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白菊横丁  作者: 黒檀
15/20

十三、 弁天の妖女 下

 からかわれるのはいいとしても、説明を果たしてくれないところが、この上司の最も困るところだ。

「その薄ら笑いで請合うのだから問題はないのだな、鶴屋よ。あとのことはお前たちに任せる」

 引受人は恭しくつむじを見せるが、流れた黒髪のすき間からは油断ならない蘇芳の瞳が光っている。

「お前たち、か。情けない話だ。影佐がここを出ると決めたおり、確かに『息子を頼む』と言った。だが、任せたのは厄払いだけだ。《どろぼう猫》で頼む、とは言っとらん」

 何か言い返せばいいものを、鶴屋は黙って受け入れている。影佐が彼をかばわないわけにはいかなかった。

「オヤジ、鶴屋さんを責めるのは違うじゃないか。俺が、自分から頼みこんだんだ」

 伊藤は驚きに目をむいた。何を言っているのだと、表情が訴えている。つまり、伊藤は事情に通じていない。

「……知らなかったンすか」

 気が遠くなる思いだった。影佐がすすんで残ることを選んだという事情を、鶴屋は伊藤に隠していたに違いない。にもかかわらず、部下として雇ったという事実は伝えている。影佐が自ら《どろぼう猫》に転がり込んだというのに、ただ受け入れただけの鶴屋は、伊藤にはなんの弁解もしていなかった。それでは、彼ひとりが伊藤に悪く思われていたことになるではないか。

「兄さん!」

鶴屋の方を叫んでみても、彼は素知らぬ顔で目を瞑る。

あくまで気にしていないふうをよそおい、伊藤に責められるがままの上司の態度にどうしようもなく腹が立った。かといって、めぼしい表情を見せない鶴屋は、影佐をかばってくれているわけでもない。まったく軽んじられているのだと、冷え冷えと実感された。腹立たしさと同時に、虚しさもやってくる。

 もくもくと黒い感情が突きあがってくるが、それどころではないのはわかっている。これは好機なのだ。この話題を逃してはならないと自分に言い聞かせる。

 そして、影佐は畳に額を押し付ける。

「鶴屋の兄さんに、弟子入りしたいんです」

 腹の底から出そうと用意してきた“宣誓”は、なさけなく震えた。

 広間は静まり返る。失笑さえおきなかった。行灯の火が、畳に張り付いた自分の影を淡くしたり濃くしたりする。そのあわいを見せつけられている間も、誰からの返事も、もらえない。

「だめ、ですか」

 いくら底意地の悪い上司とはいえ、ここで無関心を貫くほどの冷血漢ではあるまい。その期待で半分は気楽だった。むしろこの男に優しさがあることを信用しているのだが――

「……鶴屋さん! ちゃんと聞いてンすか」

 ――おそるおそる顔をあげれば、鶴屋は片手で耳飾を弄んでいた。やはり、さほど深刻に考えていないのだ。

 彼らはじっとりとにらみ合っていたのだが、鶴屋のほうが先に折れた。

「なんで今更、弟子入りなんて言うんだよ」

「“今更”じゃないです。ずっと考えていたんです」

「それなら、なおさらおかしい」

 自棄になって不貞腐れた態度の影佐が、しまった、という顔つきになる。

「茫然自失のお前を拾ったのは、他でもない伊藤の旦那だ。その恩人である旦那は、今すぐここを去れと言っている。まっとうに生きろってな。でも、おまえはそれに背いて、ここに残ると宣言するんだな?」

 じれったいほどゆっくりと問う。考える間もなく影佐は肯定していた。

 鶴屋は「よし、わかった」と膝を打った。申し出を承知してくれたのかと顔を輝かせたが、どうやらそうではない。「言い分を聞いてやるに値する」と判断しただけのようだった。説明するよううながしてくるので、しどろもどろになりながら、「化け物を退ける法を会得したい」だの、「ひとを救いたい」だのと胡散臭い話をつむぎだす。それを聞いていたのかいないのか、鶴屋の第一の返事はすっとぼけたものだった。

「おまえ、身分はなんだ」

 戸惑って眉根を寄せた。

「『なんだ』って……それは、学生でしょう」

「学生でも、大学生。俺のもとにつきたいのなら、学歴なんて必要なもんでもないだろう。でも旦那はあえてお前を大学に進ませようとしたし、おまえ自身も旦那の意思を受け入れて努力した。そこに膨大なエネルギーが使われたってことくらい、わかるよな」

 はい、と影佐は叫んだ。

「威勢のいい返事でごまかすな。本当のこころが、“わからない”だろう」

 それにも叫んで返事をするのだから仕様がない。彼は瞼を閉じて額に手を当てた。

「……どうして今まで、その意思を旦那に隠してた。まさか、旦那は、おまえの身勝手で長い茶番につき合わされたのか?」

「いいえ」を伝えようと、青年は口を開いた。そこに電光石火の平手がとぶ。乾いた「パンッ」という音の出どころがわからないほど鋭い、一瞬の出来事だった。予想だにしなかったろう、なにしろ歯を食いしばる猶予さえ与えなかった。影佐は舌をかんだらしい。しまりなく開いた口のすき間から、唾液と血が混じったものが手の甲にパタリとおちた。水に溶けたような、薄い赤が。形のない痛みのうめきをもらしている男の横っ面に、容赦のなく冷たい声色で、鶴屋は「卑怯者」と言い捨てた。

「旦那はだませても、俺をだませるわけがないだろう」

 影佐は、口の端にも垂れてきた血をぬぐった。口の中が鉄臭くてかなわない。傷から溢れてくるものを、えずきそうになりながら我慢して飲み込む。これは、恨めしい目つきをとりつくろえるほど、簡単な程度でなかった。おそらく、この男は容赦なく打った。前ぶれもなかったとはいえ、自分の勘の鈍り具合にも呆れる。

「想像がつく。進学は、時間稼ぎだろう」

 自分の頬はひどい痛みだが、鶴屋のほうでも、手のひらが痛いに違いない。それなのに、涼しい顔をしているのには我慢ならない。すこしくらい痛みを分け合ったらどうだと思う。

「俺の解釈からしたら、ひとりの人間が社会に出るってのは、そいつが世界に参加するための儀式だ。ようするに、この世の人間になるということだ。おまえもそう思うからこそ、社会に出るのをしぶって時間を稼ぐんだろう。大した執念だよ」

 すでにして真実を手のうちに持ちながら、影佐のうろたえる様を楽しんでいるようだ。白々しい口調だった。

「……はじめから正直に白状したとして、親父や兄さんは、俺の弟子入りを許してくれたんスか。そして今、許してくれるんスか」

「問題は、弟子入りの如何じゃないだろう」

 なんだ、全部知ってるんじゃないスか。影佐は笑った。

「……まともに歩く気なんか、はなからなかったんス」

 伊藤の小さな嘆きが耳に入ってくるが、彼は上司から目線を離せないでいた。何秒そうしていたかは知れない、ふと、本音が勝手に転がり出た。俺はただ、と言い、喉がこくりと上下する。

「帰りたいんです。家族に会いたいんです。……こんなこと、言えるワケないじゃないスか。だって、帰れるはずないのに」

 結晶が転がるように、目じりから涙がこぼれた。頬を伝い、畳の網目にそれはしみ込んで消えた。たた、たた、ともうしばらく涙は落ちた。

「帰れないからこそ、旦那はこの世で歩けるよう支えてくれた。それに、白菊横丁(こんなところ)にいたら、頭ン中が堂々巡りだと心配してくれてるのも分かるんです。でも、どうしたって堂々巡りは止みませんよ。……赦してください。俺はこの先ずっと、旦那に恩は返せません。裏切っていて、ごめんなさい」

 再び、頭を下げて恩人にひれ伏した。それでも、心情としては反抗を示しているのだ。

「あの化けものが憎いんです。だから俺は最初から鶴屋の兄さんを見ていた。もう一度あいつに会うために、俺は《どろぼう猫》に残るんです。ひょっとしたら、帰れるかもしれないじゃないですか。帰れないとしても、仕返しくらいさせてくださいよ。……だから離れない。白菊横丁を離れません」

 彼は顔を上げて、懇願するように二人を見上げる。

「赦してください。このままじゃ俺は、いつまで経っても、この時代の人間どころか、“青沼影佐”にもなれやしないんです」

 言葉はふっつりと途切れる。それ以上言葉を紡がせることを、涙が赦さなかった。それでも時折、「赦してください」と嘆きが混じった。

 夜の鳥が屋敷の外で鳴いている。それはまるで時刻を告げる鐘のようにも聞こえる。


 長いこと口を閉じていた伊藤が初めに語りかけたのは影佐でなく、鶴屋のほうだ。声は酷くしわがれ、今にも事切れそうに頼りない。

「鶴屋、貴様は悪魔だ。老い先短い男に、息子の晴れ姿さえ、拝ませてはくれなんだ」

 責められたのは、やはり鶴屋の方だった。しかし、再び彼をかばう言葉を出せるほど、青沼はまともではなかった。口を開けば、情けない嗚咽が漏れ、少年のように甲高い声が出てしまったろう。

「ほら見ろ。だから先刻忠告したろう。『忘れるな』って、」

 鶴屋は老人のさみしい視線を避けることなく受け止めたあと、冷え冷えとした表情で嗤った。いったいどこを見ているのか、寒々しい立ち姿だった。それを受けてはっきりと知れたのは、この男は影佐の腹の裡など全く興味がなく、彼の精神に至っては、実はひとつも波打ってなどいなかったということだ。ひょっとすれば、影佐が卑怯だろうと誠実だろうと、目的がなんであろうと全く気にしていなかったのかもしれない。

 だから先の問答は、多くを語るまいとした伊藤に代わり、青沼から真実の言葉を引き出させるための鶴屋の茶番だ。

 それに免じてなのかはわからない。どうやら自分は翁に赦され、一方の鶴屋は翁に恨まれたらしかった。これまでとおなじように、これからも。青沼の存在の影はどこまでいっても薄く軽く、鶴屋には傷一つ残せそうになかった。



◇◆◇



 朝の光で目を覚ました……のかと思えば、蛍光灯の白で意識が浮き上がったらしい。軽い平手を打たれた。「起きろ」という鶴屋の声がする。前髪をつかまれている様子なのだが、あまりの眠気に全てが面倒だった。虎蔵は寝返りを打ち布団を転がる。身体は風邪のさなかのように気だるく、あらゆる気力が根こそぎ削がれているようだ。返事をするのも億劫だ。

 今度は、頭突きされる。軽度の二日酔いのように痛みが響き、起きないわけにはいかなかった。無視すればまだ続きそうな気がしたからだ。これならば、まだ目覚まし時計の方が親切だ。ゆっくり瞼を開けると、すぐ前の鶴屋よりも、奥にいる影佐のほうが目に入った。影佐はかがんで動いている。床に近いところで。

「……どうして青沼がここに」

 ここに、と言いながらここがどこであるかを失念していた。そういえば、起こしにきたのは禄助ではなく、鶴屋なのだ。

「大黒天の間だ。自分入り込んでおいて、忘れるなよ」

 鶴屋が先手を打って答えた。

 もやもやとした記憶の道筋がすっと一本になる。ようやく輪郭が見えてきた。“ここは《弁天》の「大黒天の間」で、自分は女に薬を盛られた。”虎蔵は、意識を失う直前に見た、女の不気味な笑いを思い出す。目は笑っていないのに口はカッと開かれ、歯をむき出しにした笑みを。身震いした。

 しかし、である。傍らには女がいない。射すくめるような鶴屋の視線を忌々しく思いながら、コッソリと手を奥に這わせる。あの様子ならば、女と自分は寝たと考えるのが妥当だろう。ところが女の肉どころか、温度さえも感じない。今度は逆に、自分はひとり幻を見ていたのではないかと思えてきた。ひょっとすれば、風呂でのぼせて倒れたのではないか、と。

「おい。ぼっとしているが、平気か」

 と、ちっとも心配そうでない顔で聞かれた。

「意識がなかった間のことを、なにも覚えていない」

 およそ厭味の意味だけで答えた。厭味の応酬になると見込んでいたのだが、ならなかった。

「会話が成立するなら上等だ」

 彼は膝をつき、スーツの懐を探った。取り出されたのは、妙に艶かしい姿勢の女の木像だ。腰は豊かに曲線を描く。上半身は全くの裸で、腰布一枚。そのくせ、結った髪にも首にも胸にも、派手な装飾品が巻きついている。そして何より特徴的なのが、蛇のように植物がまとわりついているところだ。それを、虎蔵の鼻に押し当てる

「“姐さん”の正体はこれだ」

 白檀の香りがする。香木から彫られた女像なのか。贅沢な品だとすぐにわかる。

「見覚えは」

 いいや、と虎蔵は首を振った。

「これは、もとは竜蔵のものだよ。屋敷を出るからといって、形見分けのつもりで伊藤の旦那に寄越した。でも、あの竜蔵のことだ。いわくつきの品で、ろくでもない妖精がついてやがった。なまじ大切にしていたから、放っておくわけにもいかなくて、次の男を紹介してやったってわけだ。捨てられたと思って竜蔵を恨むのも仕様無い。旦那が素さん(おくがた)も連れて行ってくれていたのは幸いだな」

 鶴屋は一人、納得したように頷くが虎蔵にはとんだ災難だった。

「実を言えば、俺はすこしお前を心配していた」

「嘘をつけ、嘘を」

 ほんとうだ、と肩をすくめせて見せたが信用ならない。

「これ、旦那はどこで買ってきたんだ?」

「知るか。どこかの成金趣味のみやげ物だろう」

「そんな気軽なものじゃないぜ。たかが憑物が屋守を抑えるほどの力を持とうとは、竜蔵の想定外だろうな。妖女の性質と、場の力と、吸った精気が味方したわけだ」

 虎蔵の表情がますます優れなくなったので、なんとか話は通じているらしい。

「めずらしく察しがいいな。さすがに、体調に影響があれば分かるか。並の男なら、だいたい一度吸われただけで致命的だ。よくて獣になっているかだな」

 そういえば近頃、このあたりで銃の事件や強姦が多発していた気がする。まさかとは思っても、ばかばかしくてこれらを関連付ける気になれない。なにしろ場所柄、この手の事件はもともと多いのだ。

「と、いうわけで、耐性のないお前を差し向けたことを少し反省していた。まあ、思ったよりもお前に何の影響もないようだから、仕事が減ったからよしとする」

「いやよくないだろう…この脱力感を、影響なし、で片付けるな。」

「ああ、それから、念のため言っておくが、お前は生息子のままだから、もし心配してるなら、安心しておけ」

「そんなのどっちでもいいが…」

「いやこっちは良くないんだわ。童貞であることは、呪術的に強い意味があるからな。勝手に捨てたら元の会社に再び押し付けるからな」

「伺い立てろと?」

「いや、純潔でいろってことだよ。少なくとも俺が死ぬまでは」

 いろいろ言いたいことはあったが、まずおかしいのは、女が自分を竜蔵だと思い込んでいることだ。

「それに、私は祖父じゃない」

「じゃあ聞くが、竜蔵とおまえとを分けるものは、手腕以外に何がある」

 すぐさま反論しようとしたところ、「見てくれだ」なんて答えてくれるな。と封じられた。

「どうして竜蔵の不在をお前で代えられるのか、考えたことはあるのか。どう見積もっても利益はマイナスなのに、だ」

 鬱陶しそうに言い捨てながら、立ち上がる。ついでに、新しい浴衣と帯を放って寄越した。虎蔵は全くの裸だったので、ひとまず黙って新しい藍の浴衣の袖に腕を通した。つめたくてざらりとした感触だ。紬のよう。

「わかるわけ…ないだろう。そんなの、今でも私が1番答えが欲しい」

「人外の連中に道理を求めるなよ。」

 身も蓋も無い回答を寄越して、伊藤に報告する、と言いながら彼は部屋を出て行った。ひとごとである鶴屋はいいが、虎蔵は体を張ったのだ。もし飲まされたのがひどい毒であれば死んでいた。

「人外に聞いてるんじゃない。何でもわかったような面をしている鶴屋、お前に説明を求めていると言うに。」

もう鶴屋は部屋にいないのである。


「エライ災難でしたね」

 のそのそと着替えを終えると、雑巾を絞りながらの気張った声で影佐は話しかけてきた。(そもそも彼は何を拭いているのか。汚れなど見当たらない。)

「まったくだ」

「体、辛いっスよね」彼は気の毒そうに苦笑する。「精気を抜き取られてますからね。よーするに生命力ですし」

「で、あいつはもう化けてでないのか?」

「ここでは、無理でしょうね。掃除しますし」

「ひょっとして、鶴屋や青沼が助けてくれたのか」

 渦中に放り込んでおいて、「助けた」というのはおかしな話だが。

「まさか」鶴屋の足音が聞こえないのを確認して、声を落とす。「鶴屋の兄さんは、旦那が殺されないことを見越していたんですよ。あの木像に憑いた妖女のセンチメンタルを満たしてやれば大丈夫だって、」

 それにつけて、「ばかな」と呆れるしかない。

「センチメンタル? 呪詛の間違いだろ。あの女は祖父を恨んでいたんだぞ。青沼はあの憎悪を目の当たりにしていないからそんな夢見がちなことを……」

「俺だって根っこじゃそんなこと思ってないッスよ」

 強い口調でかぶせてきた。ほとんど「死ななければおかしい」と言っているようなものだ。自分で言っておきながら、青沼の返事に虎蔵は狼狽する。

 それに釣られて、青沼もハッとした様子で慌てて手を振る。

「あ、いや、死んでもおかしくない危険なことを、人にさせる兄さんがイカれてるって事スよ!」

「まったくだ」

「妖女は旦那を殺すつもりだったけど、ただ単に、力が及ばなくて殺せなかっただけじゃないスか? 俺はそう思いますけど。だから旦那、あんた死んでもおかしくなかったんスよ。鶴屋の兄さんが、平気だって言ったんだから、俺はそれを信じましたけど」

 ぼたぼた、と水滴がバケツに落ちた。限界に近いほど彼の腕は交差している。雑巾が破けやしないだろうか。その彼の横顔をよくよく目を凝らしてみると、頬が赤く腫れていた。まるで打たれたように。

「あの妖女、ここにいる間に何人の人間を狂わせたんスかねぇ」

 声は震えていた。

「おれ、そういう、ひとの人生を狂わせる化け物が許せないんです」

 虎蔵は、すまん、とだけ言った。なぜ自分が謝るのか分からないままにではあったが。すると今度は向こうが慌てて謝ってくる。この応酬のさなかに、鶴屋は帰ってきた。邪魔だといってまとめて追い出された。それから彼が出てくるまで、大黒天の間の襖はなぜかピクリとも動かず、開けられなかった。



◇◆◇



 今回の騒動はもとをただせば仙石竜蔵にいきつく。先代の失態は《どろぼう猫》の失態だ。報酬は無しになった。木像も引き受けることになった。虎蔵の手元に届く頃には、胡散臭い札で厳重に封された木箱になっていた。鶴屋には、「竜蔵に送りつけろ。自分の女の始末は自分でさせろ」と命じられた。

 手続きを済ませ配送屋から出ると、雨が降っていた。彼は傘を忘れたので、頭を鞄で覆いながら駆け出した。今年の梅雨は長そうだ。そんな予感がする。


 余談だが、送りつけた“女”は宛先不明で戻ってきた。どうやら祖父は今、正しく行方不明らしい。その後の木像は、仙石の屋敷に飾られることなくいつの間にか消えていた。もちろん、封を開けてなどいない。

 禄助に問えば、なんとかの一つ覚えのように、「黄泉にいったんです」と繰り返した。


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