第9話 欠けた輪の先
腹の奥に地鳴りが響き、井戸の水面が細かく震えた。
見張り台の若者が叫ぶ。
「――群角猪! 三十! 柵に来るぞ!」
通りが一気に騒然となる。
レオンが剣を抜きながら怒鳴った。
「鐘縄は二短一長! 子どもと年寄りは納屋の裏! 若い衆は槍列を組め!」
セリナが遮光布をほどき、杖で地を叩く。
「溝を二本作る! 半拍でも乱れたら転ぶわよ!」
俺はランプを門柱に掛けて境を据え、塩で欠けた輪を描いた。
「――輪よ、欠けたままで噛め。境は灯。名はグリム」
影が立つ。灰の肌、裂けた翼、赤い瞳が橙を映す。
(主。数だ。結び一つで潰される……だが、やるしかないなら同時置きだ)
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第一波 ― 足止め
先頭の三頭が突進してきた。
胸を二度、膝を一度――二短一長。
俺とグリムが交差の結びを置く。
二拍半、一頭が足をもつれさせた瞬間、レオンの刃が膝裏を裂き、セリナの火矢が眼を焼いた。
巨体が倒れ、後続が詰まる。
右から回り込む二頭。
俺は足影の根に錘を置き、一拍半だけ止める。
そこへカイが槍で突き、親方の大槌が顎を潰す。
若者ハルトとリョウが横から押し、猪は地に沈んだ。
女たちが灰を投げ、セリナの風がそれを目に貼りつける。
村全体が一拍の輪を刻んでいた。
俺の結びはあくまで足止め。
トドメを刺すのは、レオンやセリナ、村人たち。
最初の波で八頭が沈んだ。
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第二波 ― 崩れ
残り二十余が列を成して突っ込んでくる。
セリナの土の浅溝が二本走り、群れが分かれた。
「右は私が押す! 左はトウマ、横へ結び目!」
俺は肩甲と肘の“行きたい方向”を逆へ引き、千鳥結びを置く。
二拍、三拍――長くは持たない。
だがその隙にレオンの剣が頸を裂き、親方の槌が後頭を砕き、若者の槍が腹を貫く。
さらに七頭が倒れた。
俺の結びで止め、仲間の手で落とす。
ここまでで十五頭。
残り十五。だが――。
狭間を抜けた巨猪の角が俺の肩をかすめ、皮ごと削いだ。
熱い痛みが走り、足が遅れる。
(主、戻せ! 拍が落ちる!)
「まだ――!」
従おうとした瞬間、真正面から角が胸を抉った。
骨が割れる音が耳に響き、肺から空気が抜ける。
熱い血が喉を塞ぎ、視界が赤の膜で覆われた。
指が冷え、影が遅れる。灯が揺れて泣いた。
――死ぬ。そう理解した。
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無音の第三拍
だが、胸の欠けた輪が突然、焼ける熱を放った。
裂け目が塞がり、輪が繋がる。
どこでもない場所で「かち」という音が鳴った。
影が環へと変わり、灯を境に一息で閉じる。
そこから俺でもグリムでもない――無音の第三拍が放たれた。
(……な、何だこれは……!?)
グリムの声が震える。
(主と繋がっているのに――一拍も感じない。半拍も、欠片も……無だ!)
俺の影から黒い鎖が走り、残る十五の足影に同時に結び目を置く。
膝の支点が逆関節に折れる音が連鎖し、筋が千切れ、白濁した目から黒い涙が垂れる。
喉の奥で血泡が弾け、巨体が自重で潰れた。
――十五体、即死。
最後の一頭だけが痙攣し、角を振る。
レオンが踏み込み、頸の下へ刃を置く。
「カイ、刺せ!」
少年の槍が腹を突き、ハルトとリョウが横から押す。
セリナの土杭が前足を穿ち、親方の大槌が後頭を沈めた。
――三十。
村は守られた。
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鎖の修復
俺の胸は大きく裂け、血が噴き出していた。
その傷に、俺自身の影がざわりと揺れる。
黒い鎖が勝手に這い寄り、裂け目を縫うように交差した。
肉と骨を強引に繋ぎ止めるように、結び目が次々と打ち込まれる。
「……っ、ぐ……」
焼けるような痛みとともに、呼吸がかすかに戻った。
(主……これは……お前の意思じゃない。
影そのものが、勝手に主を縫っている……?)
グリムの声が驚愕で震える。
(悪魔の術ではない。俺は知らない……なのに、鎖は主を壊させまいと……)
俺は言葉を紡ぐ間もなく、意識を手放した。
最後に聞いたのは、グリムの声ではなく、ただの沈黙。
だがその沈黙は――恐れと驚きと、言葉にならない期待を孕んでいた。
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村の反応
「息がある!」
レオンが俺を支え、セリナが必死に呼びかける。
カイは槍を抱きしめたまま震え、「……トウマ兄ちゃん、死んでない……」と呟く。
親方は黙って頷き、大槌の柄で俺の手にコツと触れた。
評議の年長が門の跡を見て、喉の奥で何かを飲み込む。
「影は恐ろしい。だが――今の村は影に救われた」
誰も笑わず、誰も目を逸らさなかった。
遠くで夜警の槌が二短一長。
橙の灯が風に揺れ、俺は影の鎖に縫われたまま静かに眠りへ沈んでいった。




