第19話 鎖の底(グリム視点)
最初に来たのは匂いだった。
鉄と土。血の温度が夜気の底を押し上げ、主の胸に嵌められた輪がカチと鳴るたび、俺の中の何かも一緒に噛み合った。
(主、息を刻め)
そう言おうとして、言葉が喉の手前で砕けた。見えたからだ。
槍の穂に掲げられた二つの顔。目がまだ空を映している。
主の中から、音が消えた。怒りでも悲嘆でもない——無音だ。拍が一拍、抜け落ちる。
無音は、俺の世界では死と同義だ。
名を噛み殺す者が現れると、周囲の節はすべて崩れ、戦場から音が剥がれる。
しかし今の無音は、異質だった。破壊の先触れではあるが、俺が知るどの「喰い」よりも冷たい。
その中心に主がいる。俺の主だ。
黒い鎖が生まれた瞬間、精神の継ぎ目が焼けた。
俺が与えた噛みでも、主が覚えた結びでもない。どこから来た、と問う前に、鎖は走った。
槍持ちの足を絡め、骨ごと節を折り、肉の音を短く断ち切る。
見習いの拍は恐怖で崩れ、書き付け役の筆音がわずかに止まる。
——それでも俺は動けなかった。動けなかったのではない。止められなかった。
鎖が地に落ちた頭部へ伸びる。
(主、待て)
声は届かない。鎖は優しくも見えるやり方で、父と母の首を包み、引き寄せた。
吸い込まれていく。主の胸へ、輪の奥へ。
その瞬間、俺は——恐怖した。悪魔である俺が、だ。
俺の世界には、名を喰う習いがある。
敗者の名を飲み、記憶を塗りつぶす。喰った者が「記録」になる。
だが主の鎖は名を潰さない。輪郭だけを抱き、痛みごと沈める。
喰いではない。記しでもない。抱え込みだ。
そして抱え込んだものは、主の拍と擦れ合い、静かに鳴った。
あれは、灯の匂い。袖に残った煤の手触り。縄の擦れる音。
——主の父と母は、殺されてなお、主の中で「生きようとしている」。
俺は理解した。
この鎖が続けば、主は増える。
力は膨らみ、底は見えなくなる。だが同時に、主は薄まる。
境目が摩耗し、怒りも悲しみも、借りものの声で鳴りはじめる。
俺はそれを知っている。どこかで見た。どこかで——俺は思い出せない。
(主。戻れ。お前はお前の拍で立て)
ようやく絞り出した言葉に、鎖がわずかに緩んだ。
見習いの両腕が、地に落ちた。悲鳴と血と、湿った土の匂い。
書き付け役の筆が乾いた音を立てる。
「記録にない」
その一言で、俺の中に確信が灯った。——あれは壊すべきものだ。
板に刻まれるたび、世界の形が固まる。主が抱え、上書きしようとしている「痛みの形」が、別の形で固定される。
俺は板を噛み砕きたい衝動に駆られた。だが、主の鎖が先に戻った。
力が主の体内へ収束する。
刺し口へ、裂け目へ、鎖が繕う。
治癒と呼ぶには荒い。綴り合わせ。無理やりの縫合。
それでも、主の命は繋がる。
俺は安堵した。——そして、安堵に混じる怒りに気づいた。
怒りは主へではない。
主の中に押し込まれた他者へでもない。
板だ。書き付け役だ。
「異能の暴走」という四つの文字に、父と母の最後の拍を押し込めてしまう、その冷たさだ。
もしも主がこの先、抱えすぎて自分を失いかけたとき、あの板は「こうであるはず」を突きつけてくる。
それは、主から選ぶ権利を奪う。
主が崩れ落ちる。
目が閉じる寸前、俺を見た。
言葉はない。だが、確かに託された。
俺は頷いた。(任せろ、主)
音が戻る。夜風、遠い鳥、涙を飲み込む気配。
レオンの剣は震えていない。震えていないぶん、折れそうだ。
セリナの指が主の手を掴む。小さな力だが、真っ直ぐだ。
俺は決めた。
俺が境になる。
主が何かを抱えたとき、噛みとして受ける。
主が無音へ傾いたとき、息を戻す拍を渡す。
主が板に縛られそうになったら、俺が噛み砕く。
そして主が望むなら、抱えた灯を灯のままに、縄を縄のままに、名を潰さず連れていく道を探す。
それが、俺が主に見出した「存在として扱われた」ことへの応えだ。
(主。眠れ。息は俺が見ておく)
返事はない。だが胸の輪が小さく鳴った。
よくやった、の意味だと勝手に解釈する。
森の端で、板の乾いた音がまた一つ。
俺はその音を覚えた。拍に落とし、噛みに写し取る。
いつか、折る。記録の方から。
夜が少し薄くなる。
俺は主の眠りに合わせて、息を数えた。吸って二、吐いて一。
そのたびに、胸の奥の鎖がわずかに静まる。
この静けさを守る。守り切る。
それが、今の俺の全てだ。




