第51話 背中を押すもの
ある日、大志が稽古を終えて出てくるのを晴香は待っていた。
「先輩、ちょっと」
大志はいつになく晴香の顔色が険しいのに気付く。
すたすたと先に歩いていく晴香に大志がついて行くと、今日はミーティングは無しだと言っていたのに分室に入っていった。
「何だよ。明日じゃ駄目なのか?」
分室に入って鞄を下ろすと、大志はいつもの椅子に腰かけた。
晴香は入り口の鍵をかける。
その表情にいつものおチャラけた感じは無かった。
晴香は大志の向かいに腰を下ろすと小声で話し始めた。
「今日、多田先輩は?」
「あ、ああ久しぶりに瀬尾と帰ったよ。瀬尾に一緒に帰ろうって言われてなんだか悪いからって。ひと段落した事だし気をつけてとは言っといたけど」
「馬鹿。どうして私達と一緒じゃないのよ」
「市川の事か? あいつ心を入れ替えたみたいなんだ。近頃は能力をどう人の役に立てていくか話し合ったりしてるんだ」
大志は晴香に市川が人助けをした事を話した。
「そうだ、これその時の新聞の切り抜き。あいつも漸く正しい方向に向いてくれたみたいだ」
晴香は切り抜きを手に取って目を通す。
「これは私が預かります。それよりこれ、見て欲しいんです」
晴香はタブレットを鞄から取り出してある映像を見せた。
「これは……」
大志は晴香の見せたその映像を覗き込む。
「先輩が私と帰ってるときに撥ねられた時の映像です。個人宅の防犯カメラに映っていました」
「なかなか鮮明に映ってるな」
「この辺で以前、車に悪戯される事件が数件あって以来、防犯カメラを付けている家が多いんです。一軒の家のカメラにばっちり映っていました」
「勝手に突っ走るなって言っただろ」
「それは、ごめんなさい」
晴香は画面を操作して映像をスローモーションにする。
「この運転手、スマホを手に持って運転してますよね」
「ああ、本人が警察でそう証言していたみたいだ」
「ここをよく見ててください」
晴香が運転手を指さす。
「あっ!」
大志は思わず声を上げた。
運転手の体の向きが一瞬で前向きから斜め横向きに変わっていた。
「ブレーキが遅れた原因はこれですよ」
「市川か……」
大志は事故から自分を助けたとしか市川から聞かされていなかった。
「自作自演だったって事か……しかしどうして……」
「あいつは確か先輩が同じ能力者かどうかを知りたくって私を屋上から突き飛ばしたって言ってましたよね、それが本当ならその後に交通事故を装って先輩を車で撥ねさせたのは理屈に合わないわ」
「そうだな。戸成の言うとおりだ」
「私はどうしてもその辺りに納得できなくって、ある仮説を立ててみたんです」
どうやら晴香は大志が撥ねられた映像を手に入れてから、検討を経て結論に至っているようだ。
「先輩が加速したのは計七回。そのうち市川が加速した事を認知したものが四回あります。まず最初に私が屋上から突き落とされた時。あいつは先輩が能力者であることを確認した。しかしこの時点では先輩が自分で加速できるのかどうかをはっきりさせられなかった」
「……」
「そして二回目。車を突っ込ませて先輩を直接危険に晒すことで引き金を探ろうとした結果、加速しなかった事で自ら発動できない事を知った」
晴香の推論に耳を傾ける大志の顔色は、徐々に変わっていった。
「そして三回目。紅白戦で私にボールが向かって来たじゃないですか、あれも今考えればあいつが私にボールが飛んでいくように仕組んだんだと思います。でないとあんな偶然が起こりようもない」
「確かにそうだ……きっと戸成の言うとおりだ」
「あいつはああやって先輩が何に反応して加速するのか探っていたのだと思います。そして恐らくあの時に多田先輩の叫びに反応したのではないかと気付いたのだと思うんです」
「そんな……」
「そして四回目、多田先輩に直接危害を加えて確信を得ようとした。そして先輩はあいつの前で多田先輩が引き金であることを証明してしまった」
晴香の説明に大志は動揺の色を隠せない。
「あいつはずっと先輩の引き金を探っていた。それ以外に考えられない」
「でも、俺を唯一の分かり合える友達だって言ってたのに」
「仲間意識はあるんだと思います。これは私の推測ですけど市川は引き金を知ったうえで先輩が味方になるか敵になるかを見極めていたんじゃないでしょうか?」
「それじゃあ……」
「先輩が味方であれば何も問題はない。でも敵になったとしたらこれ以上恐ろしい存在はない。確実に勝てるよう相手の弱みを掴もうとしていた。そして先輩は市川の行いを正そうとした。彼が正しい行動を望んでいなければ先輩は彼の障害になる。私はそう考えます」
深刻な表情で悩む大志に晴香は続ける。
「恐らくその新聞の記事は先輩を油断させるための一つの手段。裏を取ってみますけど、そんなにタイミングよく事故に出くわすなんておかしすぎる」
「じゃあ、このところの市川の行動は何だったんだ……」
「私達を油断させて、そのうちに多田先輩が別行動をとる機会をずっと狙っていた。そう考えるのが妥当だと思います」
「そんな、いや、そんなことは」
「お互いが加速している状態ならきっとあいつは先輩に勝てない。あいつの狙いは最初から引き金を先輩から奪ってしまう事」
「まさか……」
「引き金さえ無くしてしまえばあいつは唯一の加速能力者になれるわ」
青ざめた顔のまま、大志は携帯を取り出すと、急いで幸枝に電話をかけた。
「頼む出てくれ……」
呼びだし音を聞きながら、もどかしい気持ちで待っているとようやく電話は繋がった。
「ゆきちゃん!」
「……」
「ゆきちゃん! ゆきちゃん!」
返答が帰ってこない。
何度も呼びかけるも返事のないまま、そのうちに電話は切れてしまった。
「くそっ!」
大志は奥歯を噛みしめ席を立った。
「すぐにゆきちゃんを追いかける!」
「私も行きます!」
幸枝の今いるところは大志の携帯画面に出ていた。
晴香の提案で、もしもに備えてお互いの位置が何時でも分かるように登録しておいたのだった。
二人は部屋を飛び出した。
大志は走った。
女の子の晴香の方が大志よりも速くて、少し置いていかれかけていた。
長い距離を全力で走り抜け心臓が早鐘の様に鳴っている。
ゆきちゃん。
大志はもがくように必死で走った。
落ち葉の溜まった街路樹の道を晴香の背を追いながら駆け抜ける。
「あっ!」
足がもつれて大志は前のめりに転倒してしまったのだった。
血のにじんだ掌で色づいた落ち葉を握りしめつつ立ち上がる。
肩で大きく荒い息をしながら自分の無力さを思い知った。
「先輩!」
晴香が走って戻って来た。
「ゆきちゃんが、危ないっていうのに……なのに俺は何にもできない。加速できない俺には何も……」
大志の目から涙が溢れた。
「先輩!」
晴香がスマホを出してボタンに指をかける。
「加速して!」
晴香が画面を押すとスマホのスピーカーから幸枝の声がした。
「キャーッ!」
大志の頭の中でゴトリという音がした。
携帯電話を手にしたまま、幸枝は自分の周りの景色が一変してしまった事に気付いた。
薄暗くて冷たいコンクリートの部屋。
さっきまで河川敷を一緒に下校していた瀬尾の姿はどこにもなかった。
幸枝は自分が今どういう状態なのかを悟った。
「と、戸惑っているみたいだな」
背後からの声に振り返ると、あの市川が薄気味の悪い目を向けて、幸枝をじっと見ていた。
「私を、さらったのね……」
得体のしれない不気味さに声を震わせながら、幸枝はそう口にした。
市川はまるで表情を変えず、むしろ落ち着いた様子で口を開いた。
「そ、そういうこと。やっと機会が、め、巡って来た」
市川の口調はいつものようにたどたどしい。
幸枝は部屋を見回した。コンクリート造りの何もない狭い部屋。申し訳程度に一か所ある窓のお陰で、何とか部屋の中に光が届いていた。ここは工事中のビルの中のようだった。
「さ、叫んでも無駄だよ。当然逃げることも出来ない。わ、分かるだろ」
「私をどうする気?」
「き、きっと君の想像通りだよ。だが、その前に一つ尋ねたい事がある」
恐怖で震える幸枝に、市川は一つ質問を投げかけて来た。
「あ、あの時、何故俺が、か、加速能力者だと分かった? そこだけどうしても腑に落ちなくてね」
幸枝をすぐに始末しようとしなかったのは、その事をはっきりさせておきたかったからなのだろう。
「あ、先に言っておくが、た、助けは期待しない方がいい。ここで叫んだとしても外に音が漏れることはない。それと、け、携帯のGPSを辿ってここまで奴等が急いだとしても、が、学校から三十分以上はかかる距離だ」
市川の言葉の意味を幸枝は十分に理解していた。
引金を引くことのできない大志が、ここに現れることは決してない。絶望的な状況だった。
「は、話してくれたらその間だけでも生きていられる。す、少しでも生き永らえたければ正直に話せ」
「いいわよ教えてあげる。あんたのそのむっつりスケベな顔で覗き魔だって事が分かったのよ」
「い、言わせておけば!」
幸枝の言葉に逆上した市川は、再び加速したのだった。
加速世界に入った市川は、静止画のように止まったままの幸枝を、屋上の縁に連れて行き、トンと軽く押した。
幸枝はあおむけの状態のままゆっくりと落下し始める。
市川は落下し始めた幸枝の体をもう一度確認すると、薄っすらと笑みを浮かべた。
「フン、これで邪魔者はいなくなった」
誰も聴く事の無い加速世界の中で市川はそう呟いた。
あとはここから離れて加速を解くだけだ。屋上から市川が立ち去ろうとした時だった。
「市川!」
加速世界の中では音の伝わり方がぼやけてしまう。
それでも屋上に駆け上がってきた大志の声は、はっきりと市川の耳に届いた。
そして市川はここに現れる筈のない大志の出現に動転していた。
「ありえない、何故ここに……」
静止したこの空間で、加速世界に足を踏み入れる事が出来る二人の能力者が今向かい合ったのだった。




