一、 仙石家 前
仙石虎蔵の両親は若くして亡くなった。それは物心つく前の出来事で、彼はあたりまえのように両親のいない世界にいた。自分は祖母から生まれてきたのだと信じていたほどだ。淋しいかと聞かれることはなかったが、もし問われればどう答えただろうか。彼にもわからない。
彼は祖父母に育てられた。
実質的な養育係は祖母である仙石素で、祖父の竜蔵はほとんど彼の成長にかかわっていない。というのも、竜蔵は仕事でやむをえず家をあけていたので、虎蔵と素のふたり暮らしに近かった。素は孫に優しく、それ以上に甘かった。甘さゆえに、彼の欠点も可愛らしさとして勘定してしまうのである。乳母日傘で育てられたこととの因果関係は調べようもないが、虎蔵は頭良くもなったし、馬鹿にもなった。彼の場合、社会に出て学問が必要でなくなると「馬鹿」の要素だけが残ってしまった。
彼らが住んでいたのは、ふたり暮らしには少々淋しすぎる広い屋敷だった。ぴかぴかと鼈甲飴のように光る廊下に、香ばしい香りのする薄緑の畳。縁側からは綺麗に整備された庭が広がる。どちらかといえばさびれた趣味の祖父は、緑よりかは石や苔を好んだ。幼い頃の虎蔵は、雨が石の隙間に吸い込まれるさまを見ては、「洪水にならないか」と不安になったものだった。
室内の造作にも神経がいきとどいている。いつも気持ちよく開閉する襖の桟は新品のように輝いている。また、骨董蒐集家であった祖父や父親が揃えた古美術たちが部屋に華をそえていた。ところで、そういった骨董たちから気配が発している気がするのだが、無視を心がけている。
凛とした清潔さは祖母が屋敷から消えてもかわらない。仙石の屋敷には家政婦は通ってこないし、虎蔵は掃除をしない。今は祖母に変わって「付き人」が掃除をしている。そんな綺麗な仙石の屋敷だが、虎蔵の部屋の散らかりようだけは地獄絵図の有様だ。契約の関係上、付き人は虎蔵の部屋には入れないらしい。
海外に骨を埋めると宣言している祖父母を思えば、いっそのこと屋敷を売り払ってしまおうかとも思った。独りで住むには、閑散としすぎている。(正しくは独りではなく、付き人がいるが。)
しかし。そのほかにも、相当の照れ屋であるとみえて虎蔵の前にはなかなか姿を現さないが、住みついている「気配」がいる。彼らを思えば、屋敷を手放すことはためらわれた。このような調子では買い手はつかないだろうし、なにより彼らの行く末が案じられた。家屋が取り壊されることはあってはならない。行き場をなくした彼らに恨まれるのは自分だとわかっている。
祖父の竜蔵は「気前がいい物好き」と世間では噂された。遠方から古物商を呼びよせ、珍妙奇天烈なものを集めているせいだ。それは表の顔で、虎蔵に対するときには常に険しい表情のうえ、厳格さを失わない。仕立てのよい和服を身につけて髪にも髭にも一切の乱れがない、威風堂々とした老人だった。そのようなわけで、虎蔵は祖父を恐れてすらいた。
仕事の忙しさに見合って、竜蔵は有力な名士だった。あらゆる方面に根を生やし、多くの物事を思い通りに運んだ。人並みの能力も持たない虎蔵がなんとか就職までこぎつけたのも、彼の手回しがあってこそだ。学生の就職において、人柄や技術・学歴・経験云々よりも手蔓が最も強い力を発揮するよい例だ。
しかし、虎蔵の使えなさときたら、目もあてられなかった。竜蔵の故知の息子が経営する法律事務所に就職させてもらったはいいが、彼はことごとく竜蔵と雇用者の期待を裏切った。重要書類の出入力のまちがえは日常茶飯事、使いに出せば忘れ物しては出直すこと幾数回、電話をとらせればメモもしない。コンピューターの扱いに関しては明治・大正生まれの人間なみだ。
髪が伸びる(費用を食う)ので、人形として置いておくわけにもいかない。彼が事務所に存在し続け、問題が起こり続ければ、事務所経営の肝心要ともいえる信用にかかわる。「孫を雇ってくれ」と頼みこんだ竜蔵に、今度は雇用者が「お引き取りください」と土下座する番だった。かくあって、ついに虎蔵は職無しの二十二歳になってしまった。
竜蔵の落胆も想像に難くない。孫を極楽とんぼにする気はさらさらない彼は、強気の手段にでた。扇をつきつけ、竜蔵は低い声で審判をくだす。
「虎蔵。おまえ、男娼になれ」
白菊横丁の娼家で働けと命じた。幸いにも彼の孫は会話を苦手とはせず、枕芸者なら与太者でも可能だと見込んでのことだ。竜蔵いわく「愛されるのに得手不得手もないだろう」。唯一、見目の良さだけがとりえの虎蔵が、若いうちに生涯の金を得るにはその手段しか残されていないというのだ。
水商売をなめきった提案だ。無論だが、虎蔵の返事は間髪いれずにきっぱりと「厭です」だ。彼には酷な仕事であろう。声を落として言うが、彼はいまだ初枕を交わしていない。
それよりも、虎蔵は目論んでいた。
仙石家の跡取りは虎蔵しかいない。しきたりに倣うなら、竜蔵が亡くなればおおよその財産は素ではなく虎蔵に流れる。けしからん思想だが、彼は太平楽のまま「棚から牡丹餅」をまちわびていた。財産を食いつぶしながら生きるぞと鼻息を荒くする。齢二十二にしてすでに人生諦めの境地にはいっている。
ただし、妻はもてないだろう。そこそこに財産があろうとも、自分のような不出来な男を旦那として必要とする奇特な女など存在しないのだと身の程はわきまえてはいる。そんな彼に対し、かつて祖母は「割れ鍋に綴じ蓋ですよ」と笑顔で言ったが、はげましなのか嫌味なのか。
◇
牡丹餅は、竜蔵が存命のうちに落ちてきた。
切要な話はいつも、屋敷の最奥で弁護士を控えさせて行われた。
桂離宮も松琴亭を模倣した市松模様の襖、山紫水明をあらわした掛幅が目に飛び込む。しかし、最奥なので採光のための書院はない。かたく暗い部屋なので、虎蔵はその部屋が好きではなかった。おまけに、照明器具は和風ランプだけだ。床に近いところから発する光は、祖父の顔を下から照らしだして、一層の厳格さをあたえている。
その間が好きではないのは、暗さからだけではない。知らぬふりをしていたが、そこにはいつも「気配」があるのだ。彼はだいたい、むこうから干渉してこない気配には我関せずをつらぬいてはいる。
その日は様子が違った。
その気配がない上に、控えている弁護士はいつもの者(彼の以前の勤め先の上司にあたる)ではなく、新顔だった。自分とそう年端も変わらぬ若輩者だ。「ひょっとしたら、自分よりも若いのでは?」そう疑わせるほど彼の肌には穢れがない。スーツに違和感があるのは彼が少年じみているからだろう。祖父に呼びだされている緊張よりも、この優秀そうな若者に注意をひかれていた。
竜蔵が脇息を強く打ったことによって、ようやく視線を祖父に戻す。彼は集中力が散漫でもあった。(その性質が全ての失態の元凶でもあるが、改めるには時が経ち過ぎた。)
竜蔵の合図を契機に口を開いたのは若き弁護士の方だった。
「お初にお目にかかります、虎蔵さま」
彼は虎蔵に向かって頭を下げた。白皙に見合って、真冬の霜柱のようにきりと締まった声だ。
「大河内録助と申します。よろしくお願いいたします」
ずいぶん古風な名前だと感心してまじまじと見る。「虎蔵」という名もたいがいだが。
彼の声と並ぶと、自分のものはひどく芯がないように思えた。大河内録助と名乗った男は苦笑した。
「名づけ親の道楽でしょう」
名に着目されるとは思っていなかったらしく、あたりさわりのない返答をする。
「左様ですか。……さぞかし優秀なのでしょう、そのような若さで弁護士とは」
すると録助は、ちろりと竜蔵を見やるのだ。その微妙な間を奇妙に思う。
「録助は、おまえの先輩だ」
祖父が説明する。なんと、彼は虎蔵よりも年配らしい。さらに、祖父は言いにくそうに咳払いをした。
「ああ、それと……彼は、丘向こうの谷相高校に通っている。切迫した用事があれば、まずはそこへ連絡するように。携帯電話は持たせられない」
携帯電話のことはいい。この家にかかわる限り、その小型の文明の利器は持つべきではない。
それよりも。録助は高校教師でもあるというのか。あの学校は私立校だから副職が可能なのか? 教師でも携帯電話をもってはいけない校則なのか?
「つまり、僕は今、高校生です」
きっぱりと言ってのけた。その言葉は虎蔵を更なる混乱につきおとしたが、そう白状されてみると合点がいく。違和感を抱いたスーツは、よく見ればその高校の制服であったし、彼の幼さにも説明がつく。ただ、虎蔵よりも年を食っているということと、弁護士の資格をもっていることに説明がつかない。
「察しろ、虎蔵。これは、そういう範疇の存在だ」
たったそれだけの言葉でもピンとくるものがあった。録助は形を成した「気配」なのだ。常識が通用するわけがない。
祖父がかたち無きものについてはっきりと口にしたのは初めてだった。自分だけの第六感だと思っていたものは、遺伝だったのかもしれない。
「――録助にお前を任せるのは、わけがある」
それは、わけがなければ困る。
竜蔵はことさら重々しく告げた。
「お前に、『仙石』を譲るからだ」