二、 仙石家 後
祖父の意図は単純だった。
社会に出てまともに働くことができない虎蔵に失望し、竜蔵は自分の仕事をゆずってしまったのだ。(すると、竜蔵の仕事は社会的でないということになる。)「そこまでしてやったのだ、きっちりこなせ」という強迫が、言外にある。
竜蔵の本音としては、自分がさっさと引退したかっただけなのだが。息子の若死にによって、仕事からは一旦引退した身から再び戻らざるをえなかった立場を鑑みれば、許されるわがままだろう。
虎蔵は今や家主だ。
虎蔵のからだにあわせて仕立てられた家紋入りの着物が届くこと、「旦那さま」と呼ばれることなどによってじわじわとその実感を得る。はじめの数日間は「有卦に入った」と鼻歌まじりだったが、それは夢想どおりの甘いことではないと知る。むしろ無卦なのかもしれない。だんだんと、正体不明であった祖父のすがたもつかめてきた。
すべてを伝えるのは高校生の録助だった。弁護士という肩書きで紹介されたが、ようは虎蔵の身のまわりのことをなんでもこなす「付き人」に相違なかった。さすがに「どうせなら娘がよかった」との文句は言えなかった。
「仙石家の務めは、あと数年で終わるのです」
録助は、仕事を「務め」と言った。それは仕事でなく義務だそうだ。
「ほんとうなら、竜蔵さまがすべておしまいにされて、虎蔵さまは何も知らずに、ふつうの生活ができたのですが、」
虎蔵は、ふつうの生活、換言すれば「何もない生活」を求めていた。録助の言うようなふつうとは、「社会に出て働くこと」だ。若干の意識の違いには言及せずにおいた。
「世の人々の労働に比べたら、貴方の務めはさぞかし楽でしょう」
嫌味ではない。事実だ。
「竜蔵さまは、白菊横丁の土地を有する地主でいらっしゃいました。あの辺は、代々仙石家の所有地なのです」
「なんだって!? あのキ○ガイじみた飲み屋街が、」
録助は生真面目な顔で、差別用語を発した虎蔵の口をふさいだ。子どもを宥めるときのように人差し指をふると、険しい瞳を見せる。
「滅多なことをおっしゃらないでくださいませ。旦那さまは、あすこでお勤めをなさるのですから」
虎蔵は動揺した。
「どうして……、私は土地の所有者ってだけだろう」
録助が首を横にふると、艶々とした白茶の髪も一緒になってふれる。彼は見事な明るい髪をもつ。
「竜蔵さまはなぁんにも、虎蔵さまにはお話にならなかったのですね。……いえ、いえ、承知しております。虎蔵さまは知らずに生きるはずだったのですから、」
彼は白の上着のポケットを探る。《谷相高校》の、厭にモダンな制服だ。山間にありながら海のような色合いの制服は、強烈すぎて息がつまる。
ポケットの捜索の結果、でてきたのはチューインガムのくずだけだ。彼は「あれ、どこへやったかな、」と独りつぶやいて、表のポケットや紺のスラックスのポケットに手をいれる。
紺と群青でできた縞のタイが蛇の舌のようにたれさがる。畳を舐めているようだ。二色の間に細く走る白が妙に毒々しいせいか。
彼が何かを探すのに夢中なので、虎蔵は録助をまじまじと観察する機会を得た。録助は素直そうでいて、油断ならない不思議さがあった。しかし、笑顔は純真そうだし、真面目そうな声や姿勢は教師からも受けがいいだろう。不良めいた同級生にも「ちょっと意地悪してやろう」という気をおこさせないだろう。そのくせ、平気であくどいこともやってのけそうでもあった。使命にまっすぐなあまり、性格の整合性にはあまり気を払わないのかもしれない。「気配」らしいといえば、らしい。人間ならば、自分の性格の芯を維持するために大なり小なりの努力をするものだ。
――と、そこまで勘ぐって「いやいや、深読みしすぎだ」と打ち消した。
「ありました」
彼はにこりと微笑んで、四つ折りにされた紙片を差しだした。羊皮紙のようにざらざらとした地で、開くとまさに広告とわかる。店の宣伝のようだ。
《お掃除はどろぼう猫マデ》
紙の頭に、大々的にそうある。はらいをダリの髭のように、止めを団子のようにしたポップな字体。昨今見ない古臭さがある。歌川国芳の描くような猫がホウキとハタキを持っている図が中央に配置され、そのななめ下で主婦と思しき女性の驚き顔が、あおりの角度で描かれている。女性に関しては、デフォルメがなく、写実的だ。末尾には、《タダシ、遺体処理は請け負いません》と悪趣味な冗談がすえられている。
大正・昭和の映画雑誌を思い起こさせるような色使いとデザインだ。レトロ風だと言ってやれば確かにデザインかもしれない。しかしこれは、ウン十年を風化せずに通過してここにあるかのような貫禄を見せている。紙は厚くてしっかりしているし、表面をなぞると、ざらつきやでこぼこがある。彩色も、印刷用インキかどうか疑わしいほどの濃さで、手書きのようにように質感がある。製法からして今とは違うのかもしれない。
「……これは、一体なんだ?」
はいと小気味よく返事をするや、膝をすすめて広告を見おろす。
「これが、仙石家の当主が代々務めをなさるお店です。もちろん、旦那さま……虎蔵さまもです」
掃除は、虎蔵のもっとも苦手とする分野のものごとだった。働いていた時分、彼の整理整頓のできなさは万人の注目をひき、先輩をして「机上のスラム街だ」と言わしめたほどでもある。からかわれるだけならまだよいが、自身が構築した迷宮に文書を迷わせた日には、笑いごとではない。片付けのできないことは、直接、仕事の出来不出来にかかわってくる。失敗の思い出がよみがえり、気分は重い。
「早速ですが今宵、『どろぼう猫』で顔合わせがございます。店長の鶴屋さまがお待ちです」
虎蔵の苦悩を知らぬ録助は、淡々とつげる。
「夜道は心細いでしょう、旦那さまにお付きしたいと存じますが……、僕は銀次郎さまに嫌われておりますゆえ、横丁に踏み入ることは出来ません」
ぺしょりと頭をたれる。
「ええ、誰だって?」
「銀次郎、白菊横丁の猫の親玉です」
ぶっきらぼうに短く説明した録助に、ほんのわずかばかりだが、嫌悪感が走ったのを虎蔵は見逃さなかった。
「銀次郎とは、お前の仇なのか」
はじめに聞くことではないのだが、そう思えたので口にしてしまった。禄助は恥じ入るように言葉をにごらせる。
「……まずは、銀次郎さまにご挨拶なさらないことには、横丁で働けません。……と言いましても、銀次郎さまは《どろぼう猫》の飼い猫でいらっしゃいますから、とくべつ別所に出向せねばならない、ということはございません」
質問の回答は得られなかった。今は時機でないのだろう。
ところで今の話は、猫の親玉と店長への挨拶のために《どろぼう猫》へ行け、ということらしい。ものを喋らない猫に挨拶など馬鹿げているが、頭をさげればいいだけならどうということもない。それよりも、店の所有者が何故わざわざ従業員の元へ顔を見せに行かねばならないのか、さっぱりだった。逆に、彼らの方こそが屋敷に訪れてしかるべきではないか、と。
虎蔵のぶすぶすとした混乱のうちに、録助はつとたちあがった。
「ご夕食は、召し上がってから行かれますか?」
気付けば夕闇が迫っていた。堅牢な塀のむこう、海のように広がる紫苑色。毒々しい紫の雲がたなびき、むしろ朝方にも見えた。梅雨がまもなくやってくることを、湿った風が教えている。
「……いらない」
虎蔵は、空を見上げたまま、うつつとは思えぬ声でことわった。
「承知しました」
「あともう一つ、」
録助はちょいと首をかしげた。
「『旦那さま』ってのは、厭だな。名前で呼んでくれ」
かしこまりました、と「かしこまった」返事が返ってくる。
「銀次郎さまの手前、穢れを落とさねばなりませんのでお湯をお浴びくださいませ」
録助は一礼をすると、ほこりもたてないほどの軽やかさで座敷を去る。
――掃除。
その言葉を耳にするにつけ、虎蔵のこころにはひどく重い塊がどすんと陣取る。
片付けられていない自室のことである。法律事務所に首を切られてからというもの、一度も足を踏み入れていない。足の踏み場もないのだから「襖を一度も開けていない」と言うのが正しい。自室以外ならどんなに散らかそうとも、録助が翌日の朝にはきれいに片付けているのだが。
何かが片付いていない、というのは、こころに澱を抱くこととひとしい。自室に帰れないでいることは、自分の屋敷の中に居ながら漂流している気分になるのだ。
そうした何かが滞っていながら、すうすうと穴もあいている。
ずっとずっと、生来彼が見ぬふりを続けている穴が。
こうして、物語はもとの時間軸に進む。
仙石虎蔵が、《どろぼう猫》の暖簾をくぐる瞬間へと。