十七、 雨谷大学 二
少女は慣れた様子でカウンターへ向かって利用章を申請している。調べものでもしにきたのだろうか。それにしても、一人とは妙なものだ。学校の課題ならば、何人かのグループで来るような気もするが。
浦和は、カウンター傍の外国語雑誌コーナーから彼女の様子を観察していた。読めもしないロシア語雑誌を鼻先につきつけ、一方で目は油断なく少女に向けている。
彼女は、受付に一礼すると白い足の向きを変えた。雑誌を片すのもそこそこに、浦和は慌ててあとを追う。彼女が行きついた先は、新聞保管庫だった。
少しでも迷う様子があるのなら、声をかけて案内でもするつもりだった。彼女が消えた先の戸、その案内板を見上げて彼は首をかしげる。「新聞保管庫は入室の際にサインが必要だったな」とおぼろげな記憶を引っ張り出す。彼としては、まったく縁のない部屋だった。
問題なのは、授業開始の時間だ。そのくせ、どうしてこんなも執着しているのか自分でもさっぱりわからない。「執着」といよりかは、流れに吸い込まれるような自然な衝動のほうが近い。
受付の女性は、作業の手を止めぬままにおざなりに案内する。高校生ならいざ知らず、学生ならば勝手を知っているのも道理だ。女性が確認しないのをいいことに、ミミズがのたくったような字で自分でも読み取れない記号を残した。
少女は、地方紙の書架にいた。浦和の影が見えるや、怯えたように肩をすくめた。その瞳は恐怖に揺れていた。浦和は思わず、出かけた言葉を飲みこんでしまった。自分の根拠のない衝動はなんなのか、と冷静にさせられる表情だ。
――しかし、改めて彼女は(浦和にとって)好ましい相貌をしていた。口を開けて見とれてしまうほどだ。
「ここの棚、動かしますか?」
彼女の方から話しかけられて、まごついた。意味をなさないような音を発し、明らかに挙動不審な反応になる。
「少しだけ、待ってください。すぐ済みますから」
そう言われて、ようやく電動書架のことを指しているのだと気がついた。書架と書架の間に人がいれば、動かすことができない。少女は、浦和が順番待ちをしていると思ったらしい。
「いや、いいよ。ただ、何してるのかなーって」
わかってしまえば、彼にはいつもの調子が戻ってきた。浦和のさりげない声色のおかげか、彼女は警戒することもなく素直に聞いている。そんなところも好ましかった。
「めずらしいんだよ。高校生が大学図書館を使ってるなんてさ、しかもこんな時間」
と言いながら見た時計は、授業時間の開始を告げていた。
彼女の表情はこわばった。わけありに決まっているし、そのことについて踏み入られたくないに違いない。そこで、無頓着を装ってあえて言ったのだが、「しくじった」と浦和は内心苦い気持ちになる。明らかに、膜を張ったような彼女の緊張感が伝わってくる。
間もなくして、始業ベルが鳴り響いた。これじゃ自分も不真面目じゃないか、と思いつつも足は動かない。
「ごめんね、じろじろ見ちゃって。気にしないで」
「いえ。その、調べものがあって、」
告げ口されるのを恐れるかのように、彼女は弁明する。
「そう。ほんと俺はそれだけなんだ。じゃ、頑張ってね」
補導員にでもなった気分だ。浦和の気分は素早く授業へと向かった。その背に、少女の声が飛んでくる。あのう、と呼ぶ声は大きく、受付の女性までもが顔をあげるほどだ。
「富ノ沢初子の事件について、何か知っていますか?」
浦和は足を止めて、彼女の顔をまじまじと見た。
「富……、誰だって?」
「ああ、知ってる知ってる。ちょうど私が子供のころの事件。この街で起きたのよねえ?」
そう応じるのは、受付の女性だ。四十代も前半といったところだろうか。とすれば、その事件とやらは三十年近く昔の出来事ということになる。
「なんですか、それ」
浦和は、興味本位で受付の女性に尋ねた。
「学生さんは他の土地から来てるし、知らないでしょうね」
「いや、俺は生まれも育ちも雨谷です。高校は都市部の明良高校ですが」
男子学生の多い、理系の学校が出身だ。平均以上の成績であれば、地元の国立大学である雨谷大学に進む人間は多い。従って、彼には学内にも顔なじみが多い。
「まあ、今の子は知らないでしょうね。あのころは日本中でひどい事件がいっぱいあったしねえ、」
浦和と受付の女性のほうが会話を先導してしまっている。その傍に、少女は新聞ファイルをかかえたままそっと座った。
「富ノ沢初子ちゃん、その名前はよーく覚えてるよ。可哀想に、亡くなったのよね」
女性は沈痛な面持ちで告げた。
ひやり、と胃の内側を冷水が流れたような感覚がした。まさか、この町で人が亡くなるような事件があったとは。もしかすれば聞かされていたのかもしれないが、覚えていない。
「あの事件があってから、町中がピリピリしてねえ。人さらいにあわないように、って親が送り迎えしてくれたわよ。ま、続かなかったけどね」
彼女はけらけらと笑った。時を経た事件ならば、無関係の人間の反応はそんなものだろう。
「たしか、暴力団がらみの事件だったのよね。それがきっかけで、この町に巣食ってた小さい組が一つ解体されたみたいよ。とかげのしっぽ切りでしょうがね。相変わらず治安は悪いし、」
「そうなんですか?」
少女が不可解そうな表情で聞き返した。女性は記憶を頼りに語っている。新聞の内容と彼女の話とが噛み合っていないこともあるのだろう。
「当時は騒がれたのよ。ほら、そのお家、お兄さんのほうも失踪しちゃったじゃない」
「富ノ沢、太郎、」
「そうそう! ホント、札付きのワルだったらしくてね。あんまり頭もよくなかったみたいでね、ホラ、谷相高校の新設の男子枠にようやく引っかかってたんだって」
たしかに、谷相高校の男子枠は、例年難易度が低い。そもそも、谷相高校自体が際立って学業的に優秀な高校ではなかった。良妻賢母の精神を受け継ぐ、女子のための私立学校、というイメージが強い。しかし、谷相高校の生徒の前で言ってのけるとは、いささか配慮が足りない。この女性の場合、気がついていないだけと見えるが。
ゴシップ雑誌を読んでいるような気分だ、とげんなりした。
が、そこで彼はふと気がつく。
「もしかして、きみ、この事件を調べてたの?」
聞きながら、利用者名簿をさかのぼると、ここ数日、彼女はこの時間帯にやってきているようだった。学校は休んでいるのだろうか。少女は頷きながら、昼休みを使って、と付け足すように答える。
「そういうことなら、あてがあるんだけど。ちょっとついてきなよ」
お姉さん、ありがとうと浦和は受付に手を振る。すたすたと去ってしまう彼と、腕に抱えたファイルとを交互に見て彼女は戸惑っていた。
半ばあきらめながら新聞保管庫の外に立っていると、少女が現れた。
よし、と心の中で拳を突き上げる。伏し目がちのまま、お世話になります、とでも言うように小さくお辞儀する。口にも顔にも出さないように、「可愛い」とひとしきり感心していた。
とはいえ、はじめは、少女に対する外見的な興味であったのに、今や彼女の抱えているものに対しての興味が湧き上がってきている。いままで全く関心を持ってこなかった分野の話題に、少なからず興奮していた。
「俺は、浦和博。雨谷大の二年。君は?」
「私は、尾上松子。谷相高校の一年です」
じゅうごさい、というイメージが駆け抜けた。
「君、学校さぼってるでしょ」
返事が返ってこないのは予想がつくが、彼は遠慮なく問う。あの受付の女性がいなければこそ、腹を割って話せるというものだ。
「いつもは私服でここに来てて。ただ今日は、学校に行こうと思ったんです。……でも、だめで」
思いつめたように語る少女・松子を見て、脳裏には「登校拒否」の文字が浮かんだ。
「君の調べものって、学校の課題じゃないよね。なんで調べてるの、って聞きたいところだけど。事件の関係者、ってわけでもないよね」
「うまく、言えないんです。まだ。……すみません」
「いや、いいって。俺も事件が気になってきたし。でも、正直、犯罪とか事件とか詳しくないんだよね。俺の学問じゃ、新しい論文はだいたいデータだし、紙媒体にも強くない」
はあ、と胡乱な目で見てくる彼女からは、「不安」の二文字が読み取れた。慌てて、ただ、と付け足した。
「いや、でも、週刊誌のバックナンバーとか見るといいよ。死亡事件ならたぶん載ってる。それと、」
雑誌のバックナンバーは、学外の人間は閲覧できなかったような、とうろ覚えのままだった。
「犯罪とか事件に詳しい友達がいるんだ」
◆◇◆
そう請け合って向かった先は、先ほどの食堂だった。彼女を入り口に待機させ、自分は中へと入っていく。さきほど女子高生についての下世話な話をしていた手前、連中の前に引き立てることはしたくなかった。雨の降る中待たせて申し訳ないが、大学生の阿呆な乗りに付き合わせるほうが申し訳ない。
案の定、サークルの仲間たちは相も変わらず駄弁っていた。授業に出ると言って去った手前、もう一度顔を出すのは少しだけ気まずい。
「国崎!」
浦和は、声を張り上げて友人の名を呼んだ。クニサキ、と呼ばれた黒縁眼鏡の男が振り返る。気の利いた黒髪パーマの男だ。
「なんだよ、休講だったのか? 青沼は一緒じゃないのか」
青沼、と聞いてちくりと胸が痛む。彼は今頃、教室で実験に参加していることだろう。それがいずれ無為になるとしても。
「ちょっと来てくれ」
「なんだよー、今盛り上がってたのに」
国崎はしぶしぶといった調子で、笑い顔を張り付けたままやってくる。
彼を引き連れて玄関口に向かいながら、「余計なこと言うなよ」と肩に手を回し、先んじて封じておく。
「おまえ、たしか犯罪研究会に入ってたよな」
「なんだよその反社会的なネーミングは。違うっつーの。地域犯罪“防止”研究会だって。学生自治組織の」
「なんでもいいよ。あのさ、研究会でデータベース作ってたよな?」
「何、なんでソレ知ってるの?」
やだぁ、と冗談めかして腕をさする。
「国崎、何度も話してただろ、データベースの打ち込みのバイトが超楽だ、って」
「話したかな。覚えてねーや。ま、β版だけどな」
「それ、見せてほしいんだけど」
「ええ? 何でだよ。学問以外の用途で使うな、部外者には見せるなって先輩に言われてるんだけど」
「同じ高校・同じサークルのよしみでさあ、頼むよ! 絶対内緒にするし」
「そういう問題じゃない」
交渉がうまくいかないまま、松子のもとに到着してしまった。この際、少女の可憐さに頼るべきかと浦和は思う。
「尾上さん。こいつがそうなんだけどさ、君からも頼んでくれない?」
このように可愛らしい少女に頼りにされたら、イエスと言わざるを得ないだろう。
案の定、へらへらしていた国崎は、彼女の姿を目にとめると、姿勢をびしりと正した。くるりと向きを変え、浦和の耳元でこそりと小声でささやく。
「なんだよ、そういう話なら先に言えって」
「はぁ?」
浦和は思わず大きな声を出してしまった。松子がけげんな顔をしている。
なにを勘違いしたのかは知れないが、さんざんしぶっていたくせに、国崎は今から手伝うからついてこい、とのたまう。頼りになるのかならないのか。しかし、浦和としてはこの件のつては国崎のほかにいない。法学部の友人は他にもいたが、地域犯罪に詳しくて、情報を集める手法を知り、情報ツールを使える人間は彼に限られる。浦和が思い出したのは、この国崎が県内の事件の情報を収集し、データベース化している研究会の一員だということだ。協力してくれるのなら、ありがたい。
研究室は、法学部棟の三階にあった。部屋のなかにはだれもおらず、電気も消えている。すりガラスのせいで採光は悪く、しめっぽく感じる。シャットダウンされた数台のパソコンは沈黙を守り、かなり旧式の冷蔵庫の音だけが響いていた。両側の壁には、鍵つきで背の高い書類棚がならび、整然と管理された資料ファイルが鎮座している。二台だけある事務机の上は、資料が散らばっていて、誰かが作業途中に席を立ったかのように見えた。
あまどいを雨が垂れる音がぴちぴち聞こえてきて、陰気な雰囲気だ。国崎が電気を入れると、蛍光灯は瞬いた。冷房を入れるほど蒸してはいなかったので、除湿機能だけを動かした。その音に、パソコンの起動音が混じる。
浦和は、とりあえずソファに座って背もたれに体をあずけた。説明を受けている松子と、紳士的に解説している国崎の背中を眺める。
一通り教え終わったらしい国崎が、ローテブルを挟んだ向かいのソファに腰かけた。コン、という音で顔を其方に向けると、缶のオレンジジュースが置かれている。目礼して受け取ると、それは冷えていて冷蔵庫から取り出したばかりだと知れた。
「国崎がやってやればいいのに」
たどたどしく文字を打つ松子を横目に見て、浦和はなんとはなしに言った。国崎は、ホチキス止めされた論文をめくっている。
「俺が打ち込んだりスキャンした情報かもしれないだろ? 腹いっぱいでもう見たくないっていうか」
「ふうん」
そういうもんか、と浦和は思う。自分とはまったく違うこと学んでいるのだな、と改めて部屋を見回した。といっても、まだ第二学年なので、正規の授業はお互い教養科目のほうが多い状況ではあるが。
「先輩来たら挨拶しろよ。うち上下厳しいんだから。言い訳は適当に俺が作るけどさ、」
「オーケー」
松子が、椅子をひいて立ち上がる。
「印刷させてもらいますね」
「どうぞ~」
国崎は、論文を読んだままヒラヒラと手を振る。
はき出されるA4の紙を一枚一枚真剣な表情で並べ替えている松子の脇を抜け、浦和は、パソコンデスクに座る。彼女が開いていたウインドウをスクロールしていくと、白黒写真がさっと過ぎ去った。
「そうか。この頃って被害者の顔写真出回ってたんだよな」
スクロールを巻き戻し、富ノ沢初子はどんな少女かと興味本位で見てみようとした。しかし、その写真は、少女ではなかった。それどころか、富ノ沢初子の事件ではなかった。兄の方の事件だ。写真に釘付けになった浦和の動きが完全に止まる。空になったジュースの缶を、ぼとりと落とした。
「おい! 汚すなよ、床!」
「……浦和さん?」
国崎の怒声と、ためらいがちな松子の声に跳ね上がり、クリックしてしまった。開いていたウインドウが消えてしまった。すると、富ノ沢初子の方の事件のウインドウが前面に出る。
(……そうか、両方調べていたのか……、)
「どうかされましたか?」
「ごめん、ブラウザ消しちゃった、」
「もう印刷できたので構いません」
「悪い、ちょっと印刷したもの見せてくれ」
浦和は、冷たい汗が背を伝うのを感じた。松子の抱えていた紙の束をひったくり、勢いよくめくっていく。あるページで、浦和の手はぴたりと止まった。
「……国崎、ちょっと来い」
国崎が、伸びをしながらソファから立ちあかった。
「これ。この写真、見てみろよ」
「は? ……これが、どうかしたか?」
なんでわからないんだ、と彼は苛立って声を荒らげた。写真を指差して、国崎に突き付ける。
「青沼だよ! この富ノ沢太郎って男、青沼とまったく同じ顔だ」
国崎は、眉を寄せて紙に顔を近づけた。数秒ほどじっと見つめたが、首をかしげる。
「青沼はこんなに人相悪くないだろ。あの爽やかイケメンは」
「印刷だからわかんねーのか。尾上さん、悪いけどさっきのデータもう一度起してくれ」
完全に置いてけぼりにされている松子は、慌ててもう一度検索をかけ直す。どうぞ、と示された画面には、同じ写真が写っていた。印刷したものよりは数段鮮明だ。今度こそ、国崎もあんぐりと口を開けた。
「マジかよ……青沼だ。ちょっと幼くてグレてる青沼だ」
「だろ! そうだろ!」
国崎は真剣な顔で情報を流し読み、そして肩を揺らして笑う。青沼のはずがない、と言うのだ。
「これ、三十年も前の写真だぞ。青沼のはずがない」
「あ……そうだった。あんまり似てるから、忘れてた。どうかしてるな、俺」
浦和は赤面して、尻つぼみになる。そろそろと印刷の束を松子に返却する。
先ほど、青沼と重要な話をしていて過敏になっていたせいか。未知のフィールドではしゃいでしまったせいか。思いがけないことで浮足立ってしまった。
「世界中に、同じ顔は三人いるっていうしな。まあ、面白いネタ見つけたってことで。あとは、裁判記録とかも興味あれば見るといいぜ」
松子と浦和は、国崎に頭を下げた。幸いに、先輩とやらは訪れず、万事滞りなく終わった。浦和の心には、妙なひっかかりが残ったけれども。それは、松子も同じだった。ただ、「友人に似てる」という話で盛り上がっていただけのようには思えなかった。松子は、すっきりしない横顔の浦和を見上げた。