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第20話 罅の記録

 森を離れる風が冷たかった。

 月は雲に隠れたり現れたりし、そのたびに血の色が薄くなったり濃くなったりした。


 書き付け役は歩みを緩めない。左手に板、右手に筆。

 背後では見習いが膝をつき、肩で息をする。両腕は肘から先がない。袖口は荒縄と布で固く縛られ、止血の黒い墨がまだ湿っていた。


「……痛い……いたい、いたい、いたい……」

 見習いは歯の隙間から漏らすように繰り返した。声が掠れるたび、喉が血の味を思い出す。


「黙れ。呼吸を数えろ」

 書き付け役は振り返らない。

 板に一文字、止と刻み、墨を指で払って見習いの袖口へ押し当てた。

 止血の字は、書かれた瞬間から世界の一部になる。布はさらに固く締まり、血の匂いが少し薄くなる。


「……あれは、なんです」

 見習いは月の薄い灯に怯えた子どものような目を向ける。

「鎖。あんなの、教本にない。板にも、ない」


「記録にない」

 書き付け役は静かに復唱し、その四字を板の端に刻んだ。

 筆は揺れなかった。声も揺れなかった。だが額の汗は、夜気には不釣り合いな温度だった。


 ——槍持ちはもういない。

 裂け目に吸い込まれる前、書き付け役は一度だけ彼を見た。

 両腕を広げ、盾のように立っていた男。

 仕事のために生き、命令のために死ぬことを躊躇わない、完璧な歯車。

 その歯車の軸が、名のない鎖にねじ切られる音が、まだ耳の奥に残っている。


 地に落ちた二つの首は、痕跡をほとんど残さなかった。

 泥の窪みと血の輪郭だけが、そこに存在したことを証明している。

 証拠がない——それは、記録者にとって致命だ。


「戻るぞ」

「……領主に、報告……?」

「報告では足りない。定義が必要だ」


 書き付け役は歩き出す。

 足元で落ち葉が擦る。音は軽いのに、耳の中では重く響いた。



鎖祟くさりたたり

 しばらくして、書き付け役が口にした。

「暫定の呼称だ。名を与えねば、縛れぬ」


「名で、縛れるんですか」

「世界は言で輪郭を得る。輪郭は枠だ。枠は重さになる。重さは動きを鈍らせる」

 彼は板に新しい行を作った。


鎖祟:悪魔召喚に非ず。吸収・縫合・暴走を主徴とす。

観察:頭部二、吸収。腕二、切断。槍持ち一、断裂。

記録:既存分類に該当なし。定義必要。


 筆先が止まる。

 「吸収」の字を見て、見習いが嘔吐いた。声は出ない。ただ胃の痙攣が続き、膝元の土が濡れた。


「吐くな。水が減る」

 書き付け役は板を傾け、墨の光を細く見つめる。

 頭の中に、報告の段取りが形を取り始める。


 一、検分は妨害を受け、対象(少年)は逃走。

 二、協力者(第六階位候補二名)の同行を確認。

 三、従属悪魔は未知の反応を示すが、鎖祟は主の内側で発生。

 四、首級は奪取され、証は失われた。

 五、槍持ち、戦死。見習い、両上肢欠損。

 六、「異能の暴走」に分類するには足りない。呼称の再設計を要望。


 書き付け役は小さく息を吐いた。

 「暴走」という語は便利だ。全てを子供の癇癪に押し込み、事を丸く収める。

 だが今夜の光景は、その便利を許さない。

 喰いではない。記しでもない。

 抱え込み——見習いが震える声でそう言ったあの感覚を、彼は否定できないでいた。



 森を抜けると、獣道の先に古い石の里程標が立っている。

 そこから先は領主の直轄道。夜でも使える。

 彼は板の余白に緊要の印を描いた。墨がわずかに沈む。

 これで途中の詰所は彼らを止めない。止められない。


「……俺たち、捕まえに戻るんですか」

 見習いが問う。声は乾いてひび割れていた。


「違う。形を作りに戻る」

 書き付け役は答える。

「領主には三つを願い出る。

 ——一、封祓の追加権限。聖印の官を借りる。

 ——二、布令の改稿。鎖祟の名で追討布告を出す。

 ——三、討つのではない。折るのだ。輪郭を固め、動きを鈍らせ、選択肢を絞る」


「討たないんですか」

「討てぬ。今はまだ記せない」

 筆先が揺れ、彼は初めて小さく笑った。

 笑いは自嘲に近い。

 記せないものを前にすれば、記録者は無力だ。

 だからこそ——名を与え、枠を用意する。

 それが彼の戦い方であり、呼吸であり、剣の代わりなのだ。



 夜露が草を重くし、見習いの足取りが遅くなる。

 書き付け役は板を持ち替え、片肩を差し出した。

 見習いが寄りかかる。震えが伝わる。

 「痛いか」

 問うても、答えは要らない。板の止の字が、もう返答だった。


「……槍持ちさん、戻らないんですよね」

「戻らない」

 迷いのない返事。

 それでも彼は、板の隅に小さな印を刻んだ。

 検分人槍持ち——任務中戦死。名は記さない。

 名前は、遺族に返すものだ。領主に捧げるものではない。

 書き付け役にとって、それが数少ない正直の形だった。



 最初の詰所の灯が見えた。

 兵が二人、槍を持って立っている。

 書き付け役は板を掲げ、緊要の印を見せた。

 兵は一瞬たじろぎ、すぐに道を開ける。


「詰所文庫を借りる。至急、領内回覧用布告の紙を」

「は、はい!」


 粗末な卓に坐ると、書き付け役は新しい紙を引き寄せ、筆を整えた。

 灯は少し暗い。だが十分だ。

 彼は、世界の形を書き始める。


布告案(草)

一、鎖祟(暫称)を禁域異能に指定。

一、該当の少年および従属悪魔は、領内通行を禁ず。

一、関わった者は即時通報。庇護・匿いは反逆とみなす。

一、討伐でなく追討。生捕を最とし、封祓へ引き渡す。

一、協力者(第六階位候補二名)は召喚のうえ別件扱い。

備考:頭級遺失。証不十分につき文言は暫定。


 筆が止まる。

 最後の「暫定」の二字は、彼にとって屈辱に等しい印だった。

 だが今は必要だ。未定義をそのままに戻るわけにはいかない。

 紙を乾かし、封蝕印を押す。蝋が冷え、赤が固まる。


「出せ」

 彼は布告案を兵に渡し、同時に領主宛の黒紙をしたためた。

 そこには数字と事実だけを並べた。感情は一滴も落とさない。

 ——だが最後に、一行だけ、私語に近い文を置いた。


記録は折られました。ゆえに、名で折り返します。


 封を閉じ、黒紙を渡す。

 扉の外で夜風が鳴った。見習いが肩にもたれ、眠りと痛みの境でうわ言を漏らす。


「……あの子、たすけて、って……顔、してた」

「見間違いだ」

 即答。筆音のように乾いていた。

 ——だが書き付け役は、わずかに視線を落とした。

 泥に半ば埋もれた「灯の煤」の記憶が、目の裏に黒い点として残っている。


 彼はその点から目を逸らし、板の空白を埋めるように、最後の一字を書いた。


追討


 墨が紙に沈む瞬間、彼はようやく息を吐いた。

 東の空が薄くなり始めている。

 夜が終わる。

 物語は、ここから領主のものになる。

 ——少なくとも、彼はそう記した。

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