第六章:辿り着く過去
水に沈む夢を、アヤカはもう何度見ただろう。全身を縛り付けるような、底知れぬ水圧。肺が軋むような苦しみはなかったが、凍てつくような冷たさだけが、肌の奥深くまで染み渡っていた。
目を覚ましても、喉の奥に冷たい感触が残る。吐き気ではない。もっと深いところ――心の底をゆらゆらと満たす、“水”そのものの感覚だった。まるで、アヤカの身体そのものが、水と一体化しつつあるかのように。
あの少女、宮坂志穂。
夢の中の彼女は、何も言わない。ただ、藻のように揺れる長い髪の隙間から、濁った瞳でアヤカを見つめ、ひたすらに手を伸ばしている。アヤカに届きそうで、決して届かない距離。だが、その指先からは、常に微かな、しかし抗いがたい「引力」が放たれていた。
ある夜、アヤカは静かに鞄に手鏡を入れ、家を出た。その足取りは、まるで見えない何かに誘われるように、自然だった。
目的地は、あの災害が起きた村――今は合併され、地図の中では名前を失った場所。
志穂が行方不明になった、あの川の流れる土地。
バスを何本も乗り継ぎ、小さな無人駅で降りる。
街はどこか、時間が止まったように静かだった。いや、音が、まるで水に吸い込まれたかのように、くぐもって聞こえる。
人影も少なく、駅の観光案内所には古ぼけた地図が掲げられていた。
赤いマジックで塗りつぶされた場所が、まるで血痕のように、どこかを思い出すように主張している。
「旧・常松村 災害跡地 立入禁止」
それが、アヤカの目指す場所だった。引き寄せられるように、足がそこへ向かっていた。
山間を抜ける細い道路。倒れかけたガードレール。すでに使われていない公衆電話。川沿いの道を、アヤカは手鏡を胸元に抱いたまま、静かに歩いた。その道は、どこか湿気を帯びて、足元がじっとりと重かった。
水音が、ずっと聞こえていた。それは、川の流れる音だけではなかった。まるで、アヤカの身体の内側から、脈動するように響く、水の音だった。
流れの穏やかな川だった。けれど、その底には濁りが沈み、見通すことはできない。川岸の土からは、生臭いような、腐敗したような、微かな異臭が漂っていた。
アヤカは立ち止まり、鞄からそっと鏡を取り出す。手に持った鏡は、心臓の鼓動に合わせて、微かに「ぷくり、ぷくり」と脈動しているようだった。
鏡の中には――かつての村の風景が映っていた。
道に面した小さな鳥居。苔むした石段。その石段は、まるで水の底から引き上げられたばかりのように、不気味に潤んでいた。
そしてその先に、水に濡れた制服姿の少女が佇んでいる。その制服の裾からは、黒く粘りつくような泥が滲み出ているように見えた。
志穂だ。
鏡の中で、志穂がこちらを振り返る。その濁った瞳は、アヤカの目を真正面から射抜いていた。
そして、ゆっくりと、アヤカに背を向ける。
まるで、「ついて来て」とでも言うように。その背中からは、冷たい水滴が、ぽたり、ぽたり、と、規則正しく滴り落ちていた。
川沿いに小道を逸れると、鬱蒼とした林が現れた。木々の間からは、湿った、しかし淀んだ空気が吐き出されているようだった。
アヤカは、志穂の姿を追いかけるように、その中へ足を踏み入れた。
落ち葉が積もり、踏みしめるたびに湿った、そして妙に生々しい音がする。まるで、水に浸された肉を踏みしめているかのようだった。
やがて、開けた場所に出る。
――そこは、水没した祠だった。
石の土台だけが辛うじて形を残し、その上には黒く変色した御神体のようなものが転がっていた。それは、長い間、水に浸かり続けていたもの特有の、嫌な匂いを放っていた。
かつて、水の神を祀っていたという古文書の記録。アヤカが調べていた中で、一度だけ見つけたその名残だ。水の神が、この地を飲み込んだのだと、アヤカは直感した。
鏡を手に、アヤカは祠の前に膝をつく。足元の土は、すでに泥と化し、アヤカの膝をずるりと引きずり込んだ。
風が吹く。木々の枝がざわめき、水音が、不自然なほどに近く、そして大きく響く。いや――音が、アヤカの内側から鳴っている。まるで、自分の血液が水に変わり、全身を駆け巡っているかのように。
ふと、鏡の中が波立った。鏡面が、本物の水面のように揺らぎ、深淵へと誘う。
次の瞬間、志穂の顔が至近距離で、鮮明に、しかし悪夢のように映った。
髪が濡れ、藻のように顔に張りついている。その口元が微かに開いている。瞳の奥には、水に溶け込んだ怨嗟が宿っていた。
――「わたしの声が、聞こえる?」
その囁きが、アヤカの耳に直接響いた。鼓膜を通さず、頭の奥で、粘りつくように鳴った。それは、アヤカ自身の思考と、区別がつかないほどだった。
「わたし、ここにいる……ここで、溺れたままなの……」
アヤカは目を閉じた。視界を遮っても、志穂の顔が、瞼の裏に焼き付いているかのように鮮明だった。
足元の土がじわりと濡れていた。膝が、泥に沈みかけている。
川の音が近い。いや――音が、アヤカの内側から鳴っている。全身が、水に満たされ、感覚が麻痺していく。
鏡の中の志穂が、手を伸ばしてくる。その指先が、鏡面を突き破り、現実のアヤカの頬に、冷たく、そして湿った感触で触れた。
それはもう、夢ではなかった。
現実の空気が、水に変わろうとしている。
志穂の記憶と、自分自身の存在が、止めようもなく、少しずつ交わっていく。溶け合っていく。
――そしてアヤカは気づいてしまった。
“水鏡”が映していたのは、志穂だけじゃない。
そこに、もう一人いた。
アヤカ自身の姿だった。
未来の、自分――
水に沈み、志穂と共に、歪んだ笑みを浮かべ、こちらへ手を伸ばす、もうひとりの“わたし”。
逃れられない。
水底は、もうすぐそこだった。
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