第八章:招かれざる予兆
息ができることが、これほどありがたいと感じたのは、生まれて初めてだった。
アヤカは、胸に手を当て、荒い呼吸を確かめるように何度も息を吸った。肺が、冷たい水気を帯びた空気を貪るように吸い込む。
鏡の中の世界で、彼女は確かに“死にかけた”。あのまま手を放さなければ、水底の闇に永遠に引きずり込まれていたことだろう。
志穂の手は冷たく、けれど、どこか人肌のようでもあった。その生々しい感触が、今も掌に焼き付いていた。
手鏡は、ベッドの脇に転がっていた。
鏡面は乾いていた。しかし、鏡の“内側”だけが、まるで微細な水滴が凝結したかのように、うっすらと曇っているように見えた。それは、水底の帳が、まだその奥に残っている証のようだった。
アヤカは、それ以上鏡を見ようとしなかった。否、見ることができなかった。
けれど、見ないことが逃れることにはならないと、もうわかっていた。
“水鏡”は、彼女の中に深く根を下ろしていた。それはもう、呪いではなく、彼女の一部と化していた。
数日後。
アヤカは会社に復帰した。
同僚たちは驚いていた。彼女が突然休んだことも、連絡がほとんどなかったことも、そして今、妙に落ち着き払っていることも。その「落ち着き」は、まるで感情の最も深い部分が水に溶けてしまったかのように、どこか空虚なものだった。
だがアヤカ自身は、自分が“以前と同じ”ではないことを自覚していた。
電車の窓に映る自分の顔が、ほんの少しだけ他人に見えること。水に歪んで、志穂の顔と重なっているかのように。
蛇口の水音が、遠くから誰かに名前を呼ばれているように聞こえること。その声は、いつも「アヤカ……こっちに、来て……」と囁いているようだった。
誰かの夢を、まるで自分の記憶のように何度も繰り返し見ること。それは、水に沈む人々の、無念の叫びだった。
それでも、日常は続いていく。
彼女はそれにしがみつくように、淡々と仕事をこなしていった。まるで、水に浸された体が、重く、しかし機械的に動いているかのように。
けれど、日常の形を保っていたのは、ほんのわずかな時間だけだった。
金曜の夜。
アヤカは鏡を取り出した。見ないことが、逆に耐えられなくなっていた。水鏡が、アヤカの意識の奥底で、「見ろ」と命じているかのようだった。
鏡に映るのは、自分の顔――ではなかった。
見知らぬ川辺。
白い欄干のある小さな橋。夏草の茂る岸辺。その景色は、水に濡れ、光が歪んで見えた。
そして、橋の下にゆらめく何か。黒い影が、水中で蠢いている。
画面が揺れていた。いや、鏡が。まるで、鏡の奥の水面が揺れているかのようだった。
まるで誰かが水の中から見上げているような、逆さまの視点で、世界が反転していた。
やがて、岸辺に誰かが現れた。
――アヤカだった。
薄いベージュのワンピース。ショルダーバッグ。
その日の彼女が着ていた服装、そのまま。しかし、鏡の中のアヤカの顔は、どこか青白く、まるで死人のようだった。
鏡の中のアヤカは、橋の手すりに手をかけ、川を覗き込む。その動きは、どこかぎこちなく、しかし抗いがたい力に引き寄せられているかのようだった。
そして、バランスを崩すように――ふらりと足を踏み出し、川へと落ちた。その瞬間、鏡の中のアヤカの口元が、微かに、しかし確かに、嘲笑うように歪んだ。
“ぽちゃん”
重く、鈍い水音が聞こえた。
鏡の中から、水音が。それは、アヤカの耳元で、水が弾けたかのように鮮明に響いた。
次の瞬間、鏡面いっぱいに泡と水が広がった。それはまるで、鏡の内側で、自分が溺れ、もがいている音と光景のようだった。肺が水で満たされるような、あの苦痛が蘇った。
アヤカは思わず鏡を裏返した。
心臓が、発作を起こしたかのように、不規則に暴れるように脈を打っていた。
手のひらに、冷たい水の膜が貼りついているような、生々しい錯覚。全身の毛穴が、一斉に開いたかのように、鳥肌が立った。
――これは、未来の映像。
それは、アヤカがこれまでに見てきた“水難事故の予兆”と、まったく同じだった。
テレビで流れたニュースと一致した、あの水中映像。
鏡が先に映していた“未来の死”。
今回は――それが、自分。
アヤカは立ち上がった。その足元が、水に濡れたかのように、ずるりと滑る感覚がした。
引き出しを開け、棚を開け、部屋の中を探す。
どうにかして、この鏡を捨てなければ。遠くに、誰もいない場所に。水鏡の呪縛から逃れるために。
しかし手にした瞬間、その思考は霧のように薄れていった。
――捨てられない。
その感覚は、明らかに自分の意思ではなかった。水鏡が、アヤカの手を離すことを許さないかのように、その場に縫い付けていた。
「……やめて」
アヤカは声に出していた。その声は、水に沈んで、か細く震えていた。
「私を……映さないで……お願いだから」
けれど、水鏡は黙って、冷徹な光を放ちながらそこにあった。
映すことをやめようとせず、ただそこに“在る”だけだった。
まるで、次の犠牲者が確定したことを、
もう、誰にも止められないことを、
そして、水底の深淵が、新たな魂を待ち望んでいることを、
すべて知り尽くしているかのように。
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