序章:古びた手鏡
アヤカは、都心の狭いワンルームで目を覚ました。
薄いカーテンの隙間から、まだ眠たげな朝の光が差し込んでいる。白い天井を見つめながら、今日が何曜日だったかを考える。金曜――やっとの思いで辿り着いた週末。パソコンの前に張りつくような日々が続いていたせいで、身体のあちこちが重く感じられる。
カーテンを開けると、遠くのビルの上に雲が流れていた。どこかへ行きたくなるような空だった。
昼過ぎ、気まぐれのように電車に乗った。行き先は決めていなかった。スマホの地図アプリで適当に検索し、降り立ったのは、郊外の古びた商店街。何年も前に観光地だったらしいが、今ではシャッターの閉まった店も多い。
そこに、ひっそりと広がる空き地のような場所があった。
手描きの看板には「骨董市 本日限り」と書かれている。色褪せた布を被せたテーブルの上には、埃をかぶった皿や壊れかけたランプ、木製の人形――どれも、誰かの記憶のかけらのようだった。
その中で、ひとつだけ目に留まった。
細い銀細工の縁に囲まれた手鏡だった。長く使われていたのだろう。裏面には、波のような模様が彫られていて、触れるとわずかにざらついていた。鏡面は、どこか霞んでいる。新品のような明るさも、くっきりとした写りもない。それでも、その曇りが、まるで何かを隠しているようで――アヤカの視線は釘付けになった。それは、見つけてしまったもの勝ちだと囁くような、甘く、そして抗いがたい誘惑だった。
「それ、気に入ったの?」
店番らしき老婦人が、隣の座布団の上で茶をすすりながら声をかけてきた。その声は、なぜか耳の奥で、わずかに湿った響きを伴っているように感じられた。
「ずっと売れ残ってたんだけどね。そうやって、たまにフラッと来た人が連れてってくれるの。不思議よねえ」
老婦人の視線が、一瞬、手鏡の奥――アヤカが映るはずのその「曇り」の向こう側に向けられたような気がした。
「……おいくらですか?」
「千円でいいわよ。お守りみたいなもんだから」
その言葉に言いようのない違和感を覚えた。まるで、それが誰かへの「手渡し」であるかのような、不穏な響きがそこにはあった。だが、その時のアヤカは、深く考えることをしなかった。
帰りの電車で、膝の上にそっと置いた手鏡を、アヤカは時折覗き込んだ。やわらかく曇った鏡の奥に映る自分は、どこか幻想の中にいるようで、現実からわずかにずれている気がした。いや、もしかしたら、現実の方こそが、鏡の奥の自分からずれていっているのかもしれない。そんな不確かな不安が、胸の奥に薄く広がり始めていた。
アヤカはその夜、いつものようにデスクに向かい、溜まった修正案件に目を通していた。目元が重く、時折、目薬を差さなければならないほどだった。モニターの横に、なんとなく買ったばかりの手鏡を立てていた。手鏡から、微かに、しかし確かに冷気が発せられているように感じたが、それはただの気のせいだと、疲労のせいだと、自分に言い聞かせた。
ふと視線を移すと、鏡の中の自分と目が合う。
やわらかく光を反射するその鏡面に、わずかな、だが決定的な違和感を覚えた。
――歪んでいる?
いや、それだけではない。鏡の中の「自分」が、まるで別人のように、ほんのわずか、「微笑んでいる」ように見えたのだ。それは、アヤカ自身が自覚している微笑みとは違う、もっと深く、昏い感情を宿した笑みのように思えた。
目薬を差したばかりだし、画面の見すぎで疲れているのだろう。きっと、そうに違いない。そう思って、再び仕事に意識を戻した。しかし、手鏡の奥から、じっと見つめられているような「視線」を感じずにはいられなかった。
だが、あの夜を境に、手鏡を見るたびに、何かが揺れているような気がしてならなかった。
水の中にいるような、静かで、けれど底知れぬ深さのある揺らぎ――そして、その奥から、ひたひたと、何かがこちらへと這い寄ってくるような感覚。
それが、本当の“異変”の始まりだった。
そして、アヤカはまだ知らなかった。その鏡が、彼女の「現実」を少しずつ浸食していく、入り口に過ぎないことを。そして、鏡の奥に映る「もう一人の自分」が、静かに、しかし確実に、「彼女」に成り代わろうとしていることに――。
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