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白菊横丁  作者: 黒檀
10/20

九、 宿借 乙

 青沼の住む学生寮は、《雨谷第一男子寮》といった。

 

 いやに陰気な名であり、実際、建物はしみったれている。「第一」と冠するだけに、雨谷大学の有する寮の中でも最も古い。雨の浸入を容易に許すであろう、脆弱な要塞だ。木の表札に記されたその名も、雨露にされされてすっかり劣化している。しかし、近々改装が決まっているらしいので、このノスタルジックな外装も見られなくなることだろう。

 庭にはバーベキューの設備が揃い、家庭菜園の真似事の跡地がある。こうした賑々しさを目に入れれば、若者の住処だと納得するのである。


(あん)ちゃん、何の用だ」

 管理人は年老いた男で、鼻をつく臭気を発する作業服を着ていた。虎蔵が訪問者名簿に名を記しているのを、濁った瞳で見ている。深いしわと口が見分けがつかない。なんとなく決まり悪くて、桃色電話に視線を流していたりした。ずんぐりむっくりとした形状と、ぼやけた色が妙に愛らしい。

「……ああ、それ、壊れてんだ」

 なら何故置いたままにしておくのか。

「うちの店のアルバイトの子に用があります。六号室の青沼影佐(あおぬまかげさ)、」

 管理人は古ぼけた大時計を見上げる。時刻はまだ午後二時を過ぎたほどだ。振り子は気だるげに左右に揺れて時を刻んでいる。それを覆うガラス窓には、「白菊工務店寄贈」と読める金色の文字がある。が、半分は剥げ落ちている。

 彼の背後――管理人室の内部に差し込む光は、ガラス窓のほんのりとした汚れを透過して黄色い。室内の埃がキラリ・キラリと反射して、鼻の奥がむず痒くなる。

「……まだ帰ってこねえよ。青沼君は、暇さえありゃそこかしこで働いてッからな、」

 虎蔵は、へえと驚きを口にした。(実際に見たわけではないが)あれだけの大金を《どろぼう猫》で稼いでおきながら、まだ働くというのか。

 男は目を妖しく光らせた。

「いまどきの若いのにしちゃ、根性がある。あんたも雇用主の端くれなら、今から目つけておくといい。いい働き手になるぞ」

「いや、私は――、」

 ただのつかいッ走りだと否定しようとするが、管理人は全く聞かない。身を乗り出して、耳を貸せと言っている。

「実を言うとな、青沼くんの部屋は“出る”んだよ……」

 何が、と聞くほど間抜けではない。

「まァ、俺ァ見たことねえけどな。そりゃさすがに噂にしても、妙なことが起こるのには違いねえ。気にしてねえのは当人ぐらいのもんでさ。根性がある上に、肝っ玉も据わってるときた」

 彼の口からは甘ったるい缶珈琲の匂いがした。午後の気だるさと屋敷の埃っぽさがあいまって、厭に覇気を無くす。

「……奴を買いかぶりすぎですよ」


 それからたっぷり数分間は、管理人の世間話に付き合わされた。どうにか切り抜けて青沼の部屋へ向かう時には、腕時計の針は二時半を指していた。

 玄関から一歩奥に踏み出すと、さすが男の館、独特の匂いが木にしみ込んでいる。階段は色を失ってほぼ黒であり、足を乗せれば板はギイギイと鳴く。角という角には細かなゴミが溜まり、掃除の適当さが見て取れる。踊り場の窓ガラスには、拭き掃除をした際の筋が白く残っている。掃除も入寮者たち自身で済ませているのだろう。

《雨谷第一男子寮》は、容量も他の寮に比べ少ないと聞いていた。二階建ての木造で、部屋も計六つ。それでも一部屋には二人程度が収められているのだろう。それらは中央の階段を挟んで左右、すべて南側に並んでいる。どの部屋も平等に同じ大きさだ。一階には食堂や風呂場、炊事場などがある。

 青沼の使用している六号室は東端にあった。名札を見る限り、青沼一人で使用しているようだ。南東の角部屋を独り占めできるとは、ありがたいことに決まっている。しかし、姿は隠しているが、気配はある。

 青沼が帰ってきたときのことを考え、とりあえず伝言を戸の隙間に挟み込むことにした。紙片を差し込むや否や、それはひょいと内側に吸い込まれた。まるで裡に居る誰かが、引っこ抜くように。

「青沼、居るのか」

 ドアに鍵はかかっていなかった。一瞬は躊躇したが、戸を開け放っていた。

 ところが、またしても顔を合わせたのは青沼ではなかった。

 好機なのか、例の金を奪い取った女学生だ。驚きのあまり口を開けたままにしている虎蔵であったが、女は一切の罪悪感も見せずに頭などを掻いている。しまいには「さっさと入れ」と導き入れ、家人さながらの振る舞いもして見せた。

「やっぱり来たんだね、あんた」

 女は妙に楽しそうだ。騙したことへの意識はあるのか。

 青沼の部屋は意外にも清潔だった。畳の隙間には塵も無い。廊下との差異が大きすぎてうろたえる。布団と学習机、本棚など、必要最低限の物しかない。普段のちゃらちゃらした格好からは予想もつかない。

「青沼ならまだだよ。今日の午後はラーメン屋でバイトだ」

 部屋に見とれている場合ではなかった。

「お前、どうしてここにいるんだ」

「ここは私の家だから」

「……いつから」

「一ヶ月前」

 話がかみ合っていない。女はふてぶてしい態度で胡坐を掻き、仁王立ちの虎蔵を見上げている。

「お前は自分でここが青沼の部屋だといっただろう。第一、ここは男子寮だ」

「じゃあ、言い方を変えよう。青沼が、私の家だ」

 余計にややこしくなった。恋人の類、そういう意味だろうか。そう考えておきながら、否、と打ち消す。この女が青沼の好みとは思えない。青沼は、顔という細部に拘らず、体という全体を見る男だ。

 とはいえ、青沼との関係を考慮している場合ではない。金を取り戻すだけだ。余計なことを考えるから、いつも仕事をしくじるのだ。

「百歩譲って、お前がここに進入しているのはいい。兎にも角にも、さっき渡した茶封筒を返してくれないか」

「どうして」

「あれは、青沼のものだから。中を見ていないからはっきりしたことは言えないけど、たぶん、給料なんだ」 

 そう切り出したとたん、女の瞳は猛々しい獅子のものへと変わる。気圧され、前言撤回したくなるほどの。盗人猛々しいとはこのことか。

「あれは私のものだよ」

「おまえは伝票で私を騙そうとした。信用できない人間に渡せるわけがないだろう」

「約束を反故にする気、」

 青沼とこの女との間にどんな約束があろうとも、関係がない。むしろ、そのもつれに巻き込まれたことが呪わしい。

「たとえあんたが青沼に渡しても、青沼は私に渡すよ。だってこれは、青沼が私にくれるはずの駄賃だから」

「おまえ、ヒモか」

 それなら尚更渡しておくわけにもいくまい。二進も三進もいかず、二人はにらみ合う。お互いに眉間が疲れてくると、女は含みのある笑みを浮かべた。

「妥協案が、あるんだけど」

 急にたおやかな表情になって見上げてくる。厭な予感がする。

「……金を返せば、代わりにあんたが私を養ってくれる。私はあんたでも構わない」

 目線はまっすぐこちらに向けられたままだ。冗談ではないらしい。

「青沼は、おまえが居なくなって寂しがらないのか」

「あいつは、私のことを見えないふりするんだ」

 切ないことを、なんでもないような顔で言ってのける。ますます二人の関係がわからなくなる。とにかく、彼らにさしたる絆は無いと見えた。

 ――しかし、である。いけしゃあしゃあと言うことか。と、ため息を禁じえない。

「……それで解決するなら、それでいい。仙石の屋敷は、部屋も蓄えも腐るほどあるんだ、」

 女はにやり、と厭な笑みを浮かべ立ち上がったかと思うと、卒然白衣を脱ぎ捨てた。そこに金を仕舞っていたのだろう、地に着くときに重みのある音がした。なにごとか、と思うまもなくTシャツも下も脱ぎ、十秒と経たぬうちに一糸纏わぬ姿と成り果ててしまった。衝撃のあまり、虎蔵が腰を抜かしそうになったのも無理からぬ話だ。

「なんのつもりだ。住まわせるとは言ったが、他意はない、本当だ」

 これではまるで、体で対価を払えと受け取られてしまったかのようだ。そんな雄雄しい要求を掲げられるほどの剛毅が、虎蔵にあるはずもない。

「どんくさいな。早く脱いで」

 なるべく女を目に入れないように顔を背けたのに、彼女は虎蔵の襟首をつかんでゆすり始めた。はじめに思ったとおり、彼女は裸に羞恥心がない。

「なに恥らってるんだよ。ばかだね。あんたの古服を寄越せって言ってるの」

「え? ……あ、わかった」

 虎蔵はスーツの上着を脱いで羽織らせたが、彼女は一度袖を通したあと、不満げに脱ぎ捨てた。

「これじゃ駄目。新しすぎて馴染めない。家になら古服があるでしょう。あんたの家に連れて行ってよ」

 どういう理屈だ、と突っかかるのはやめた。どうやらまともでない。

「そのままの格好では外に出られないに決まってるだろう」

 ばかだねえ、誰も見ないよ。と笑う。じりじりと背を向けた虎蔵の耳元で女はささやく。

「……ねえ、気付いてた。私と話せる人間って、そんなに居ないんだ」

 女は、虎蔵の肩に手を回した。負ぶって運べということらしい。


 仰天だ。女には体重というものが存在しなかった。

 ようやく理解できた。青沼は、この女に憑かれていたのだ。



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