十、 宿借 丙
深夜十二時を回った頃、虎蔵は再び《雨谷第一男子寮》に向かう。女曰く、今晩の青沼の帰宅時間は十二時とのこと。
禄助は同行すると申し出たが、正体不明の女を屋敷に一人残しておくほうが危険に思えた。留守を命じれば、彼は素直に従った。
白菊町の夜は相変わらずだ。白菊横丁を抱えるくらいなので、あけっぴろげな歓楽街も存在している。ゲームセンターには学生たちが集い、如何わしい不夜城では、老若男女が一時の愛を語らう。
「白菊町は誘惑の街たれ」。
それらの経済活動の一端を担っていたのは仙石家だ。街がこのように形成される年月を、仙石の当主は見守ってきたのだと祖父は言った。「挙句、出来上がったのがこのざまか」とはさすがにまだ言えていない。いつかは言う。
緩やかな高みを車で数分も下れば、その先は学問関係の建物が並ぶ雨谷町だ。《国立雨谷大学》に《私立谷相高校》。焼酎を製造している工場も近い。酒の名産地でありつつ若者の集う町である雨谷町と、歓楽街を抱く白菊町とは、水魚の交わりである。
……というのは観光戦略的な建前で、その裏、両者が両者とも相方に舌を出しているということは言を俟たない。せっかく酒が売れても、利の多くは白菊町の酒場に落ちる。なにより、学生たちがよからぬ事をたくらむ場を与えているという理由で、あちらは白菊町を疎んじている。他方、白菊町も白菊町で無粋な妬みがある。学問と名酒を誇りに、まっとうらしさを貫く“丘向こう”が気に食わないのだ。
この件は、雨谷町との関係だけでないところが悩ましい。接している町はまだあるのだ。白菊町は地区の癌だと罵られもする。
このような多方面との調整を長きにわたって担っていたのが祖父の竜蔵だという。自明のことだが、虎蔵は、祖父の後継者としてふさわしい器ではない。政治的な期待を丁重に退け、仙石の繁栄(ひいては白菊の繁栄)を彼の代で終息させようと目論んでいるからだ。彼が出しゃばらずとも、祖父の後釜に座りたがる物好きな人間は数多くいた。そもそも、若輩が座るにはその席は豪勢すぎた。彼は座りもせずに快く席を明け渡し、今の場所であくせくしている。
面倒な代償と負担を背負いつつ取り返した金を、後生大事に抱えて夜の街を行くわけだ。
夜の警備は手薄とみえて、管理人室の中の人間は眠りこけていた。一応、訪問録に名を記して青沼の部屋に向かった。深夜だというのに、一階にはまだ人が居た。廊下や談話室で話している学生もいる。部外者の、しかも和服姿の虎蔵を不審がる者は居なかった。むしろ、丁寧に挨拶をされてしまう。
青沼の部屋だけは、とても静かだった。働き疲れて既に寝てしまっているのかもしれない。控えめに戸を打ったが返事が無い。そのわりに、鍵は開きっぱなしだ。無用心この上ない。
そっと音を立てぬよう開けると、揺れる蝋燭の火が目に入る。
「――トラか、」
奥まった暗がりから、聞き慣れた厭な声が発された。案の定、蘇芳の瞳が猫のように光る。
僅かに開いた窓から闇夜の風が忍び込み、茜色の炎を揺らす。すると、その男の姿も、幻のように浮き上がったり消えたりする。
「……ああ、青沼の部屋は本当に怪奇部屋だな。わけのわからない奴ばかり出てくる、」
虎蔵は呻きながら頭を振った。
例のごとく、夜闇に溶けるような墨色の着物。鶴屋が窓を背にして座っていたのだ。
「仙石の旦那ぁ! こんばんわッス」
戸口に背を向け、鶴屋と向き合っているのが、この部屋の本当の主である青沼影佐だ。伽羅色(と表すと上品そうだが、そうでもない)の髪が蝋燭の火を受け、橙の色味を強めている。連絡もなしに現れたというのに、青沼も鶴屋も、戸惑いなく虎蔵を招き入れた。ということは、どうやら自分は予定調和的に動いたらしい。
「鶴屋さんの言ったとおり、マジで旦那も来ましたね」
青沼ははしゃいだ様子で顔をほころばせている。どことなく油の匂いがするのは、ラーメン屋帰りだからか。店の名が印刷されたTシャツに、ジーンズを履いている。体つきがいいので、それだけの格好でも貧相にならない男だった。青沼の能天気も気に障るが、問題は鶴屋だ。
「おい、鶴屋。説明しろ」
一回転して、虎蔵を面倒に巻き込んだ張本人は彼に相違ない。いきり立って詰め寄ると、鶴屋は笑い声になった。彼の珍しい上機嫌が、虎蔵の勢いを削ぐ。
「その封筒は渡るべくして女の手に渡り、戻るべくして俺の手に戻るんだよ」
包括的で、それでいて何も説明していない。
昼間のこと――金を騙し取られたことや、女を引き受けたこと。ぜんぶ承知なのか。すべての行き違いは鶴屋の足りない説明から生じたものだというのに、この飄々とした答え。だらだらと汗が出てくる。
「……どこからどこまでがあんたの脚本なんだ」
寒気のするほど端麗な鶴屋には、備わるべくして、怜悧さが備わっている。明朗でない彼の腹の中を思えば、敵うはずもないと情けなくなる。
「大層なことじゃないだろう。お前が阿呆で愚直であることと、女という存在が持つ計算高さを信じていただけだ」
「ごまかすなよ。はじめっから、全部私になすりつけようとしたんだろう」
「おまえに、じゃない」
彼さえ正しく事情を話してくれていれば、すべてまともに進んだのではないかとも思ったが、考え違いだ。計画を詳細に聞かされて、それを自分が承知するはずもない。「気配」を引き受けるなど真っ平ごめんだった。
「もし、私が女に金を渡したまま、取り返さなかったらどうするつもりだったんだ」
「心配ない。トラ、封筒を開けてみろ」
封筒の中身は札束ではなく、護符の束だった。時間稼ぎの細工だ、と鶴屋は言う。彼は着物の懐から、同じような封筒を抜き出して青沼に手渡した。
「これが本物だ。うまく騙せたみたいだな」
「ばかな。それがバレたらどうするつもりだったんだ」
「それも心配ない」
鶴屋は虎蔵をじっと見ている。この目が厭なのだ。何もかも見越していた、と言わんばかりの瞳が。虎蔵は知らぬ振りをした。そこまで自惚れたつもりはない。屋守の言うような、慈悲という怠惰につけ込まれただけだ。
「純情ぶるなよな。少しは自覚があるくせに」
鶴屋は、脱ぎ捨てられた白衣やTシャツを床から拾った。あの女が着ていた衣類だ。もともとは青沼が着古した衣類だろう。“抜け殻”が落ちていることの意味を承知して、鶴屋は含みのある笑みを浮かべた。疚しいことなどしていないのに、まるで同一の恋人を共有しているかのように気まずくなった。虎蔵のうろたえる様子を面白がり、ばかだなと揶揄する。しかめっ面が多いものと思っていたが、この男はよく笑った。ひょっとすれば、単なる面白主義者なのだ。
虎蔵が答えに窮しているのを、青沼はきょとんとした顔で見ている。
「え、今の何すか。……ひょっとして、俺だけ蚊帳の外的な? 当事者なのに」
「化けものの事情なんかに拘うなよ、特にお前は。消えたんだからそれでいいだろう。一匹一匹気にしてたら身が持たない、」
はあ。と納得しかねる顔で頷く。青沼はいつだって鶴屋にいいようにあしらわれている。青沼は、虎蔵よりも遥かに世間に通じている男なのだが。
それとは別に、鶴屋の言うことは尤もだと虎蔵は思った。「一匹一匹」の事情を追求する場合ではないほど多くの気配が、まだここに居座っているからだ。
「鶴屋さん、あいつがどんな化けものなのか知ってたんスか」
「おまえ自身にも心当りがあるだろう。惚れた男の家に勝手に転がり込むやつ、」
「アハハ。押しかけ女房ッすか。でも彼女は家事はしねーし、慰めもしてくれないッスよ。器量もよくないし。ありゃただの寄生虫というか寄居虫というか……、」
「だとよ、トラ」
鶴屋は不意に虎蔵に話をふる。
「何の話だ」
「あの女がろくでもない化けものだって話ですよ」
「ん。ああ、その通りだ」
青沼を肯定すると、鶴屋は意外そうに背を伸ばして壁に寄りかかった。
「なんだ、俺はてっきり、虎蔵もあの女を気に入ったのかと思った」
「ばかを言うなよ」
「……ならいいけどな。今頃、あの女は犬の餌だろうから」
今度は真面目な顔で、屋守みたいなことを言う。
「――あ。そういうことっすか」
青沼はぽん、と手を打った。鶴屋の言葉の意味がわからないのは、虎蔵だけらしい。
鶴屋は着物の裾を払うと、ゆっくりと立ち上がる。
「さて、始めるか。トラ、邪魔だから帰れ」
虎蔵が首をかしげると、いつもの不機嫌面になる。(彼の主観による)面白くない場面で「何」を問われるのが嫌いなのだろう。汲み取って欲しいわけでもないことも明白だ。ただ従えと。彼と、彼に命令される者との間には超えがたき境界がある。
「どういうわけか、影佐は気配に愛されるんだよ。しかも、たちの悪いのばっかり」
「鶴屋さんの手で定期的に掃除してもらわないと、俺、“こいつら”に連れていかれます」
「俺よりも師匠に任せた方が確実だけどな」
「それ言ったらおしまいッスよ。《どろぼう猫》の存在意義がなくなる。それに俺はマリさんがニガテって言ってるじゃないスか。妖婦ですよ、あの人は」
虎蔵は、あんな靄がどうやってお前を連れて行くんだと一笑に付したかったが、青沼の表情を見てやめた。口元は会話のために笑っているが、瞳はただならぬ怒気をはらんでいる。この若者は、化けもの一般に対して並々ならぬ感情があると見える。
「……誰も彼もが、お前みたいにふてぶてしい人間だと思うなよ」
訳知り顔の鶴屋は厭味を放ち、野良猫を追い出すかのように虎蔵を排した。
なるほど。「六号室が出る」のではなくて、「青沼が居るから出る」、が真実だ。
◆◇◆
丁
翌朝、目を覚ますといつものように禄助が障子を開けにくる。
「女はちゃんと寝たか?」
虎蔵の起き抜けの質問に、彼は怪訝な顔をする。遣り戸に掛けている手が止まる。畳に落ちた禄助の影もぴたりと静まった。
「――ああ、あの方ですか。彼女は、旦那様がご不在のときにお帰りになられました」
青沼のところか、と聞くと、いいえと首を振る。
「黄泉ですよ」
厠ですよ、と答えるのと変わらない気軽さで告げる。
最後に、虎蔵の枕元に置かれた切子硝子の水差しから、つがいの器に水を注ぐ。それを虎蔵に手渡しながら、禄助はつと外を眺めた。
「……今日も雨ですか、」
出勤前に屋敷中を見て回ったが、あの女の姿はなかった。
その代わり、彼女に与えたはずの古い浴衣が、仏間にぽつねんと落ちていた。それこそが、彼女がこの仮宿を辞したという証。わざわざ長持から引っ張り出した着物だった。
僅かに落胆する。思っていたよりも、虎蔵は女の「仮泊」を快く思っていたらしい。(本人に確かめてはいないが)彼女が仙石の屋敷に移った理由が理由なだけに、なんとなく腑におちない。
そこでふと、鶴屋の言葉が頭を過ぎる。雨がおもての岩を打つ音は、獣が肉を咀嚼する音か。
「……犬の餌、」
食べかすは、どこにも落ちていない。