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白菊横丁  作者: 黒檀
14/20

十二、 弁天の妖女 中

 

 スクーターにまたがった青沼影佐は、白菊横丁の坂をくだっていく。通り沿いの店からは、細く明かりがもれている。暖かだとはとうてい思えない。不気味であった。橙の灯のもとにいる誰かが、悪意をもってささめくようにも思われた。言葉は足や手を、顔のない頭を生やして彼を追いかけてくる。そんな化物どもから逃げるように、彼はやや前かがみになってハンドルにしがみつく。

 坂も半ばまでおりたころ、連なる店がわずかに途切れる。侵食する森のような木々は、ここに集う欲望と金の気配を覆い隠している。それでも知る者は知っている。秘密めいた導入路の先には、手っ取り早く欲望の成就にありつける不夜城がそびえていることを。

 彼は《弁天》の敷地に足を踏みいれながら、ふと《弁天小僧》をふり返った。

「さっきの千円の釣りは、惜しかったな」

 まったくの無関係に聞こえることを一人ごち、ヘルメットを乱暴にぬいだ。

 勝手知ったる《弁天》の裏口にまわり挨拶を投げかけたが、返事がない。裏口は洗濯場が近い。ゴウン、ゴウンと機械がまわる音はしていても、人がいない。

 影佐は大声で「屋守」を呼んだ。勤め先の屋守は気味が悪くて好きになれなかったが、《弁天》の屋守はことのほか愛らしくて気に入っていた。(不思議なことに、どの店の屋守も共通して十ほどの女の童である。)はたして屋守も出てこない。三度目の正直と口をあけたところ、洗濯物を抱えた下女があらわれたので、彼は空を噛む。

 女は疑り深い目を向けてくる。影佐は彼女に見覚えがなかった。最近雇われたのだろうと察しをつける。

「屋守は、いないの」

「接客中です」何か用か、とそっけない口調で女は聞く。裏口から卒然現れた男には警戒して当たり前だろう。おまけに影佐は若い、年上の女にはなめられもする。

「じゃあ、オヤジは」

「アラ、」下女は目を丸くして口元に手を当てた。「お客様がお見えで、今は『天上の間』にいらっしゃいます」

 お客様、とは鶴屋たちのことだろう。板を打ち合わせただけの簡素な下駄箱には、鶴屋の革靴と虎蔵の草履があった。

「旦那様のお子さんでしたか。失礼致しました」下女は洗濯物を避けるようにして首を曲げ、謝意を示す。

「気にしないで。俺はもう巣立ったし」

 微笑んだ影佐は「愛想が無いよ」と他意なく女をからかい、履物を履物いれに放りこんだ。

 何を優先すべきか迷うらしく、女はまだ彼のかたわらにたたずむ。

「ご案内いたしましょうか」

「屋敷のことは知ってる。自分の仕事を続けなよ」

 苦笑して答えると、女は恐縮して退く。



 広間の手前では、一呼吸おき膝を折りたたんだ。目前の大座敷「天井の間」からは二人の男の話し声がもれ聞こえてくる。後輩の前では先輩風をふかせてはみたが、さすがにこの先は縮こまるしかない。この店の掃除をする以上、どのみち避けられることではなかったが、伊藤と顔を合わせるのは気が重かった。ゆえに、彼はある覚悟をもって敷地に踏みいれていた。その覚悟も、彼の(かんばせ)を情けなくはしても、凛々しくはしない。

 恐る恐る襖を押し開いた。儚げな行灯の光が線から面になり、影佐の存在を明らかにする。前をむいたままの目は、座敷の奥、金無地の四曲一隻の前で胡坐をかく老人を真っ先にとらえた。とたん、蛇に睨まれた蛙のように縮みあがる。それほど翁がむけてきた眼光は鋭かった。

 屋敷が軋むほどの大声で伊藤は怒鳴った。

「この大馬鹿者が」

 地の底から響くような低音と、正面からまともに衝突した。

「いつまで横丁にいる気だ」

 影佐は負けじと、すんません、と声を張る。勢い込んで敷居を越えたが、それはでたらめな所作だった。しかし、作法よりも影佐の言葉遣いに老人は激昂した。

「なんだ、その軟派な発音は」

「おいおい。親子喧嘩はあとにしてくれよ」

 伊藤と影佐の久方ぶりの再会の儀を中断させたのは、鶴屋だ。深いため息をついて、両者を交互に見る。

「まず此方が先だろう。“弁天の妖女”について、詳しいことを聞かせてもらおうか」


◆◇◆


 他方、虎蔵には天下分け目の大合戦が起ころうとしていた。彼は泡立つ風呂にゆでられつつ、同じようにぶくぶくと口からあぶくを発している。水面で割れた水泡から、水滴が飛び散る。隙あらば目に忍び込まんとするそれを、鬱陶しく思いながら呟く。

「なんなのだ、この状況は。上司の命令で男女の契りを結ぶなど、」

 天井から暢気そうにぶらさがっている白熱灯と、それを覆う藍硝子の傘を見上げる。傘の縁からは戦時中のように遮光布が垂れさがり、ともすれば拡散する光を一極に集中させて落としている。落ちたあかりはでこぼこ浮き立つ水面で好き勝手に反射し、思った以上の明るさを見せた。湯気は天井に逃げ、そこの隙間から夜闇にとけているようだった。屋敷に入るまえに見たあの湯気は、あすこから出ていたのだろうか。

「《弁天》は宿屋ですからね。みなさん、お食事もお湯も楽しんでいかれます。今晩は事情が事情ですから、仙石の旦那様には醍醐味を味わってはいただけませんが」

 屋守は脱衣場でごそごそと動きながら宿の説明をする。硝子と湯気のせいか、うつつではない場所から聞こえてくるような声だった。

「《弁天》には六つの部屋がございます。恵比寿の間、大黒天の間、毘沙門天の間、福禄寿の間、寿老人の間、布袋の間。紅一点の弁天さまが六つの男神(へや)を抱いているのです。向かいの《弁天小僧》は、弁天に扮した男が男神を抱えます。ようするに、“女形(おやま)”が男を擁するということです。囲われるのは、いつだって“女”のほうですからね」

 合っているようで的外れなような気がして、彼は首をかしげた。こんな界隈の店の話に頭をひねらせているとは、虎蔵も白菊横丁に馴染んできた証拠である。ここを彩る多くは、気まぐれの産物ていどに違いない。

「でも、お客様は女を選べません。女が男を選ぶのです」

「まさか。それで商売が成り立つのか」

「無粋なことをおっしゃらないでくださいまし。白菊の街にも似たようなお店があるでしょうに」

 全く同じでない、と答えようとしたのだが、気まずくなって口を閉じた。しかし、気になることがまだある。

「ところで、その女たちはどこにいるんだ?」一人も見かけないどころか、自分たち以外の気配さえ感じない。

「どこにもいませんし、どこにでもいます」要領を得ない答えだった。屋守の少女はうふふと笑う。「わからないでしょう。だから、姉様(あねさま)がお待ちになるお部屋に客様をご案内するまでが、わたしのお仕事なのです」

「それじゃ、どんな相手かは、むき合うまで分からないのか」

「モチロン、それが厭だと言われるお得意様もいらっしゃいます。そのような方は、ここを連れ込み宿としてお使いになりますよ。どうです、使い勝手がいいでしょう。仙石の旦那も、《弁天》を以後よしなに」

「ばかをいうなよ」

 清々しくない冗談だ。

 それどころか、彼としては、お膳立てされた場で羽化するのは気分が良くなかった。据え膳食わぬのも、男がすたる。どうしたものかと気をもんでいると、磨り硝子の向こうで少女のかんざしが揺れた。

「……面倒な世になったものです。懐古話ですが、“丘向こう”の男衆は、十七にもなると白菊町まで出てきて般若心経を伝授されたものです」

 なぜ今ここで般若心経などという宗教の話を、聖性を持ち出すのかと虎蔵はまごついた。さらに言えば、ガラス戸を隔てて自分と向き合っている女童(めのわらわ)は、ほんとうに十ほどの娘なのか。老女に諭されているような気にもなってくる。

御篭(オコモリ)の話です」とってつけたように明らかにし、カラリと廊下につながる戸をあける。「それじゃ、浴衣と下着は、籐の籠に入れておきますし」

「下着もあるの」

 半ば呆れて問う。屋守は「はあ、」と抜けた返事を寄越す。当然だが何か、と言わんばかりだ。

「ごゆるりと。」



 それから時を経ずして湯を終えた虎蔵は、女の童が待っているはずの廊下に出てみた。しかし、彼女はいない。おまけに廊下はまったくの暗闇だった。来た時はたしかにあかりが灯っていたはずなのだが。しんと静まり返っている。嬌声など聞こえてきそうにもない宿だ。

 左右を見渡すと、廊下の奥にぼうっと青白い女が立っていた。あやうくぎょっとするところであった。着物を着て、髪を結い上げている。虎蔵としばらく目を合わせると、すっと廊下の角を曲がってしまった。案内役の少女がいないので、ここで頼りにできるのはあの女だろう。虎蔵は女を追いかけて廊下を進んだ。

 また、廊下の突き当たりに女はいた。まるで虎蔵が追ってくるのを待っていたかのようだ。はた、と気付く。アレが鶴屋の言っていた「姐さん」なのではないか。女は階段をのぼる。上階に姿を消してから、「すたん」と襖が閉まる音がした。いよいよ部屋に入ったらしい。虎蔵は生唾を飲み込んだ。どどどと血潮が流れ、ひどく喉が渇く。下腹部がきゅうと縮んで痛くなるようであった。

 階段の先で見つけた部屋は、「大黒天の間」であった。

 

◇◆◇


 鶴屋は腰を浮かせ、行灯の油の残りをたしかめた。とくに何の意味もない行動であったが、場の空気を動かしたに違いなかった。影佐は、鶴屋のそのような妙な働きをよく目にすることがあった。事実、伊藤大吉の表情は怒りから憂いに様変わりする。

「影佐、お前は《弁天小僧(むかい)》に勤めていたのだから知っているだろう。この宿は生けるものと死したるものの、交わる場だ。あるときは客が気配であり、またあるときは抱かれるものが気配となる」

 影佐はぐっと眉間に皺をよせ、不快をあらわにしてうなずいた。

「わしは両者に一夜の悦楽を提供しているに過ぎん。運がよければ、うつろうものは執着をなくしてうつしよを去る。影佐(おまえ)には不愉快でも、これが最も俗であり、穏やかな送りの方だ。俗は時として聖に先んじて救いとなる。なにせ、わしは仏門の僧でもなければ、キリスト者の悪魔祓いでもなく、邪教の魔女でもない」

 最後の言葉は鶴屋に向かって言ったらしい。魔女とはマリのことか、と影佐は納得する。影佐から見れば、マリはまさしく「邪」の字がふさわしい妖婦であったが、鶴屋にとってはそうではあるまい。己の師匠が無下にされているのだが、彼は瞼を伏せて腕を組んだまま黙している。

「そんな気配どもの慰めの場になればいいと思っとるが、時折、度が過ぎる馬鹿者や、悪意が訪れることもある」

 ――風呂から客が消える。

 伊藤はことさら重々しく告げた。

 消えた客は、朝には「大黒天の間」で発見される。伊藤に言わせれば、大黒天の間は特別に豪奢な部屋なので、ふつうの客には使わせない。ゆえに、屋守がそこへ客を案内するはずもない。また屋守に言わせれば、

「客の風呂の出を外で待つのだが、どれほどたとうとも出てこない。湯殿を検めると、すでに誰もいないのだと」

 煙突から煙となって抜け出すのでなければ、出口は屋守が見守るものただ一つしかないはずなのだが。どうやら、伊藤の把握していない悪しき者が、屋守の仕事を阻んでいる。

 何より気がかりであるのは、大黒天の間で発見された客が、決まって生気を失ったようなていであることだ。なにか聞こうともろくすっぽ答えてくれないので、真実はようとして知れない。ただ「また来る」と、うわごとのように繰り返す。その被害にあった客らは、それ以来ここへは来ない。よからぬ種をばら撒いているような気がしてならない、と翁は結んだ。

「被害にあうのは決まってうつしおみ」

 鶴屋は表情を曇らせた。

「どうやって屋守の目を盗んでるかは知らんが、その様子だといわゆる夢魔か」

「かもしれん」

 驚く様子もなく伊藤は請合った。鶴屋は思案するように、顎に拳を当てて黙り込む。

 あのう、と影佐はおそるおそる二人の先達の話の間に割って入った。

「ところで、仙石の旦那は」

 あながち的外れな発言でもないと確信しつつ。案の定、伊藤は口惜しそうに膝をたたいて「そこだ」と言った。

「今、部屋に居るとわかるのなら手の打ちようがあるだろう。今、大黒天の間をこじ開けることはできないのか」

「開けたとして、そのあとはどうする。俺は祓い屋や拝み屋じゃない。せいぜいが部屋の後始末だ」

「謙遜するな」

 長い息をついて、鶴屋は口だけの笑みになって影佐をふり返った。

「つまり、虎蔵には人柱になってもらっている」

 影佐は青ざめて瞬きをひとつ。

「……鶴兄さんってば、最低。俺のことも、いつかそんな風に使い捨てるんですね、」

 彼は愕然と呟いた。


◆◇◆


 虎蔵が「大黒天の間」の襖を開けると、どっと黒いもやが吹き出てきた。眩暈の前触れかと思い、目を閉じて頭を振るとそのもやは消えた。ただ内の襖があるだけだった。

 内の襖を開ければ、白檀の狂おしい香りが漂う。懐かしさとともに染みいる。祖父の虎蔵は、香木を愛する男だったからだ。質のよい香木は恐ろしいほどの高値で取引される。それに見合ってささやかで上品な香りであるべきそれが、ここでは身をつらぬくほど強烈であった。

「そんなところに突っ立っていないで、いらっしゃいよ」

 奥から女の声がした。行灯のわずかな明かりの中、女はすでに万事調いゆったりと膝をくずしていた。後れ毛もなく見事に結い上げられた髪は飴細工か硝子細工のようで、一度ひびが入れば粉々に割れそうであった。緻密な髪に対して衣紋の抜きは艶やかで、場慣れした感を漂わせている。

 虎蔵は思ったよりも落ち着き払っている自分に驚いた。むしろ、なんだか眠たい。場違いな眠気だった。先ほどまでの喉の渇きが嘘のように退いている。

 女は膝をきゅうとこちらに向けた。さもなけば閉じそうになる瞼をこじ開けて、無遠慮に女の容貌を検めた。肌の色は白いが、彫りの深い濃い面立ちだ。日本人離れしているが、美人には相違ない。

 女は伏目がちにして近寄る。白檀の香りが濃くなる。香りは女から発しているようだった。彼女は猪口を差し出した。虎蔵はむっつりと黙ったまま受け取り、ぐいと一口に呑む。

 すると、空になった猪口を見下ろしわずかに驚く。

「旦那様は雨谷の町の焼酎が大嫌いでしょう。越後のお酒をご用意しましたよ」

 この地域で気軽に飲む酒は隣町・雨谷町の焼酎であるし、虎蔵はそれが嫌いなわけではない。それで女の言葉に驚いたのではない。越後の酒といわれて、そうかと頷ける味ではなかった。得体の知れぬものを飲んだ気がした。

「ね。わたし、旦那様のことは何でも知っておりますのよ」

 顔の脇に徳利を持ち上げる女。徳利の腹に大きく虫食いのように穴が開いている。よく見るとポケット状で、そこに氷が入っている。

「もう一口いかが」

 いらない、と言おうとしたがろれつが回らなかった。わけのわからない音になって、自分の耳にも入ってこなかった。猪口をつき返した腕が、蛇のようにうねりだした。視界が回っている。

 ニ、と歯をむき出しにして笑った女の顔がぐにゃりと歪む。目は一切笑っていない。

 ――まさか。

 酒を風呂上りに呑んだからといって。たった一口で、たった一瞬で酔うはずが無い。何かを盛られたのだ。

 ――まずい。

 妙にハッキリした部分の意識はそう叫んでいるのだが、体がいうことをきかない。そのまま仰向けに倒れこんでしまった。麻痺した感覚の身体に、重みが乗るのがわかる。同時に、先に見た黒い煙が視界を覆っていく。おまけに眠気も強くなってきた。

「竜蔵さま。わたしが誰だかわかって」

 女はそんなことを言った気がする。

「会いに来てくださって、嬉しいわ。でも、あなたはわたしを捨てた。あの女ばかり可愛がって、赦せない」

 彼女の冷たい手が彼の浴衣の首元を剥いていく。その一方、虎蔵は深い眠りの海に落ちていった。


◇◆◇


 鶴屋は不謹慎にも、ふきだして笑った。とたんに影佐は、またいつものようにからかわれたのだと察して頬が熱くなる。

「心配するな。あらかた見当はついてるんだ。“ジジイども”の裏話も知っている。伊藤の旦那はこの屋敷に引きこもっていてとうに麻痺してるだろうが、カゲ、お前は外から来たんだ。屋敷にあがるときに、異様なまでのそれに気付かなかったか」 

 何を、とうろたえながら影佐はあたりを見渡した。別段変わったものはいない。あたりに気配もいない。鶴屋は蘇芳の瞳をすっと細めて微笑んだ。

「目に見えないものだ。……香りだよ」


※物語の演出上、正しい意味や形で用いていない語や、造語があります。ご了承ください。本編独自の解釈をしております。

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