奇習「裏校則」をマークせよ
話はざっと、一か月ほど前にさかのぼる。
「それじゃ結局、お引き受けになったんですか」
「ええ、ついつい、押しに負けて引き受けちゃいましてね。言い出しっぺが同級生じゃなかったら、塩撒いて断ってたんですが……どうも近頃、そんな気力もなくなっちゃいましてね」
「しっかりなさい、真樹さんまだ二十代でしょう。僕より若い人がそんなことでどうするんですかっ」
オールバックをきれいに撫でつけた友人の開業医・坂東佑太の叱咤に、真樹啓介はため息交じりに、ごもっともで……と応じた。つい数日前まで嫌というほど続いた残暑が掻き消え、そこかしこに初秋の兆しが漂う、九月下旬の金曜の夕暮れのことである。
「それにしても初耳だなあ、『裏校則』なんてものがあるとは……」
坂東医師のつぶやきに、真樹はバツの悪い表情を浮かべる。裏校則、というのはこの一帯――傘岡市周辺のみに存在する、学校の校則と別に脈々と受け継がれる、暗黙の了解、といったたぐいの代物であった。
「先生、渟足のご出身でしょう? あれはこの傘岡周辺だけにしかないローカルルール……今風にいやぁ『因習』ってやつです。ご存じなくて当然ですよ」
盃の冷や酒を一息に飲み干すと、真樹は手近の徳利へ手を伸ばし、手酌でちびちびとやりだした。
「裏返せば、傘岡の人間がちょいとばかし陰湿に出来てるって証左なんですよ。恥ずかしいったりゃありゃしない。――どんなにばかばかしいか、お教えしましょうか」
まだ二口三口しか飲んでいないはずなのに、真樹は早くも酒の回ったような調子で坂東医師へ高説を垂れる。
「――一年生はエナメル塗りのスポーツバックを使ってはならない。使っているやつには近く下駄箱の上履きへジャムがまきちらされるであろう。上級生が止むなき事情からソーハ(中絶)をせねばならない場合は速やかにカンパをせねばならない……。言っときますがこれ、中学生ですよ」
「子供っぽいようでいて、なかなか残酷ですね。まあ、そりゃあ大人だっていい顔をしないわけだ」
お通しのもずく酢をつまみながら、坂東医師は怪訝そうな顔で酒を含む。
店員に命じた刺身の船盛、焼き鳥の皿は十数分経ってもなかなか届かず、代わりに切れる間もなく人の入る音、呼びかける店員の威勢のいい声がこだましている。休み前の花の金曜日だというのに、真樹たちのいる個室席だけが妙に湿っぽい気配を帯びていた。
「――そんでもって、今度いじめ問題対応室の室長殿が、そうしたしょうもないもののかつての被害者と来た。室長の命令一下、実態把握の委員会が結成され、市の職員になっていた同級生がこちらへ依頼に来た――というのは前にお話ししましたっけね」
たしかうちで飲んでた時ですね、と応じる坂東医師に、真樹はポケットを探りながら話を続ける。
「で、今朝がた専用の名刺まで作って持ってきてくれたんですが、これがまあ仰々しくって……」
真樹が取り出したのは、どこにでもありそうなアルミの名刺入れだった。だが、その蓋が開いて坂東医師の手元へすべりこんできたのは、「傘岡市教育委員会 第一次裏校則実態調査委員会委員」というひどく仰々しい肩書のついた委員専用の名刺だった。見れば、名刺の左上には型押しされた傘岡市章が浮き出ている豪華版である。
「驚いたなあ、こんなものまで用意されたんですか?」
市章を指でなでながら、坂東医師は驚き半分、呆れた顔で名刺を眺める。
「本気だっていう証拠ですね、こいつは。予算もそれなりに出てなきゃ、税金でこんなしょうもないもの作りやしないでしょう。まあ、こいつが全部なくなるのが先か、税金の無駄遣いだとよそから突っ込まれて委員会が消えるのが先か……。ともかく、店の暇なときにいろいろ調べに出てみることにしましょう。読書の秋にもまだ早いし、古本屋が満杯ということはそうそうないですから……」
市内とその周辺では知名度の高い古書店「真珠堂」の経営者でもある真樹は、余裕綽々、といった面持ちで答える。
「昔と違って、今の真珠堂には優秀なアルバイトがいますものね。店主、大いにライフワークへ励む、というわけですな」
「ハハ、まあ、そんなところです。――おっとと、お空きでしたね」
空になった坂東医師の手元へ注いでやると、折よく酒肴の二品が馴染みの店員によって運ばれてきた。周囲同様、朗らかな空気が真樹たちの個室に訪れたのは、その直後のことであった。
坂東医師と飲んでから数日過ぎ、真樹はいよいよ、第一回目の中間会合へ出席することとなった。市の広報誌やサイトを経由し、一連の動きは広く世間の耳目を集めだしている。ここまでくれば、不承不承引き受けたとはいえ責任は重い。ある程度、街の平和のためにも尽力せねば――と真樹も心構えを改めた。ところが、そろそろ出発しようという段になって、真樹の甥っ子・羽佐間新司がひょっこり、店へ姿を現したのである。
「兄ぃ、おヒマ?」
「――みりゃわかるだろ。言っとくけど、今日はお前と遊んでる暇がなくてな」
早くも衣替えを決め、中学校の詰襟姿の新司へ、真樹は慣れない調子でネクタイを結びながら応じる。すると新司の口から、思いがけず例の裏校則の協議会についての話が飛び出たので、真樹は驚いてしまった。
「委員を頼まれた友達のばあちゃんが、嫌いな奴ががいるならやらない、とか色々ゴネたらしくってさあ。頼んだ方が根負けして、決まった人の有名どころをバラしちゃったらしいんだよ。とんだ情報漏洩だよなぁ」
「――人の口に戸が立てられるなら、コンクリートで二重壁と洒落たいところだな」
愚痴をこぼしながらも、真樹は新司のためにピッチャーの麦茶を出し、戸棚からせんべいの入ったビニール袋をちゃぶ台の上へと広げた。
「そのうちテレビか、地方支局の記者がいろいろ聞きに来るんじゃないの? そこそこ今度の件、注目されてるっぽいし」
せんべいを音を立ててかじる甥に、どの辺でだ? と真樹は尋ねる。
「どのあたりって……そりゃア中学生に決まってるでしょ。ずいぶん前から話題になってて、結構注目浴びてるんだぜ、そのなんとか委員会っての」
「なるほどねえ。裏校則がにらまれちゃ、後輩に威張る根拠がなくなるもんな……まあ、一年坊主のお前には関係のない話か」
「ちぇっ、ひでえなあ……」
渋い顔の甥に、真樹はそう嘆くなよ、とフォローを入れる。
「けどよぉ、裏校則って学校の数だけあるはずだぜ? オレだってそんなに知ってる訳じゃないのに、いったい全体、どうやって把握するつもりなのさ?」
「実を言うと、そこが俺も気にかかっていてなぁ……」
締めすぎたネクタイをゆるめ、真樹は寝転がって天井をにらむ。
「けしからんものを調査せよ、と言い出して人を集めたのはいいけれど、実はそういう部分のツメがほとんどなされていないんだ。一応、同級生をたどって、飲み屋や喫茶店、食堂なんかで聞き込みしたのが二、三ある。そいつを引っ提げて、ついでに調査方法を決めていく方がいいと思うが……なんせ相手はお役所だからなぁ」
「――なんのかんのとケチがついて、有名無実になって調査は沙汰止み、ってかんじ?」
「案外お前、難しい言葉知ってるのなぁ」
コップの底へわずかに残った麦茶を飲み干すと、これでも一応兄ぃの甥だからね、と新司はよくわからない返答をした。まんざら尊敬していないわけでないらしいのが、出発前の真樹にとってはささやかな慰みとなった。




