第四章:水鏡の囁き
その日、アヤカは仕事を早退した。
理由は聞かれなかった。顔色が悪いと言われ、鏡を見なくてもそれが事実だとわかった。肌は青白く、目の下には濃い影があった。まるで、何日も水底に沈んでいたかのように、全身が冷え切っていた。
部屋に戻ってまずしたことは、あの鏡をタオルに包み、引き出しの奥に押し込むことだった。視界から消してしまいたかった。
見たくなかった。けれど、完全に「無かったこと」にすることもできなかった。そうしようとするたびに、まるで内側から何かがせり上がってくるような、吐き気を催す違和感に襲われた。
それが自分の心に、根のように、水草のように深く入り込んでいることに気づいていた。もう、自分だけの体ではないような、そんな感覚が全身を支配し始めていた。
夕方、アヤカはひとり、あの骨董市へ向かっていた。
スマホの検索履歴の中に、店の名前と場所が残っていたのだ。あのとき、直感で何気なく写真を撮っていた看板。今思えば、それもまた“呼ばれていた”のかもしれない。避けられない宿命のように、あの場所へ引き寄せられていた。
駅から徒歩で十五分ほど。昔ながらの通りに、あの古びた引き戸の店はまだあった。
《骨董と喫茶 時のかけら》
引き戸を開けると、前と同じ、小さな鈴の音が鳴った。しかし、今回はその音が、まるで水中でくぐもるように聞こえた。
店の中は薄暗く、埃っぽい空気が静かに漂っていた。どこか、古い水の匂いがするような気がした。
「……いらっしゃい」
前と同じ老婦人が、湯呑を片手に現れた。白髪を後ろで束ね、小さな眼鏡の奥からアヤカを見つめている。その目は、何もかも見透かしているかのように澄んでいた。
「覚えていますか。先週、手鏡を買った者です」
「……ああ。あれを買ったのね」
老婦人は、何かを悟ったように目を細めた。その表情は、アヤカの抱える恐怖を、遠い昔から知っていたかのように見えた。
「少し、話を聞かせていただけませんか。あの鏡のことを……知っていること、何でも」
カウンター席に促され、湯呑が差し出される。香ばしい麦茶の香りが立ちのぼったが、アヤカの指先は微かに震えていた。湯呑に触れると、その熱が、自分の指先が異常に冷たいことに気づかせた。まるで、自分の手が水に浸かりすぎて、ふやけているかのように見えた。
老婦人はしばらく無言で茶を啜ったあと、ぽつりと語り出した。その声は、アヤカの耳に、不思議と水底から聞こえてくるような、遠い響きを伴っていた。
「その鏡ね……昔から“水鏡”って呼ばれていたのよ」
アヤカの背筋が凍る。昨夜の夢、そして今日の身体の異変――すべてが、その言葉に繋がっているように思えた。
「水鏡?」
「水のように、何かを映す鏡。あれはね、普通の鏡じゃないの。たぶん、“向こう側”を映してしまうの」
「……向こう側?」
老婦人はうなずいた。その瞳の奥には、深い悲しみが宿っているように見えた。
「昔、ある村で、大水害があった。大雨が続いて、川が氾濫して、村のほとんどが水に飲まれて……大勢が亡くなったの。一夜にして、すべてが水に沈んだ。中には幼い子どももいた。身重の妊婦もいた。みんな、突然にね。助けを求める声は水に飲まれ、愛する者を残して逝く無念と、理解できないまま命を奪われた痛みと後悔を残したまま、深い水の底へと引きずり込まれていったのよ」
「……その村と、鏡に関係が?」
「さあね。ただ、その鏡がこの店に来たのは、ずいぶん前。ある男が黙って置いていったの。『この鏡は捨ててはいけない。誰かに渡し続けるしかない』って。そうしないと、その闇が、持ち主を道連れにしてしまうからと」
アヤカは息を呑んだ。まるで、自分がその闇に引きずり込まれつつあるかのようだった。
「最初に見たとき、あんたの目が不思議だった。鏡に惹かれていた。……見える人なんだと思ったよ。そういう人にしか、“向こう”は映らないからね。そして、一度見えてしまったら、もう逃げられない」
店の奥では、古い柱時計が小さく鳴っていた。
カチ……カチ……と時を刻む音が、妙に水音が響くように聞こえる。まるで、この店全体が、水中に沈んでいるかのようだった。
アヤカはふと、座ったまま手のひらを見つめた。
そこには、まだ感触が残っている。
――まるで、冷たい水の中から、誰かに手を引かれたような。その指先が、今も自分の肌の内側で、脈打っているかのような、おぞましい感触だった。
その夜、アヤカは夢を見なかった。夢を見る暇もないほど、現実がすでに悪夢と化していた。
代わりに、目覚めた瞬間、部屋の静けさにぞっとした。
まるで、すべての音が水の底に沈んだような、密閉された、耳鳴りのするほどの静寂。空気が重く、潮の香りがするような気がした。
胸が騒ぐ。心臓が、まるで水の中で鼓動しているかのように、鈍く響いた。
アヤカは引き出しを開けた。
――鏡がなかった。
恐る恐る部屋中を探す。ポーチの中も、洗面台の下も。けれど、どこにも見当たらない。見えない何かが、それを動かしたのだと、直感的に理解した。
と、そのとき。
キッチンのシンクから、“ぽたり”と、粘り気のあるような水音がした。
振り返ると、蛇口の下――そこに、鏡が置かれていた。
濡れている。水が滴っている。まるで、水の中から、誰かが戻してきたように。その水滴からは、微かに、しかし確かに、腐敗したような甘い匂いが漂っていた。
アヤカは震える手で鏡を拾った。その鏡は、まるで生き物のように、ひんやりと、そして重く感じられた。
その鏡面には――
水の底から、紛れもない自分自身が、瞳を大きく開き、こちらを凝視していた。その口元は、不気味なほどに引き攣り、微かに笑っていた。それは、アヤカの知るどんな感情とも違う、深く、冷たい、そしてすべてを諦めきったような笑みだった。
そして、その瞳の奥には、アヤカ自身の魂が、水泡となって消えゆくかのように、ゆらゆらと揺らめいているのが見えた。
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