第3話 欠けた輪の向こうに
夜は、藁屋根の梁まで冷えていた。
台所の鍋はもう火から下ろされ、母さんの《灯火術》がひとつだけ橙の輪をつくっている。
父さんは椅子に腰を沈め、何度も指を組んではほどき、ついに古びた木箱を押し出した。
「……触るなって言ってきた。けど、今のお前を止める言葉は見つからない」
木箱の中には、黒ずんだチョークと塩、擦り減った麻紐、そして手のひら大の札。
父さんが若い頃に試し、結局は使えなかった召喚の残滓。
「怖くなったら、やめろ。『やめた』って言え。その声が聞こえたら、俺が止める」
疑心暗鬼で笑われてきた父さんが言った最大限の約束。それは俺にとって、背を押す言葉だった。
母さんは灯の芯を短く整え、俺の袖を一度撫でる。
「火は無理をしない方が、いちばん長く持つの。……あなたも同じ」
弱い火が輪を保つように、俺も保てと告げている。
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納屋の床に塩で円を描き、チョークで簡素な紋を刻む。
完璧な輪は描かない。――俺に似合わないから。
母さんの灯を中央に据える。これを“境”にすれば、暴走しても終わりを決められる。
胸を二度、膝を一度叩く――二短一長。
レオンと合わせた合図が、今は俺自身を鼓舞するための拍になっていた。
息を半拍遅らせ、灯を見据える。同拍。
頭の奥に絵を描く。自分の隣に立つ影。剣を持つでもなく、ただ共に立つ姿。同律。
「……輪よ、欠けたままで噛め。境は灯。名はまだいらない。――共に来い」
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空気がたるみ、耳の奥で砂が逆流するような音が走った。
灯が沈み、すぐに戻る。
塩の輪の中で黒が滲み、子どもの背丈ほどの輪郭が立ち上がる。
灰に近い闇色の肌、短い黒い角。翼は裂けているが、そこから橙の光が走って亀裂を塞いでいく。
瀕死だった影が、灯に触れた途端、殻だけ癒えて立ち上がった。
だが、中身は空っぽ。力は抜け落ちて、ただ形だけを保っている。
(……主)
声は口からではなく、頭の奥に響いた。低く乾いた声に、かすかな笑いが混じる。
(欠けた輪で、呼んだか。三鎖ではなく、灯を境に……奇妙な術だが――届いた)
胸の奥が強く締めつけられ、吐き気が込み上げる。反響痛。
だが、俺は目を逸らさなかった。
「……名は?」
(失くした。記憶も。残ったのは空と憎しみだけだ)
赤い目が灯を映す。炭火みたいに揺れ、俺を射抜く。
(だが主。お前の声は命令ではなかった。共にという声だった)
「そうしたい」
(なら、名をつけろ。輪を濃くするために)
「……グリム。どうだ」
(短く、噛みやすい。良い名だ)
尾が小さく揺れた。感情だとすぐに分かった。
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戸口の方で、人の気配。父さんだ。
扉板の影が震え、不安を押し殺す声が低く届く。
「……トウマ、まだか」
「もう終わる。大丈夫だ」
なるべく普段の声で返す。灯がふっと広がり、肯定するように瞬いた。
「グリム。境は灯。灯が消えたら、今夜は還れ」
(合意した)
灯が深く沈んで安定し、契りの合図が走る。
その瞬間、鋭い痛みが胸を抉り、視界が白く弾けた。
膝が崩れかけた時、肩に軽い手が置かれる。人の手ではない。けれど驚くほど優しい重さ。
(大丈夫だ、主。第一環は欠けたまま噛んだ。……今夜はここまでだ)
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影が藁に融けるとき、赤い瞳が最後まで灯を映していた。
(主。俺は空だ。だが、お前の拍で満ちるかもしれない。――次は、もっと合わせろ)
残ったのは、真鍮皿の小さな火だけ。
母さんが寝室から顔を出し、火を覗き込む。
「……いい火ね」
それだけ言って芯を少し下げる。終わり方を知る人の仕草。
寝台に潜り込むと、胸の奥で欠けた輪が軋む。
痛みと共に、拍がひとつ、ふたつ。
灯の呼吸に重なり――
俺はもう、昨夜までのように「呼べない側」ではなかった。




