ちゃんとかぞえてたね
午前2時17分。
隣の部屋から、小さな音がした。
コトン。
何かを床に置いたような音だった。
築30年の安アパートだから、隣の生活音くらい珍しくもない。くしゃみもテレビも、電子レンジの終了音も聞こえる。
隣に住んでいるのは若い男だ。階段ですれ違えば会釈する程度で、話したことはほとんどない。
俺はスマホを見た。
明日は仕事だ。こんな時間まで何をしているんだと思いながら、もう一度目を閉じる。
コトン。
しばらくして、また鳴った。
今度は少し間を置いて、
コトン、コトン。
規則的ではない。
だから余計に気になった。
寝返りを打って壁に背を向ける。それでも音は続いた。近くなったわけでも、大きくなったわけでもない。
ただ、一定しない間隔で何度も鳴る。
コトン。
コトン。
コトン。
「……うるせえな」
小さく呟いた、その直後だった。
コン。
音が変わった。
硬いものが壁に当たったような音。
俺は目を開ける。
コン。
今度ははっきり、隣室との境の壁から聞こえた。
コン。
すぐ横だ。
身体を起こして壁を見ると、音は止まった。
しん、と静かになる。
冷蔵庫の低い唸りだけが残った。
聞こえたのかもしれない。壁が薄いのだから、向こうにも俺の声は届いている。
そう思って枕へ頭を戻した。
コン。
耳元で鳴った。
飛び起きる。
もちろん、そこには壁しかない。
コン、コン。
二度。
そして、壁の向こうから女の声がした。
「……もしもし」
隣は男の一人暮らしだ。
彼女でも来ているのか。
そう考えたが、女の声は妙に小さかった。まるで壁に口をつけて喋っているような近さだった。
俺は答えない。
コン。
「音、数えてました?」
腕に鳥肌が立った。
理由は分からない。ただ、返事をしてはいけないと思った。
スマホを手に取る。
警察を呼ぶべきか迷っている間にも、壁は鳴った。
コン、コン、コン。
「今、3回」
コン、コン。
「2回」
少し遠くから、
コトン。
「1回」
そこで気づいた。
最初に聞こえた音は、隣室の奥だった。
それが少しずつ壁際へ来て、今は俺のすぐ横にいる。
コトン。
今度は、ずっと遠い。
女が言った。
「玄関」
何を言っているのか分からなかった。
数秒後。
コトン。
アパートの階段の方から聞こえた。
「階段」
コトン。
廊下。
「廊下」
そして、
コトン。
俺の玄関のすぐ外。
「玄関」
心臓がうるさい。
女は笑わない。
ただ、音がした場所だけを淡々と読み上げている。
俺は玄関の鍵を見た。ちゃんとかかっている。チェーンもある。
その瞬間、
カチ。
サムターンが動いた。
外からではない。
俺の部屋側のつまみが、誰も触れていないのにほんの少し回っていた。
カチ。
また動く。
俺は飛びついて押さえた。
「やめろ!」
思わず叫ぶと、音も動きもぴたりと止まった。
息を殺したまま、サムターンを握り続ける。
その時、隣の部屋から男の声がした。
「すみません! 聞こえますか!」
隣人だった。
「警察呼んでください!」
声が震えている。
俺は壁へ向かって叫んだ。
「どうした!」
「女がいます! 部屋の中に!」
一瞬、意味が分からなかった。
背筋が冷える。
「いつ入ったんだよ!」
返事はなかった。
代わりに、
コン。
隣の壁が鳴った。
コン。
もう一度。
それから、隣人が泣きそうな声で言った。
「違う」
コン。
「壁じゃない」
短い沈黙。
「俺の後ろから聞こえる」
ドン、と重いものが倒れる音がした。
それきり、隣は静かになった。
俺はすぐに警察へ電話した。住所と部屋番号を伝え、隣室から悲鳴のような声がしたことも説明する。
通話を切って、玄関前に座り込んだ。
警察が来る。
それまで待てばいい。
そう思った直後、
ピンポーン。
インターホンが鳴った。
「警察です」
助かった。
立ち上がりかけて、止まる。
スマホを見る。
通報してから、まだ3分も経っていない。
ピンポーン。
「警察です。開けてください」
玄関の向こうから男の声。
俺は息を殺した。
すると遠く、階段の下から別の男の声が響いた。
「警察です! 通報された方!」
本物だ。
じゃあ、玄関の向こうにいるのは誰だ。
急に静かになった。
俺は玄関から後ずさる。
しばらくして、
コトン。
ドアの外で鳴った。
次は、
コトン。
靴箱の前。
もう部屋の中だ。
コトン。
廊下。
一歩ずつ近づいてくる。
コトン。
もう一歩。
俺は振り返れなかった。
最後に、耳のすぐ後ろで、
コトン。
女が囁いた。
「ちゃんと数えてたね」
そして今度は、
俺の口の中から、
コン。
と音がした。
夜中に、音だけで怖いやつを書きたくなりまして。
たぶんこういうの、実際に聞こえたらめちゃくちゃ嫌です。
なお私は、数えると思います。




