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第4話 影は灯に寄る

 朝より少し前の色が、窓の桟に溜まっていた。

 寝台から起き上がると、胸の内側で輪が小さく軋む。欠けたまま噛んだ第一環。痛みは鈍いが、確かな拍を残している。

 台所の隅では、母さんの灯が芯の先で細く息をしていた。真鍮の皿に橙の輪。昨夜、境になってくれた火だ。


(主。息を合わせろ。同拍だ)

 頭の内壁に触れる低い声。グリムだ。

 返事の代わりに、胸を二度、膝を一度――二短一長で叩く。

(良い。だが今日は長く繋ぐな。灯が泣く)

 分かってる、と心の中で呟く。父さんの古い手提げランタンを持ち、戸口の閂をそっと外した。


 外の空気は、霜の匂いを残して冷たい。昨夜の噂――森に大きな獣の足跡が見つかった――が、胸の底で鈍い石みたいに転がっている。

 村の広場に向かう道で、井戸の滑車がひと鳴きした。


「来たな」

 広場の中央で、レオンが片手を上げる。隣にはセリナが杖を肩にかけて立っていた。

「今日は走るぞ。十数えて一歩、三十まで刻んだら、間を半拍ずらして戻す」

「ズレたら、私が合図する。……容赦しないから」

 セリナが杖尻で霜を軽く割る。軽口なのに、眠気は瞬時に飛ぶ。


 走る。十、で一歩。十、で一歩。

 呼吸が先走れば、セリナの杖がコツ、と地面を叩き、レオンの踵がほんのわずか長く地を擦る。

 同拍は音楽じゃない。相手の骨に寄り添う動作だ。

 百を越えたところで、胸の裏に冷たい水が一滴落ちる。

(主、そこだ。半拍遅らせろ)

 グリムの念に合わせる。肺が焼け、脚が重い。それでも拍は崩れない。


 終えると、指先がじんわり痺れていた。

「……悪くない」セリナが短く言い、杖をくるりと回す。「この調子なら、戦いの中でも崩れにくい」

「次は歩幅を変える。俺が前、トウマは半歩後ろ、セリナは横で合わせろ」

 レオンが背中越しに言い、振り返ってにやりと笑う。「間に合わなきゃ、俺が背負う」

「冗談じゃないわ。私の肩が壊れる」


 その時だった。

 村の東側から鐘が鳴る。二度、間を置いてもう一度――警鐘だ。

 続いて誰かの怒鳴り声。「羊小屋だ! **霧猪きりいのしし**が出た!」

 冷たい空気が一気に鋭くなる。俺たちは顔を見合わせた。


「行くぞ」

 言葉の前に、三人の足が同時に動く。二短一長が心の中で鳴った。



 羊小屋は村の外れ、草地と森の境い目にある。

 到着する前から、白い霧が地を這ってくるのが見えた。霜より濃く、湿り気を帯びた冷気。

 柵の向こうで、巨大な猪が肩で霧を吐き、突進の跡で杭が二本、斜めに折れている。鼻先が黒く、眼は乳白色。霧のせいで視界がぼやける。


「下がれ!」

 レオンが農具を構えた男たちを後ろへ押しやり、前に出た。訓練用の小剣を抜く。

 セリナは杖を低く構え、指先だけで小さく詠う。「土縛どばく

 霧のせいで足元の土が湿り、縄の形を取りきれない。束ねた土縄がほどけ、猪の蹄に絡んでは千切れる。


「効かない……なら、風で霧を払う」

 セリナが息を詰める。だが、猪の吐く霧はすぐに満ちる。

 レオンが「行くぞ」と短く言い、猪の突進を斜めに受け流して側面を浅く切った。手応えが薄い。脂と冷気で刃が滑る。


 羊たちが怯え、柵の隙から一頭が抜け出しかけた。

 誰かの叫び声。子どもだ。柵の外で転んで、立ち上がれないでいる。


 肺の奥で、拍が跳ねた。

 ――今呼ばなければ、間に合わない。


 俺は父さんの手提げランタンの蓋を指で弾き、火を少しだけ大きくした。

 腰の袋から塩をつまみ、足元に急ごしらえの輪を描く。完璧ではない。でも十分だ。

 胸を二度、膝を一度。息を半拍遅らせ、目の前の灯を境に据える。


「――輪よ、欠けたままで噛め。境は灯。名はグリム」


 空気が一枚、手前にたわむ。灯が一度沈み、すぐに戻った。

 ランタンの影が立ち上がり、子どもの背丈ほどの輪郭が霧の中に立つ。

 灰の肌、短い角、裂けた翼。

(主)

 赤い目が灯を映し、炭火のように揺れた。

(状況は悪い。時間を稼ぐ)


「同拍。半拍遅れ」

(了解。同律は、足だ。主の絵を寄越せ)

 脳裏に、猪の影を地面に縫い付ける絵を描く。太く短い杭のように、影が地に刺さる――稚拙でも、絵は絵だ。

(受け取った)


 グリムが尾を振る。ランタンの灯がちいさく唸り、猪の吐く霧の中に薄墨の糸が走った。

 それは猪の足元――蹄の影へと伸び、地面に針のように打ち込まれる。

 影縫い。

 最初の一本は弾かれた。二本目が浅く刺さり、三本目で蹄がわずかに止まる。

 未完成。だが、三呼吸ぶん、猪の首が揺れた。


「今だ!」

 レオンが滑り込み、猪の膝裏を狙って斬りつける。

 セリナが杖を回し、霧の密度が薄まった瞬間に土縄を重ねる。今度は噛む。

 猪が苦鳴をあげ、横に転がった。柵がもう一本折れる。重い。

 影の糸がぱんと切れ、反響痛が胸の奥に逆流した。視界が白く弾け、膝が落ちる。


(無理をするな、主。灯が泣く)

 グリムの声が低く沈む。

「最後に一押し……行けるか」

(三歩だけ、合わせろ)


 ランタンの灯が揺れ、影の濃淡が一瞬だけ輪を作る。

 俺とグリムが同時に二短一長を刻む。

 グリムの小さな掌が、地に落ちた自分の影を掬うように握り、猪の鼻先へ投げた。

 影が鼻を叩く。

 それは痛みではない。嗅ぎ分けを奪う瞬間の遮断。

 猪の突進が半歩遅れ、レオンの刃が頸の下をかすめ、セリナの土縄が鼻面を地に押さえ込んだ。


 終わった――わけではない。

 猪は無理やり頭を振り、土縄を引き千切って森の方へ逃げる。

 追うべきか? レオンが一瞬だけ目で問う。

 セリナが首を横に振る。「深追いしない。ここは村」

 俺は膝に手をつき、ランタンの火を見た。泣いている。

「……還れ。今は」

(合意)

 グリムの輪郭が霧に融け、赤い目の光だけが最後に灯へ細く落ちた。



 羊小屋には、割れた杭と湿った土の匂いが残った。

 村人たちが集まり、口々に言う。

「助かった……」「第六の二人がいなきゃ……」「今の影は何だ?」

 影という言葉に、いくつかの視線がこちらに刺さる。

 恐れと、不安と、薄い感謝。

 重さはあるが、嘲りの匂いは薄い。昨日と同じではない。


 レオンが俺の肩を掴む。「立てるか」

「……ああ」

 立とうとして、足首が笑う。レオンが何も言わずに支えた。

 セリナはランタンを覗き込み、芯をほんの少しだけ下げる。

「火が泣いてる。上出来よ。――でも今はここまで」

 口調は素っ気ないのに、指先は静かで優しい。


「……ありがとう」

 それしか言えなかった。

 セリナは短く息を吐き、レオンは笑って肩を軽く叩く。


 柵の外で転んだ子どもが、誰かに抱き上げられて泣き止む。

 羊たちはまだ怯えているが、鈴の音は次第に落ち着いていった。

 遠くで鍛冶場の槌が一定の拍を刻む。

 俺の胸の中でも、欠けた輪がぎし、と鳴ってから、ゆっくりと収まっていく。


(主)

 かすかな念が、灯の際から触れた。

(足は悪くない。次は手だ。――掴む絵を用意しろ)

「……分かった」

(そして覚えておけ。今日の勝ちは俺たちのものじゃない。村の勝ちだ。主がそれを忘れない限り、輪は深くなる)


 グリムの声が静かに遠のく。

 ランタンの火は、母さんの灯に似て、細く長く揺れていた。

 第三の札のまま。輪は欠けたまま。

 ――それでも、噛んだ。

 俺は深く息を吸い、吐いた。冷たい空気の味は、少しだけ甘かった。

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