十六、 雨谷大学 一
松子が消えた玄関に向かったまま、しばし呆然と突っ立っていた。彼女の残した言葉が頭の中で繰り返される。奇妙に歪んでいる。いや、歪まされている。
――幽霊が第二宿直室から出てきちゃった。向かいの教室にいるの。セーラー服の女生徒が。
気の抜けた笑いが突き上がってくる。
それは、渚も目撃しているものだった。幽霊などではない、あんなものが幽霊であってはならない。おまけに、セーラー服など着ていない。見え方こそおどろおどろしかったが、体を持った人間だ。そうに決まっている。
「それ、たぶん幽霊じゃないよ、松子」
呆然とした呟きは、夜の住宅街に溶けて消えた。
ようやく歩き始めた渚の目に映ったのは、闇の中で浮かび上がるような白い人影だった。街灯の下、自動販売機の傍に隠れるようにして立っているその姿を、もう“二度と”幽霊などとは思わない。自分と同じ制服だった。ただし、男子生徒のそれではあるが。声が届く距離まで近づいて、彼は知らぬふりをする渚に問いかけた。
「お困りのようですね?」
渚は足を止めて彼と向かい合う。大河内録助は、薄い笑みを浮かべて缶コーヒーを差し出してくる。渚はそれを一瞥し、その親切を無視して彼を睨みつける。
「家、この辺なの?」
そんなはずはない。彼はいつも、白菊町からのバスで学校に来るのだから。そこから導き出される答えは一つだ。
「つけてきたの」
なんの裏もなく彼は頷いた。いつのまにか、渚と録助の立場が――視るものと視られるものとが――逆転していたようだ。悪びれない彼の様子に、彼女はかっとなる。
「きみ、映画部とグルなの? セーラー服の幽霊ってのは、きみたちの嫌がらせでしょう。私、見たんだよ。君と幽霊役の女の子が一緒にいるところ」
しかし、少年は困った顔で何も答えない。
「いいよ。どうせ、大和田先輩に口止めされてるんでしょ。でも、もう部室は貸したからね。もう二度とあんなことはしないで」
「あんなこと、とは?」
「しらばっくれないでよ。第二宿直室で幽霊の格好をした子を忍び込ませて、松子を驚かせたそうじゃない。手の込んだイタズラしてくれて、ほんとタチ悪いッたら」
「わかりません、でも」
すると録助は、すっと四つ折りの紙片を差し出してくる。缶コーヒーの代わりのように。渚が受け取らないでいると、彼女の鞄のポケットに断りなく押し込んでくる。払いのける間もなかった。
「信じるか信じないかの自由はありません。出してしまったのは、あなたたちです」
それだけ言ってのけると、渚の進行方向とは逆に歩き出す。彼の革靴の音は次第に小さくなっていく。街灯の光がじい、じい、と弱く揺れ始めた。自動販売機のブウン、ブウン、という低い起動音が耳障りだ。いつかの廊下を思い出す、不吉な前兆のようで渚も足早に進みだした。
幽霊ではないと否定したそばから、その存在をつきつけるようなことを言う。湧いて出た意味不明を絵に描いたような男が、「渚の責任」をほのめかして去っていく。もうなにも考えたくはなかった。
ふと振り返ると、大河内録助の白いブレザーは、暗い街路のなかに溶けて消えていた。渚は、鞄に押し込まれた紙片を取り出して開いた。本当ならば、道端に捨ててしまってもよかった。なのに、どうしてそれを見る気になったのか。
とても古臭い、そして胡散臭い広告だった。
《お掃除はどろぼう猫マデ》
渚は、星が瞬く夜空を見上げた。
「あの部屋を自分で掃除するのは、いやだなあ……」
◇◆◇
――翌日、谷相高校
「大和田先輩は、お休み……ですか?」
渚は青ざめておうむ返しに聞いた。
「昨日までは元気そうだったんだけどね。大和田に何か用だった?」
「放課後、一緒に活動する予定があったんですが」
掃除をプロに任せてみてはどうかと思い、《どろぼう猫》の広告を持って彼女をたずねてみたのだが。顧問の許可を得たあとでは、松子も学校を休んでいるので、大和田に相談するしかなかった。まっさきに問いただしたかった大河内録助も、今日に限ってまだ登校していないときている。
「あー。もしかして、映画部?」
大和田のクラスメートは声を潜める。
「関わらないほうがいいよ。祟られたらしいから」
「どういうことですか」
「一年生にこういうこと言うのも気が引けるけどさ、うちの学校の七不思議だよ。開かずの第二宿直室のセーラー服の幽霊。あの部屋開けて、映画部ヤバいことになってるらしいよ」
ヤバいことだの、祟りだのとまったく内容がつかめない。しかし、この生徒も具体的なことは何も知らないらしい。
「開けたのは、映画部なんですか?」
違う。開けたのは自分と松子だ。かたかたと震えはじめる自分の体をさすった。真実ではないデマが混じっているとしても、良くないことが起ころうとしている。そしてその鍵を開けたのは、自分だ。
「そうらしいよ。カメラテストとかいって、あの部屋で二年生に幽霊の格好させたりしてたらしいから。その子さあ……家帰ってないんだって」
やはり、松子が見たのは幽霊ではなかったのだ。その真相がどれほどの慰めになると言うのだ。
「近づかない方がいいよー、あすこには」
渚は教室に戻らず、そのまま学校を抜け出す決心をした。一刻も早く、誰かに助けを求めなければ。まともでないことを聞いてくれる、誰かに。
かくして小島渚は、《どろぼう猫》の暖簾をくぐることになる。
▽▼
雨の降る昼間だった。
雨谷大学の学生・浦和は、学内の食堂で友人たちとともにいた。平らげられたカレーの皿を脇に寄せ、マンガ雑誌を大開きにして読んでいる。スプーンを口に挟んだまま、退屈そうにページを繰る。見開きページには、抱き合う男女の絵が広がっている。昼時の倦怠も相まって、なんとも覇気のない空気が流れている。そのなかで彼は、独り言のように呟いた。
「ああ、恋愛してえなあ」
真向かいに座る友人は、あきれ返って応じた。
「おまえがしたいのは恋愛じゃなくて、交尾だろ」
浦和は、輝きのない瞳でちらりと彼を見上げて頭を振る。
「そういうの求めてないから。……女子高生ホントかわいい」
彼がうっとりとして言えば、他の仲間も身を乗り出して会話に参加してくる。
「うわ、出たよ、『女子高生』。下心見え見えだっつーの。気持ち悪い」
「高校の時にロクな恋愛してねーから、今頃になってジョシコーセーとか言い出すんだよ」
という否定派もあれば、女子からの冷ややかな視線もある。座は一時、浦和叩きの場と化す。この食卓を囲んでいるのは、学部学科こそそれぞれだが、同じサークルのメンバーだ。サークル、学部の友人、地元の仲間、それぞれのコミュニティーによって場の空気は違っている。このメンバーでは、大げさに騒げるぶん、気疲れもする。内輪話以外となると、共通の話題が乏しいせいで、学内の有名人の話や恋愛話など下世話な話になることが多いからか。
「塾講やれば? 女って基本年上が好きだからチョロいだろ」
と、自分の体験でもない話をまことしやかに吹き込む友人もあり。
「ビッチはお呼びじゃねーんだよ。もっと普通に出会って、……清純そうで、化粧とかしてない子がいい」
「浦和ごときが何言ってんだよ。選べる立場かっつーの」
女性陣からは、男言葉でのつっこみが入る。女子高生とやらをその身で経験した人間の言葉が刺さる。すると男は現金なもので、先ほどまでからかっていたくせに、浦和のフォローにまわってくれる。
「今はやりのなんとかってアイドルグループにはまってるんだよ、こいつ。高校生くらいのフツウの子ばっかりだもんな。あこがれる気持ちわかる」
「あれこそロマンの権化だわ。制服みたいな衣装で女子高生を連想するよな、させてるよな」
「制服でデートしてもらいてーなー」
女子高生支持派が急速に熱を持ち始め、矛先はその隣へ向いた。
「さっきからいい子ぶってるお前はどうなんだよ、青沼」
話を振られた青沼は、彼らのほうを見もせずに「いや、」と短い返事をする。聞いていないようで、会話の流れは把握していたらしい。彼の視線は求人誌に向けられていて、その手にはマーカーが握られている。
「おれ、年下は考えたことない。妹いるからかなぁ」
青沼の回答に、仲間たちはどうっと沸いて歓迎した。妹いるのかよ、会わせろよ、とお決まりの盛り上がりだ。青沼は苦笑して首を振った。
「ここにはいないから」
どことなく青沼を奇妙に感じた浦和はすっと素に戻り、椅子に座りなおした。
もう一年以上の付き合いだと言うのに、まだよくわからないところがたくさんある。それは、青沼が暇さえあれば働いていて、滅多にプライベートをともにしないせいでもあった。にもかかわらず、浦和にとっては一番気の置けない友人で、もっとも楽に過ごせる相手だった。人間的な相性がいいのだろう、と浦和は深く考えていなかった。青沼の方こそ、誰と仲がいいか悪いかなどまるで気にしていないような人間だったが。
頬杖をついて、彼の広げる求人雑誌を覗き込んだ。
「またバイト探してるのかよ」
青沼は、ペンを頬に当てて真剣に雑誌に向き合っている。
浦和が青沼とトーンを抑えて話し始めると、それまで茶々を入れてきた面子は、また別の話題で盛り上がり始める。浦和自身、思わぬ食いつきを見せられて面倒に思っていたところだった。
「ラーメン屋と居酒屋やめたから、昼間働けるところを探そうかと」
「フーン。なんでまた」
「ずっと続けてきたバイトが、本業になるから。こっちは夜が多いんだよ」
浦和は内心、おや、と思う。青沼が自ら謎のバイトの話をするのは珍しい。しかし、常々疑問を抱いていたことがある。軽い調子で、笑い飛ばすように彼は言う。
「おまえ、バイトするために大学入ったのかよ」
アルバイトをこなし、時折サークルにも顔をだし、授業も人並みにこなしている。よくある学生像ではあるのだが、どこか違う。軽薄そうな見た目にそぐわない、重苦しい信条と信念に従って生きているような寄せ付けなさがある。そこで、「だからこいつはモテるのかな」という話にすり替わるあたりが浦和だ。
浦和はちらと腕時計を見た。まもなく午後の第一課が始まる時間だ。彼は食膳を持って椅子を引いた。マンガ雑誌を向かいの席の友人に押し付ける。
青沼も一緒に立ち上がる。同じ授業をとっていた。
「じゃ、これから授業だからお先」
「マジメだなー。もっとここにいろよ」
「実験あるんだっつの」
浦和は何の問題もない和やかなふくれっ面を見せつけ、食堂を去った。
なにがマジメだよ。
言葉には出さずに、サボりを決め込んでお喋りに花を咲かせる面子に吐き捨てた。自分こそ、アイドルや女子高生に鼻の下を伸ばして、モテたいがために足掻くようなムラッ気がある中途半端な奴だと思っていたが、そんな人間はごまんといることに気がついてしまった。それでも、青沼の隣にいれば、そんな中途半端さを一時忘れられるような気がした。彼が、学生としてまともではないほうに真面目なのだとしても。
二人はならんで校内を歩いていく。傘と傘がぶつからない距離を保ち、しとしと降る雨の中を進む。浦和は、青沼の横顔を盗み見た。
青沼は口数が少ないほうではなく、むしろ饒舌だ。耳を傾けたくなる話をすると言うよりは、思ったことをぽんぽん適当に口に出して流れに乗るお喋り屋だ。元来の見目の良さもあって、何を言っても許される雰囲気もある。それでも今日は、妙に寡黙だったのが気になっていた。
結ばれていた口は唐突に開き、彼は切りだした。
「大学、やめるんだ」
「……は?」
驚きで目を見開く浦和をよそに、黙っていて済まないと彼は続ける。
「親との約束、破っちゃったんだよ」
「……何の約束」
「人生の約束。でも、実はおれ、道を外そうとしててさ。それがバレた」
ずいぶん軽く言ってくれる。雨谷大学に入学すること自体、簡単なものではなかったはずだ。
「道って……『こころ』のKかよ」
「あんなにストイックじゃないって。でも境遇はちょっと似てるか」
どんな境遇だったか、とぼんやり考えている間にも、青沼は話し続けていた。
「親は卒業はしろって言うし、師匠も仕事のメリットだなんだで大学に居ろって言うけど、中途半端になってよくないよな。ケジメつけたいし」
「は? 師匠? 前から気になってたんだけどさ、お前っていったい何してるわけ? 危ないことしてないよな」
「説明してもわかってもらえないと思うけどなー」
「説明してもわからないようなことに身を落とそうとしてるお前が心配だよ、俺は」
はは、と乾いた笑みをこぼすので、肩をどついた。こちらは本気で心配していると言うのに、まるで鳥のさえずりのように聞き流してくれる。大事なことを自分に話してくれていること自体は純粋に嬉しいのだが、それはもう彼の中で決まって動かないことだからだろう。ひょっとすれば、この告白を聞くのは自分ではなかったかもしれない。青沼は、こういうところが軽薄なのだ。それだけに、彼の人生に自分はまったく含まれていないのだろう、と虚しさも感じる。
「まあ、生かしてもらった分の金は早く返したいからさ」
「生かしてもらったって、大げさじゃね?」
「俺ん家の場合、言葉通りなんだよ」
「……なんだかな。俺、おまえのこと全然しらねーわ」
「俺も浦和のこと全然知らないわ」
「……普通そう返すかぁ?」
気の抜けるような話だ。
「……なんで俺はこんな話を浦和にしてるんだろうな」
急に青沼は生真面目な顔になる。
「だから、そういうこと普通言うか?」
まさに先ほど自分が感じていたことを、青沼は自問自答するように言うのだからあきれ返った。というより、丸裸で雨の中で立たされている気分になった。だが、思わぬ真意を引き出せることもある。
「浦和だからだろうな」
耳を疑った。
「友達がいるのも、久しぶりだ」
零れ落ちるように続いた言葉を聞いて、浦和は激しく自己嫌悪した。
お互い様じゃないか、と彼は唇を噛んだ。きっと、青沼がいなくなっても、またふさわしい友人と出会い、その誰かと今のように変な話をしたりするのだろう。あるいは恋人ができて、その女の子に夢中になったりするのだろう。それが悪いことだとは思えなかったが、その一瞬で、自分の人生の中から消えていく青沼を想像してしまった。そこに一切の不自然がないせいで、さらに自分が嫌になった。
雨が傘を叩く音がいやに大きい。
青沼は急に進路を変えた。飲み物を買いに行くのだと言う。数メートル別れて、浦和は彼を呼びとめた。
「おまえ、学寮住まいだろ? 家はどうすんだ」
「引っ越すよ」
「どこに」
「白菊町」
「……お前さあ、」
じとりと胡散臭い目を向けたのに気づいたのだろう、青沼は笑って手を振った。
「大丈夫だって、おまえが思ってるようなことじゃないって」
「……まあ、白菊町なら会おうと思えば会えるよな」
それでも、この軽さと無責任さが自分たちをつなぐ鍵であるように思えた。青沼が浦和の、浦和が青沼の人生に関わろうとする意思の有無という重さが必要だとしても。
ただし、と彼は思う。
「こういう話を雑談のノリでするなよ」
「ごめん」
また彼は笑って歩みを進める。その背中に、精いっぱいの軽薄さで再び呼びかけた。
「青沼ぁ」
彼はこちらを振り向かない。
「やめるなよ、大学」
「やめなかったら、ごめん」
普通、そんなこと言うかよ。
浦和は苦笑した。
長いため息をつき、彼は学棟に向けて歩き始めた。その道中、図書館の前で、どきっとするような白色に目が留まった。白いブレザーを着た女子高生だ。このあたりで白ブレザーといえば、谷相高校しかない。真昼間に、こんなところで何をしているのだろうか。
先の食堂での会話を思い出し、何の因果だよと思いつつしっかり横目で観察していた。先ほどまで青沼のことで気が滅入っていたのに、今はもう目の前のことにわくわくしているなんて、なんとも調子のいい奴だと自嘲しながら。
傘をたたみ、中に入ろうとしているところだ。彼女が顔をあげた瞬間、息が止まりそうになった。真っ白な肌に、漆黒のセミロングストレート。華奢な体に可憐な表情。浦和の好みど真ん中だった。
腕時計を見下ろし、五分、五分だけと自分に言い訳しながら、浦和は図書館に吸い込まれていった。否、女子高生に吸い込まれていった。