十四、 谷相高校 三
小島渚と尾上松子は、映画部部長の大和田の教室を訪れた。
あまりの騒がしさに、二人は顔をしかめた。昼休みの教室とは、ほとんど花盛りの少女のための園だ。数少ない男子生徒はたいてい、食堂へ行くか体育館へ行く。(教室に残る少数派の男子は、肩身狭そうにもそもそと背を丸めて食事している。)自分たち一年生の教室よりも、年長のクラスのほうが、のびのびとして自由そうだ。三年生の教室というものは、落ち着きがあるものだと思い込んでいたのだが、この様子を見る限り、そんなこともなさそうだ。
乙女たちはおしゃべりに夢中で、後輩の訪問に注目する場合ではなかった。おかげで、渚と松子は視線を気にすることなく目当ての人物を探し当てた。目当ての人物――大和田は、教室の真ん中あたりの席にいた。彼女はグループにも属さず、一人で座っている。パンを食みつつ、映画雑誌(教科書ではなさそうだし、ファッション誌でもなさそうだ。)を広げて読んでいる。ときどき、思い出したように牛乳を流し込む。松子は小さく「粗野ね」とつぶやくと、と顔をしかめた。渚は、そうは感じなかったが、大和田への小さな不満から松子に同意した。
二人は、グループの間をぬい、そろそろと教室を進みいく。
「大和田先輩。どうぞ」松子は仏頂面で、素のままの水兵服を突きつけた。
第二宿直室の匂いが、ほこりの匂いがかすかに漂う。制服はしっかり受け取りつつも、「なんか用?」の表情で大和田はパンを食み続ける。
「お忘れですか」松子は、いらいらした声で言った。「先輩がご所望の、谷相高校の昔の制服ですよ。持ってきたのは一着だけですが、宿直室のなかにはまだ数着ありました」
大和田は、牛乳パックにじかに口をつけて飲んだ。白くなった口元を伸ばしたシャツの袖で拭きながら、かすかに笑みをうかべた。
「ああ。そういえば昨日、あなたたちに頼んだような。助かるわ。どうもありがとう」
渚は文句を言いたげに口を開くが、松子に肘でつつかれる。黙って、と親友の横顔が訴える。
「ごめんね。わたし、いろんな人に頼みごとをしていてね。誰に何を頼んだか忘れちゃうくらい。でも、こういう些細なことって、監督の仕事じゃないわ。手足がやることよね」
「些細、ですか」カチンときて、つい、つっかかるような口ぶりになった。
他人の時間を奪っておいて、失礼なことだ。創造することは何にも勝る重大なことだと信じきって、あらゆる社会的な責任が免除されると思っている手合いかもしれない。二人は警戒を強めた。
「そうよ」
大和田は、旧制服をうっとりと眺めながら言う。渚は松子を振り向き、顔面の筋肉を総動員して最高のうんざり顔をつくってみせた。それは、ことのほかひどかったらしい、彼女はふきだしてしまった。
「おかしい?」
大和田の目つきが急に鋭く探るようになる。当然、松子の顔にはもう笑みは残っていなかった。「いいえ」と首を振るだけで精一杯だった。たかが田舎の高校のなかでのこととはいえ、実際に場数を踏んだからこそ、大和田は、怖いものナシという態度がとれるのだろう。たとえ曲がっていても、背骨はある。それに比べたら、自分など軟体動物だった。
渚は、そそくさと「さよなら」を告げて歩き出した。この上級生とは、いざこざを起こさないほうがいい。それはわかっていた。一人で昼飯をとっている(しかも、まったく平気そうな顔で。)女子高生が、曲者でないはずがない。普通でないから、女子の輪からあぶれるのだ。普通でないから、まったく構わないのだ。
「ねえ」大和田が声を張り上げた。「助かりついでに、もう一つお願いがあるんだけど」
いっそのこと、教室の騒がしさにかこつけて、聞こえないふりをしようかと思った。でも、もう遅い。足を止めてしまった。
「あなたたちの部室を、貸してちょうだい。第二宿直室を」聞いていようがいまいが、という調子で彼女は大声を出し続ける。具合の悪いことに、教室の声は、三人のやり取りのためにボリュームを落とした。つまり、ほかの先輩たちからも、注目されている。「第二宿直室のシーンは、第二宿直室で撮りたいの。ほんの数日のことよ。終わればすぐに撤収するわ」
「構いませんが、」渚は即答した。松子がさっと自分を見る気配がした。「あの部屋、ほんとうに何もなかったと思いますか。なんだか気味が悪いですよ」
「あってもなくても、関係ないの」
第二宿直室に幽霊が出る話を撮るくせに、そんなことはまったく信じていないようだった。いや、信じていないからこそ撮れるのだろう。
「でも、昨日、」
と、言いかけて戸惑った。昨日、なにがあったというのだ? なにもなかった。ほんとうに、ただ、気味が悪かっただけではないのか。その一方で、大河内禄助の妙な言葉が頭の隅をつつく。あれは、何かの警告だったのではないか。
「ひょっとして、貸し渋っているの?」大和田は、渚の沈黙を、悪い意味で受け取った。疑り深い表情で見上げてくる。「はっきりさせておかないといけないわね。わたし、あなたたちの部が成立する前から、第二宿直室での撮影許可を三船先生に申請していたの。でも、先生はお忘れだったみたいで、お返事はいただいてない。今は新設の《洋裁愛好会》が管理しているから、会長である小島さんに申し出ているだけでね。ねえ、どうかしら」
「まさか! 断るだなんて」大和田の言葉の最後をさえぎって、渚が叫んだ。焦って、ぶんぶん手を振っている格好悪い自分の隣で、松子はいったいどんな表情をしているか。見たくもない。「どうぞ、なんでも・いつでも、ご自由に使っていただいてかまいません。むしろ、私たちが許可すること自体、なんだかおかしいっていうか、生意気っていうか……」
「そんなことないわ。手続きは大事なことよ」にこりと、すっきりした顔つきで彼女は微笑んだ。「じゃ、交渉成立ね」
学校非公認の部活動のボスが、何まともそうなことを言っているのだ、とは思っても口にはしなかった。渚は頷いた。
自分たちの教室に戻る途中、松子は一言もしゃべらない。つかつかと早歩きで自分の前を進む。どうやら、怒っている。その理由は、大和田に部室を明け渡したことだとは想像がつく。だとしても、断るべきだとは思えなかった。あの部屋を「すぐに、どうしても」必要としている大和田に比べて、自分たちはどうだろうか。大和田の熱意を折ってまで、自分たちが貫くべきことがあるのか。まだ、ないだろう。なぜ松子は、それをわかってくれないのだろう。「じゃあ、どうすればよかったの」と、意味のない問いかけをしたくなった。でも、それではあまりにも子供じみている。
「ねえ、松子ってば。もう少しゆっくり歩こうよ」
彼女は足を止めて振り返った。案の定、きれいなはずの顔は、不満でゆがんでいた。彼女が言いたいことをまとめるまで、渚はたっぷり黙っていた。
「……大和田先輩は強引だし、三年生の教室は怖い。最後のほうは、みんなが私たちの話を聞いてたし、見てたわ。だからって、ペコペコすることないじゃない。おかげで、一方的な約束になったわ」
叱りつけられているような気分になった。しょぼくれて適当に返事をした。
「ばかね」どうせばかですよ、と渚がふてくされるのを無視しながら、松子は続けた。「お聞きしますけどね、会長さま。いったい何日の間、貸すことになるのかしら? その間、私たちの活動はどうなるのかしら? 具体的な条件をご存知?」
「『数日』。私たちの本格始動が、少し遅くなるくらいだよ、きっと大丈夫」自信なさ気に言った。「詳しいことは、申請書を書いてもらえばいいよ。……これから」
「それじゃ遅いわ」
「そんなことないよ」
「いいえ!」確信を持った響きだったので、つい黙ってしまった。「断るべきだった、とは言わない。むしろ、貸すべきだったわ。でも、安請け合いはすべきじゃなかった。あの人は、口約束でも権利を主張するわよ。もし、わたしたちが不利益をこうむったら、あなたあの人と戦える? 戦うための武器はある?」
権利、不利益、戦い、武器。松子の言葉は抽象的で、それぞれが具体的に何を想定しているのかわからない。公民科の教科書のようだ。
「松子、難しくてよくわからないよ。たださ、『なんでも・いつでもご自由に』なんて言ったのは軽率だった。ごめん」
「そのとおりよ」
間髪いれずにそう言うので、渚はさすがにむっとした。そこまで責める必要があるとは思えなかった。
「松子は、深刻すぎるんじゃないかな。大和田先輩の言ったとおり、これは些細なことだよ」
歩き始めた松子は、いったん立ち止まり、それから振り返った。また怒られるのかと思いきや、切なそうにしている。勢いがそがれたし、罪悪感がじわりとわきあがってくる。
とりつくろうように、渚は笑った。
「ねえ、なんとかなるよ。それに、まだ何も問題はおきてない」
「そのとおりよ」また、その言葉だ。でも、前のほどの力がない。「あなた、私の言ってること、ほんとのほんとにわかってないと思う」
「お願い。わかるように言ってくれないと。私はバカだもん」
「そういうことじゃないったら!」松子の声は、もう、震えていた。それでも、ピシャリとしていた。「わかってほしくて言ってるんじゃないの。わからなくて当然よ、だって、あなたと私の気持ちが違うんだから。違うのね、って確認しただけ。でもね、私、ほんとうに楽しみだったのよ」
何が? と聞きそびれた。松子が駆け足で去ってしまったからだ。
しばらくその場に立ち尽くしていた。頭を殴られたように、彼女の気持ちに気がついた。同時に、申し訳なさで胸が締め付けられる。松子は、渚の頼りなさをなげいただけではない。軽率さに呆れたことは、全てではない。これからこうむるかもしれない不利益は、仮定の話だ。難しくて抽象的な言葉は飾りだし、意味もどうでもよかったに違いない。だから、わかってもらうための言葉を言わなかったのだ。
教室に戻ると、松子は早退していた。あなたは深刻すぎるよ、と笑い飛ばすことなんてできない。今の出来事は、ひどく深刻だった。根本的に、渚は松子に軽蔑されたのだ。
なさけなくて、泣きそうだった。どうやって回復すればいいのだろう。
◆
翌日、松子は始業ベルぎりぎりの時間になっても現れなかった。彼女に謝りたくて、早く仲直りしたくてやきもきしていたのに。重苦しい気持ちと一緒に、一限目の「物理」の教科書に顔をうずめた。「電流」など、どうでもいい気分だった。こんな気分の日に限って空はひどい晴れで、むしむしと暑かった。ほとんどの生徒がシャツ姿だ。
そこでふと、大河内禄助もシャツ姿だろうか、と気になった。身を起こして、中庭を挟んだ反対側の教室をうかがう。彼の教室は暗かった。この時間は特別教室の授業なのかもしれない。彼のクラスの時間割を暗記するほどほれ込んでいるわけではない。
間延びした(ように聞こえる)始業ベルが鳴り響いた。白衣の物理の教師が教室に入ってきた。惰性的に、規律、礼をしてふたたび席に着く。教師はすぐには授業を始めない。聞く必要もないような導入の話をして、生徒の意識を物理に近づけようとする。だから、電流なんて知らないっつーの。渚は同じことを思って、また、禄助の教室を見た。
二人、教室には二つの白い影がある。
先に見たときには、誰もいなかったはずだ。一瞬の隙に、なかに滑り込んだらしい。なんと、その一方は、申し合わせたように大河内禄助ときた。あの明るい髪は彼しかいないからだ。もう一方は、女生徒。そうとわかる特徴は、長い髪だけだ。女は、戸のあたりでこちらに背を向けるように立ち、禄助と向き合っている。渚は、よく見えるようにと身を乗り出した。誰もいなくなった暗い教室で、あの二人はいったい何をしているのか。いや、何をしようとしているのか。もう授業ははじまっているというのに。なにより、彼が人と並んでいるところなどはじめて見た。盗み見ていたいという正直で野卑な心と、私には関係ないと冷静ぶる心が拮抗した。
心が揺れている間に、窓にカーテンが引かれた。自分の教室のほうだ。はっとして渚は身を引いた。中途半端な幕切れだ。
その直後だ。松子が教室に滑り込んだ。遅刻はしたけど、欠席じゃない。ぱっと心が華やぐ。いま見たことを松子に報告して、一緒にはしゃぎたかった。しかし、だ。松子の張り詰めた横顔を見ていたら、この切り口から話しかけるのはためらわれた。この話題が楽しいのは、擬似恋愛だからなのだ。渚が禄助に恋をしているように興味を持って話すこと、そういう軽さでしかない。恋の真似事であって真剣ではない。すくなくとも、松子はそういうふうに受け取って、そういうふうに笑ってくれるし、一緒に楽しんでくれている。対して、彼女を傷つけたことは、とても重くて、とても重大なことだった。だから、いまは話せない。「大河内禄助の話題なんて、松子の気分をちょっと楽しくするための嗜好品程度だ」、そう片付けてしまえば、いちばん都合がよかった。
カーテンを閉めていった物理の教師は、教科書で顔をあおいだ。
「めずらしく晴れたと思ったら、いやに暑いな。日差しもきつい。もう夏がくるな」
もう、夏が来てしまう。そして夏も、あっという間に過ぎてしまうだろう。適当に過ごしていく日々で、何も残らないかもしれない。どこかに碇を下ろさないと、流れていってしまうかもしれない。
なんとかなると思っていた渚のお気楽さは、今日はあまり役に立たなかった。松子は、あきらかに渚をさけていた。休み時間のたびに、彼女は教室を出て行く。洗面所へ行ったのかと思うと、そうでもない。授業開始前ぎりぎりになって、彼女は戻ってくる。自分と顔をつき合わせないように、どこかに隠れているのかもしれないと思うと、切なくなった。そこまでしてさけられている自分が、ではなくて、一人ぽっちになって、どこかで時間をつぶしているであろう松子の姿が、だ。話し合う時間をくれる気がないに違いない。
喧嘩は初めてではないけど、久しぶりだ。どう収拾をつけようか、と考えていた。決定的な仲直りのきっかけがないまま、ずるずると時間が過ぎていく。放課後を待つしかなさそうだった。
だか、待ちわびた放課後は、どうやら使えない。大和田が教室に現れたのだ。使い勝手がいい後輩として、すっかりマークされてしまった。彼女は、戸の手前で手招きをする。重たい足を引きずってそこまでいくと、渚をよけてすっと誰かが教室を出て行く。黒くて長い髪の後姿ですぐにわかった。松子だった。大和田は少し驚いた顔で彼女の背中を見守っている。
「あら、尾上さんじゃない。挨拶もなかったわよ。できれば一緒に来て欲しかったのだけど」
その言葉に、渚の心は落ち込んだ。喧嘩した、と話す必要もなかった。なにしろ、この人のせいなのだ。早く開放されたくて、何か用かと事務的に聞いた。すると、第二宿直室の掃除をしろという。なんでも、「人に貸すものは、きれいにしてから渡すべき」だからだとか。ベリーショートの髪を撫で付けながら、大和田はにっこり笑う。こちらは、彼女とのやりとりには最高にうんざりしているというのに。
「撮影が終われば、あなたたちが使うでしょう? 自分も使うんだから、自分で掃除するのはあたりまえよね」
「私もそう思います。でも、今日はちょっと、」
松子のあとを追いたくて、そわそわしながら言った。
「だめよ。今から使うんだから」
は? と間抜けな声を出すと、彼女は白々しく驚いた。松子の言うとおりだ、「きちんと話を聞かなかった私が悪うございました」、と思った。
「バイトなわけないわよね、だってまだ15歳よね。とにかく、今日の放課後は、こちらを優先してちょうだい」
「……どうやら私は、いつの間にか、“あなたの”アシスタントに志願したらしいですね?」
ちいさく噛み付いたのだが、彼女には傷一つつけることはできなかった。
「ほんとうに“映画部の”アシスタントになればいいじゃない。ちょうど、衣装係が増えればいいのに、って思っていたところなの」
「それなら、家政科の子をスカウトすればもっと素敵でしょうね。きっと、掃除も得意ですよ」
「あなたが思いつくことを、わたしがしなかったと思う?」
そうこられては、渚も、それこそ大和田のようなにっこりの笑みを浮かべるしかなかった。
「あなた、頑固ねえ。部室使えないあいだくらい、人助けしても罰はあたらないわよ」
頑固。まさか。その反対だからこそ、松子に愛想つかされた。
「何日間使う予定なのか、教えていただかないと」
大和田は、予備を含めて五日間だと答えた。思っていたよりも短い期間だったので、内心、ほっとした。もしひどく長ければ、翻って断るつもりでいた。部室を使いたいからではなくて、大和田が嫌だからという理由で。
「じゃ、早速掃除をしましょう。鍵を渡してちょうだい」
「すみませんが、お断りします。わたしたちにも、活動があるので」
渚は、しゃんと顔をあげた。
「今は部室を使えないじゃない」
「部室がなくても、できます。いえ、やります。では、お話はこれで。失礼します」
第二宿直室の鍵を彼女の手に押し付けた。それを手放したとたん、心が軽くなって背筋が伸びる心地がした。大和田にしっかりノーが言えたし、松子の機嫌を直せる情報も手に入れた。五日間。たったの五日間なのだ。なんとかなったじゃないか、渚は小さくつぶやいてスキップした。松子に会いに行く。今することは、それしかなかった。