちがひどく嫌がるので、仕方ないとは思っているが。
――ああそう。彼はおざなりに返事をするとぷいと顔を戻した。自分から尋ねておいて返事をろくすっぽ聞きもしない。先からうすうす感じていたが、今や確固たる証拠をもって「これは厭な奴だ」と判ずる。
「……厭な奴で結構。あんたはとんまそうだから、仲良くする気はないぜ」
彼は冷めた横顔で静かに口を動かしている。
虎蔵が驚きをかたちにする前に、鶴屋は室内へと話しかける。
「銀次郎、仙石の到着だ。いれるぞ」
猫の声ではなく人間の声で、参れ。と返ってきた。猫は返事をしないのであたりまえなのだが。
鶴屋は乱暴に襖を開け放った。襖の絵柄は、鶴と松だ。