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白菊横丁  作者: 黒檀
12/20

対話篇、あるいは夢一夜

 

 真面目な夢を見た。

 

 ガラン、ガランと本坪鈴が鳴っている。しつこく何時(いつ)までも鳴っている。どれほど切実な願いがあるというのか。多く鈴を鳴らして呼ぼうとも、神がその重い腰をあげるとは限らぬ。五月蝿いと耳をふさぐやも知れぬ。居留守は神の専売特許だ。霊験のあらわれるところなど、今までどこに在ったというのか。

 ちりん、ちりんと小銭が賽銭箱に放り込まれる。この人間は、参拝の正式に従う気などさらさらないようだった。ただ、必死なのだ。このようなことにすがろうとも、何の意味もないことだと思わないのか。

 ぶつり、ぶつりとうわごとのような祈りが繰り返される。いや、祈りと言うべきではないのかもしれない。モット、おぞましい何かだ。痙攣するように、女の口の端はピクリピクリと動いた。その厭な隙間から唾があふれて泡になっている。

 ただ、やかましかった。穏やかな眠りを邪魔されたのが、疎ましかった。ハッキリと目が覚めてしまった。着物の埃を払いながら私は立ちあがった。

 女が去ったあと、境内には血がおちている。道標のように、血がおちている。鈴緒にも、べったりと血がはりついている。まだ乾いていない。女は狂気にあった。……いや、あれは女だったか? 男であったような気もしだした。それとも、童だったか。一寸前のことだというのに、そこに居た者の姿かたちをすっかり忘れ去ってしまった。

 鳥居の足元に立ち、参道を見おろす。石階段の脇は森で、視界を深い緑が多くをしめる。参道に連なる店店の屋根の連なりはよく見えた。陽の光をすいこむ、沈うつな色の瓦屋根。


 突然、ごうと風が吹く。思わず目元を腕で護った。そのとき、妙な既視感を覚えた。このあと自分が、どのほうを向いて、何を喋るのかがすうと知れた。

 先ず、後ろをふり向く。狛犬ならぬ、招き猫を目にするはずだ。続いて、上方からの「にゃあ」という猫の声。鳥居の上。一体全体、どうしてそのような場所に登ることができたのか。頭上の太陽の眩しさに顔をしかめながら、ほとんど光に透けている銀色の猫を認めた。野良猫闊歩する界隈で、彼女は際立って・神聖に美しい。

「降りられなくなったのか」

 彼女はぶるぶる震えながら、にゃあにゃあと喚いている。心細かろう。何とかしてやりたい。

「待っていろ、今、梯子をもってこよう」

 石階段をおり、参道を南へとくだる。

 若い娘とすれちがった。彼女は瞼を伏せがちにして私にお辞儀をした。参拝客かと思えば、そうでもない。女は道沿いの茶店の中に消えた。

 それからしばらく下った。藍の暖簾が出た店の戸をあけた。かんからかんと竹の管の音が響く。土間に下駄を脱ぎ捨ててあがる。

「まあ、坊ちゃんったら、はしたない」

 顔をあげると、上がり框に盛り(・・)の女がいた。上品な柳色の長着に千歳緑の帯をしめている。私の下品を叱る表情だ。済まなかったと履物を直す。女はにこりと微笑んだ。

「あら、珍しく素直でいらっしゃいますね」

「梯子を出してくれ」

 女は目を丸くし、そのあとで眉根をよせた。

「猫が、鳥居の上で震えている」

「……千歳さんを呼んできましょう」

 彼女はしまいまで聞いてから、慌てて走り去る。小またで走るので、ぱたぱたとせわしない足音が響く。また直ぐ外へ出るだろう、私は再び履物に足を通した。

 一分と待たず、二つのあわただしい足音が戻ってくる。先ほどの女に従って、詰襟の青年が姿を現した。きりとして上品な顔立ちだ。

「どうしました、坊ちゃん」

 物腰も目つきも、穏やかな人間だった。烏のように黒い髪のくせに、虹彩の色だけが厭に薄い。色素の偏りが奇妙であった。

「猫が鳥居に登って降りられないと喚いている。梯子をつかって、おろしてやりたい」

 男は困惑の息をつく。

「またですか、あのきかん坊は」

 靴箱からブーツを引っ張り出すと、式台に腰をおろして足をそこへつっこむ。その姿勢のまま、こちらを見あげた。

「私の我儘で、何時(いつ)も迷惑をおかけして済みません」

 詰襟の青年は走り出す。そのあとを追うと、彼はふりかえってにこりと微笑んむ。「心強いです」と頭をなでる。馬鹿なことを言う。私が彼についていったところで、何の助力になろう。

 梯子を抱えれば、参道の北端の神社へと急く。えっちらおっちらと坂を駆けあがり、石階段を登る。神社の鳥居が見えてきた。石階段の両脇に広がる森は、風でさわさわと鳴る。あいも変わらず、猫はいた。そのさまを見て、男は「よかった」などと呟く。ころりと落ちていなくてよかった、ということであろう。

「銀次郎、大人しくしていろ」

 粗末な鳥居に梯子をかけながら、男は静かに言った。救援隊の到着に気付いた猫は、恐ろしさのなかでも僅かに甘えた声色で鳴きはじめた。

 梯子をのぼり終えても、鳥居の頂上にはまだ届かない。ここで猫が動けるはずがない。男は、そろそろと手を伸ばした。何ごとか囁いている。するとどうだろう、猫はしゃんと立ったではないか。水のうえを歩くような静けさで鳥居の端、男の手元までいく。

 さあ来いと手を伸ばす男に、なんと飛びかかった。

「あッ、」

 猫は青年の腕のなかにおさまってしまった。男は、幸せそうに猫の薄鼠の毛に頬を摺り寄せる。猫はぐにゃぐにゃともがいている。私は、阿呆のように見とれて口をあけていた。


 また、ごうと風が吹いた。

「親ばかねぇ」

 という声がした。

 反応するよりも早く、薬品臭い手がうなじをなでる。それは氷のように冷たく、私の体をびくりと痙攣させた。傍に現れたのは、外国の女だった。素手でふれられたような気がしたのだが、その細指は白手袋に包まれていた。実際的な効果を期待できないほど、笠の小さなパラソルを手にしている。ランプシェードほどの大きさしかない。

「猫や犬は、時として実子よりも愛しいんだわ」

 女はどことなく、哀愁漂わせて呟いた。黙っていると、「ねえ、そう思わない」と尋ねてくる。「左様で」と返事をしてやると、その横顔はニッコリ、嬉しそうに頷いた。

「哀しいことよ」

 女は白昼の神社には相応しくない。レースやフリルで装飾された小さなボンネットが、結われた髪にのる。ウエスト・ラインの高いドレスは女の色気を閉じ込め、また、シトシトと溢れさせてもいる。

 前触れなく、彼女はすっと腕を地面と平行になる位置まで持ち上げた。指はぴんと張って、何物かを指し示す。

「あすこ。《幻想写真館》が、あたしの店よ」

 道理で手が薬品臭いわけだと納得する。

「この国じゃ、寫眞(フォトグラフ)ってね、マコトをウツスと書くでしょう。幻をウツスことだって、できるのに」

 つまらなそうに言うと、くるくると手元のパラソルを回転させた。傘の縁のフリンジがゆれる。私には、それが空飛ぶ道具だと思われてしかたない。きっと、彼女は異国から飛んできたのだ。

 彼女がくるくる回すパラソルを見ているうちに段々眠たくなってきて、ついに瞼をとじてしまった。

 何が「哀しいこと」なのか、ついぞ聞きそびれた。




◇◆◇




《どろぼう猫》には、たった一部屋だが洋間がある。それは二階の書斎であった。鶴の描かれた襖をひらくと、もう一つ、板チョコレートに似た開き戸があらわれる。これら二つの境を越えねば、書斎にはいれない。

 今晩、《どろぼう猫》の書斎には、銀次郎と鶴屋と、女がいる。実質的に、喋るのは鶴屋と女だけなので、二人だけといっていい。女は銀次郎を腕にだいて、赤子をあやすように体をゆらしている。聖母のような仕草には相応しからぬ、豪勢な体つきの女だった。肥えているのではない。婀娜っぽく、肉感的であった。

「今度の仙石のは、可愛いのねぇ」

「つまり、未熟ってことだよ」

 鶴屋はいちいちいらぬ補足をする。

「厭だ、意地悪な言い方ね」

 彼女は責めるように、ソファに座る鶴屋をにらむ。銀次郎を正面の事務机におろし、自分は鶴屋の真向かいに腰をおろした。極端な丈のリトル・ブラック・ドレスからは、妖艶な足が伸びている。円熟した彼女には、適切でない短さかもしれない。幼く見えてしまう。

 それをさしひいても、その漂う色香はおさえられない。長く豊かなカールをもった髪は、無造作に胸までたれている。その何束かは、豊満な胸の谷間にはいりこんでいる。目や口は潤い、何かを語りたそうな曲線を湛えている。

「……あのねエ、鶴屋。私も、挨拶回りなんて面倒だと思うわ」

「ならいいだろ。どうせこの横丁は不和なんだ」

「でもね、しきたりでしょう? 仙石の代変わりを知らせるくらいはしなさいな。挨拶をしないでいて悪く思われるのは、あんたでも銀次郎でもなくて、仙石なのよ。駄目よ、投げやりなのは。私の母国では、しきたりと伝統を重んじるの」

 鶴屋はぴくりと神経質に瞼をうごかした。

「違うだろ。あんたの故郷は、そういう人間中心的な価値観(スタイル)を振りかざす連中に蹂躙された土地だろう。一緒くたにして語るなよ」

「そんな昔のことなんて、知らないわ。語ってもいない」

 鶴屋はスーツの懐からシガレット・ケースをとりだしては、一本を彼女に差し出した。彼女は人差し指と中指で受け取ると、含み笑いをする。おもむろにマッチの火をつける。手で覆いを作りながら、彼女にさしだす。彼女は腰をたおして煙草に火をつける。女を黙らせるのにとった、苦肉の策だった。

「飲み屋連中はともかく、せめて《弁天》には挨拶しなさいな。青猫ちゃんの手前、」 

「青猫って呼ぶと、影佐は怒るぞ。ただでさえ、あいつはあんたが嫌いなんだ」

 女の言葉をさえぎって、鶴屋は口をはさんだ。女は顔をしかめて身をそらせる。

「まあ、酷い。……『青猫』って、朔太郎からとったのよ。素敵な愛称じゃない」

「あいつにとっては、喜ばしくないんだよ」

「ア。話を変えないで頂戴。とにかく、《弁天》の旦那には挨拶なさい」

 鶴屋は、しばらく黙って手元を見ていた。

「……まったく、師匠は口うるさくてかなわない」

 煙を吐き出したマリは、赤々とした唇を曲げた。

「独り立ちしたら、師匠と呼ぶのはおやめ。マダム・マリとおよびなさいな」

「独り立ちした弟子のそばにいつまでも留まっているのはどうかと思うぜ、マリ」

「あら。でも、私は言ったわよ?」 

 煙草の灰を、硝子の皿にたんたんと落とす。ゴミのはずの灰は、砂金のように光りだした。

「あなたの恋の決着がつくまでは、ずっと見守るわ、ってね」

 鶴屋はもはやマリを見てなどいなかった。出窓に移り、毛並みを整えている銀次郎を見ているだけであった。その表情には、まれにみる優しさがあった。

 月の光を受けると、銀次郎は青色に照った。ロシアン・ブルー。



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