九、 宿借 乙
青沼の住む学生寮は、《雨谷第一男子寮》といった。
いやに陰気な名であり、実際、建物はしみったれている。「第一」と冠するだけに、雨谷大学の有する寮の中でも最も古い。雨の浸入を容易に許すであろう、脆弱な要塞だ。木の表札に記されたその名も、雨露にされされてすっかり劣化している。しかし、近々改装が決まっているらしいので、このノスタルジックな外装も見られなくなることだろう。
庭にはバーベキューの設備が揃い、家庭菜園の真似事の跡地がある。こうした賑々しさを目に入れれば、若者の住処だと納得するのである。
「兄ちゃん、何の用だ」
管理人は年老いた男で、鼻をつく臭気を発する作業服を着ていた。虎蔵が訪問者名簿に名を記しているのを、濁った瞳で見ている。深いしわと口が見分けがつかない。なんとなく決まり悪くて、桃色電話に視線を流していたりした。ずんぐりむっくりとした形状と、ぼやけた色が妙に愛らしい。
「……ああ、それ、壊れてんだ」
なら何故置いたままにしておくのか。
「うちの店のアルバイトの子に用があります。六号室の青沼影佐、」
管理人は古ぼけた大時計を見上げる。時刻はまだ午後二時を過ぎたほどだ。振り子は気だるげに左右に揺れて時を刻んでいる。それを覆うガラス窓には、「白菊工務店寄贈」と読める金色の文字がある。が、半分は剥げ落ちている。
彼の背後――管理人室の内部に差し込む光は、ガラス窓のほんのりとした汚れを透過して黄色い。室内の埃がキラリ・キラリと反射して、鼻の奥がむず痒くなる。
「……まだ帰ってこねえよ。青沼君は、暇さえありゃそこかしこで働いてッからな、」
虎蔵は、へえと驚きを口にした。(実際に見たわけではないが)あれだけの大金を《どろぼう猫》で稼いでおきながら、まだ働くというのか。
男は目を妖しく光らせた。
「いまどきの若いのにしちゃ、根性がある。あんたも雇用主の端くれなら、今から目つけておくといい。いい働き手になるぞ」
「いや、私は――、」
ただのつかいッ走りだと否定しようとするが、管理人は全く聞かない。身を乗り出して、耳を貸せと言っている。
「実を言うとな、青沼くんの部屋は“出る”んだよ……」
何が、と聞くほど間抜けではない。
「まァ、俺ァ見たことねえけどな。そりゃさすがに噂にしても、妙なことが起こるのには違いねえ。気にしてねえのは当人ぐらいのもんでさ。根性がある上に、肝っ玉も据わってるときた」
彼の口からは甘ったるい缶珈琲の匂いがした。午後の気だるさと屋敷の埃っぽさがあいまって、厭に覇気を無くす。
「……奴を買いかぶりすぎですよ」
それからたっぷり数分間は、管理人の世間話に付き合わされた。どうにか切り抜けて青沼の部屋へ向かう時には、腕時計の針は二時半を指していた。
玄関から一歩奥に踏み出すと、さすが男の館、独特の匂いが木にしみ込んでいる。階段は色を失ってほぼ黒であり、足を乗せれば板はギイギイと鳴く。角という角には細かなゴミが溜まり、掃除の適当さが見て取れる。踊り場の窓ガラスには、拭き掃除をした際の筋が白く残っている。掃除も入寮者たち自身で済ませているのだろう。
《雨谷第一男子寮》は、容量も他の寮に比べ少ないと聞いていた。二階建ての木造で、部屋も計六つ。それでも一部屋には二人程度が収められているのだろう。それらは中央の階段を挟んで左右、すべて南側に並んでいる。どの部屋も平等に同じ大きさだ。一階には食堂や風呂場、炊事場などがある。
青沼の使用している六号室は東端にあった。名札を見る限り、青沼一人で使用しているようだ。南東の角部屋を独り占めできるとは、ありがたいことに決まっている。しかし、姿は隠しているが、気配はある。
青沼が帰ってきたときのことを考え、とりあえず伝言を戸の隙間に挟み込むことにした。紙片を差し込むや否や、それはひょいと内側に吸い込まれた。まるで裡に居る誰かが、引っこ抜くように。
「青沼、居るのか」
ドアに鍵はかかっていなかった。一瞬は躊躇したが、戸を開け放っていた。
ところが、またしても顔を合わせたのは青沼ではなかった。
好機なのか、例の金を奪い取った女学生だ。驚きのあまり口を開けたままにしている虎蔵であったが、女は一切の罪悪感も見せずに頭などを掻いている。しまいには「さっさと入れ」と導き入れ、家人さながらの振る舞いもして見せた。
「やっぱり来たんだね、あんた」
女は妙に楽しそうだ。騙したことへの意識はあるのか。
青沼の部屋は意外にも清潔だった。畳の隙間には塵も無い。廊下との差異が大きすぎてうろたえる。布団と学習机、本棚など、必要最低限の物しかない。普段のちゃらちゃらした格好からは予想もつかない。
「青沼ならまだだよ。今日の午後はラーメン屋でバイトだ」
部屋に見とれている場合ではなかった。
「お前、どうしてここにいるんだ」
「ここは私の家だから」
「……いつから」
「一ヶ月前」
話がかみ合っていない。女はふてぶてしい態度で胡坐を掻き、仁王立ちの虎蔵を見上げている。
「お前は自分でここが青沼の部屋だといっただろう。第一、ここは男子寮だ」
「じゃあ、言い方を変えよう。青沼が、私の家だ」
余計にややこしくなった。恋人の類、そういう意味だろうか。そう考えておきながら、否、と打ち消す。この女が青沼の好みとは思えない。青沼は、顔という細部に拘らず、体という全体を見る男だ。
とはいえ、青沼との関係を考慮している場合ではない。金を取り戻すだけだ。余計なことを考えるから、いつも仕事をしくじるのだ。
「百歩譲って、お前がここに進入しているのはいい。兎にも角にも、さっき渡した茶封筒を返してくれないか」
「どうして」
「あれは、青沼のものだから。中を見ていないからはっきりしたことは言えないけど、たぶん、給料なんだ」
そう切り出したとたん、女の瞳は猛々しい獅子のものへと変わる。気圧され、前言撤回したくなるほどの。盗人猛々しいとはこのことか。
「あれは私のものだよ」
「おまえは伝票で私を騙そうとした。信用できない人間に渡せるわけがないだろう」
「約束を反故にする気、」
青沼とこの女との間にどんな約束があろうとも、関係がない。むしろ、そのもつれに巻き込まれたことが呪わしい。
「たとえあんたが青沼に渡しても、青沼は私に渡すよ。だってこれは、青沼が私にくれるはずの駄賃だから」
「おまえ、ヒモか」
それなら尚更渡しておくわけにもいくまい。二進も三進もいかず、二人はにらみ合う。お互いに眉間が疲れてくると、女は含みのある笑みを浮かべた。
「妥協案が、あるんだけど」
急にたおやかな表情になって見上げてくる。厭な予感がする。
「……金を返せば、代わりにあんたが私を養ってくれる。私はあんたでも構わない」
目線はまっすぐこちらに向けられたままだ。冗談ではないらしい。
「青沼は、おまえが居なくなって寂しがらないのか」
「あいつは、私のことを見えないふりするんだ」
切ないことを、なんでもないような顔で言ってのける。ますます二人の関係がわからなくなる。とにかく、彼らにさしたる絆は無いと見えた。
――しかし、である。いけしゃあしゃあと言うことか。と、ため息を禁じえない。
「……それで解決するなら、それでいい。仙石の屋敷は、部屋も蓄えも腐るほどあるんだ、」
女はにやり、と厭な笑みを浮かべ立ち上がったかと思うと、卒然白衣を脱ぎ捨てた。そこに金を仕舞っていたのだろう、地に着くときに重みのある音がした。なにごとか、と思うまもなくTシャツも下も脱ぎ、十秒と経たぬうちに一糸纏わぬ姿と成り果ててしまった。衝撃のあまり、虎蔵が腰を抜かしそうになったのも無理からぬ話だ。
「なんのつもりだ。住まわせるとは言ったが、他意はない、本当だ」
これではまるで、体で対価を払えと受け取られてしまったかのようだ。そんな雄雄しい要求を掲げられるほどの剛毅が、虎蔵にあるはずもない。
「どんくさいな。早く脱いで」
なるべく女を目に入れないように顔を背けたのに、彼女は虎蔵の襟首をつかんでゆすり始めた。はじめに思ったとおり、彼女は裸に羞恥心がない。
「なに恥らってるんだよ。ばかだね。あんたの古服を寄越せって言ってるの」
「え? ……あ、わかった」
虎蔵はスーツの上着を脱いで羽織らせたが、彼女は一度袖を通したあと、不満げに脱ぎ捨てた。
「これじゃ駄目。新しすぎて馴染めない。家になら古服があるでしょう。あんたの家に連れて行ってよ」
どういう理屈だ、と突っかかるのはやめた。どうやらまともでない。
「そのままの格好では外に出られないに決まってるだろう」
ばかだねえ、誰も見ないよ。と笑う。じりじりと背を向けた虎蔵の耳元で女はささやく。
「……ねえ、気付いてた。私と話せる人間って、そんなに居ないんだ」
女は、虎蔵の肩に手を回した。負ぶって運べということらしい。
仰天だ。女には体重というものが存在しなかった。
ようやく理解できた。青沼は、この女に憑かれていたのだ。